第23話 苦い、バニラエッセンス

「ハルに会いに来たの?」

 そんな風に言われるとドキッとする。

 淡い期待を持ってないと言ったら嘘になる。

 でもたぶん、ハルは予備校だろうし。

「ハルに会いに押しかけてきたりしないよ」

「そう? 別にいつでも来ていいのよ。アキならハルだって特別だろうし」

 妙に複雑な気持ちになる。『特別』ってなんだろう? 従兄弟だから、としか思い付かない。

 スミレちゃんにとって僕は、お行儀の良い親戚の男の子なんだろう? それ以上でもそれ以下でもない、たぶん。

 もしかしたら男か女かなんて関係ないのかもしれない。

 なぜなら、僕はスミレちゃんのクローンみたいな母さんから生まれたから。どちらがどちらの子供でも、性別を超えて関係ないのかもしれない。


「難しい顔ね、悩み事でもあるの?」

 僕と目線を合わせるように少し背中を丸めて、スミレちゃんは僕の顔を覗き込んだ。

「スミレちゃんと母さんは一卵性双生児なのにずいぶん違うところが多いなぁと思って」

「⋯⋯そうねぇ。どうかな? アキから見たらそう思うかもしれないけど、昔はそうでもなかった気がする」

「どの辺が?」

 適当にした質問だったけど、意外な答えに思わず反応する。

 なんていうか、僕は母さんが苦手だった。

 それは決して口には出せないけど、まるで甘いお菓子から漂う、本当は舐めると苦いバニラエッセンスのように苦手だった。昔、その香りにつられてこっそり舐めた時の後悔。父さんはそういう思いをしたことがないんだろうか?

 母さんはいつも仰々しくて、どこまで本気なのかまるでわからなかったし、僕を「愛してる」という言葉さえ大袈裟に聞こえた。

 日本で育った子供に「愛してる」と囁く母親がどれくらいいるのか? そんなにはいないだろう。

 少なくとも僕の友だちにはいなさそうだ。

 なにもかもが本心かどうかわからない。


 その点、スミレちゃんは安心だった。

 母さんより口数が少なく、冷静で慎重だ。

 一言ひとことに重みがあり、僕たちを慈しんでくれていることが伝わってきた。

 スミレちゃんが母親のハルが、うらやましく思えることも多かった。スミレちゃんになら素直に話せることがいっぱいあるような気がしていたから。

「ほら、わたしたちは性別が同じだけど、ハルとアキみたいな頃がね、あったのよ、ちゃんと。中学の先生はわたしたちの区別がつかなかったし」

「⋯⋯そんなことある?」

「あったわよ、中学まではずーっと。やらなかったけど、入れ替わってもきっと誰も気付かなかったと思うわ。髪なんて同じくらい伸ばして、黒のゴムで指定通り結わえて。

 アイデンティティってなんだろうって思い始めたのは、ずいぶん大きくなってから。わたしもサクラも、別に分けて考えられなくても良かったの。ふたりでひとつなことが当たり前で、別々になることが悲しかった」

 大人の女性の顔だった。

 その翳りは、もしかするといつも騒がしい僕の母親にもあるのかもしれなかった。

 それは僕の心を打った。


 ふっと笑顔になったスミレちゃんは笑顔のままこう言った。

「で、そんな話が聞きたかったわけじゃないでしょう?」

 にこにこした笑顔がちょっと怖かった。

 いつもとは少し違う女性がそこにはいたから。

「ハルが⋯⋯ハルが、最近ちょっと今までと違うなって思って」

「十四と十五では大きな隔たりがあると思うわよ。高校生にでもなれば、またその隔たりは小さくなると思うけど?」

 スミレちゃんの言葉は、それは些細なことだと伝えた。


「サクラは損するタイプよね。なにもかも怖がって、それを隠すようにおどけてる。だからわたし、ある日からサクラを守ろうと思ったの」

「『守る』って?」

「わたしのできることなんてたかが知れてるもの。ただ、そばにいることだけよ」

『そばにいること』、それはいつか僕たちがした約束。おかしな共通点だ。

 僕も同じ、偉そうなことを言ったとしてもできることは『そばにいること』。それ以上大きな力を僕は持たない。

「だからね、アキ。ここは従兄弟に生まれちゃったんだから、と思って、ハルが寂しそうな時、そばにいてやってくれる?」


 その意味を考える。

 まるでハルが寂しいことが前提のように聞こえる。


 それはハルが今、なにかに直面してるということ? それも受験以外のなにかに?

「別になんにもないのよ。でもほら、十五の女の子って不安定なとこあるから。

 わたしとサクラもよく話し合って別々の高校に進むことにしたのはその時期。今になればどうして同じところに進学しなかったのかしら、と思うけど」

「どうして同じ高校に進学しなかったの?」

 それまで考えたことがなかったのが不思議なくらい、大きな疑問だった。

「⋯⋯ほんとに、どうしてかしらね。大学ならまだしも、なんでかな? でもあの時は、どちらかと言うとお互いに新しい世界にワクワクしていて、夢を見てた。悪いことは考えなかった。新しい世界はわたしたちを受け入れて、別々の体験をして、それを持ち寄って分かち合えると思ってたのよ。ほんと、不思議ね」

 子供だったからかな、とスミレちゃんは恥ずかしそうに下を向いた。その仕草があたかも女子高生のようで、まるで女子高生になったハルを見ているみたいで、僕も恥ずかしくなってしまった。


 ガチャンと少し乱暴な音と、玄関のドアが勢いよく開く音がして「ただいまぁ」とハルの声が響く。

 暗くなるのが早くなってきて、時間の流れ方が掴みにくくなっていた。思っていたより長くここにいたらしい。

「あ、アキ来てる! なにしたの? 自転車があったからもしかしてって思ってたんだけど!」

 ハルはリビングの扉を勢いよく開けて、大きな声で滑舌よくそう言った。僕は「おかえり」と言った。なぜか立ち上がって。

「やだ、まだ帰らないでよね! ちょっと待ってて、手を洗って着替えてくるから」

 いつぞやの薄い部屋着を思い浮かべて気まずくなり、すとんと腰を下ろす。あれは暑かったからで、この時期にあんな格好で現れるわけはない。

 冷めたコーヒーを持て余していると、スミレちゃんが温かい淹れたてのココアをふたつ持ってきた。

 そして僕に向かって人差し指を唇に当てて、しーっと言った。

 ハルは僕もココアが好きだと信じている。

 そういうところは子供と変わらない。


 そのうち、トントントン······とリズミカルな音が響き、その音が途切れてハルが現れた。今回はスウェットだった。


 別に残念には思わなかったし、寒いのを考えたら部屋着として妥当だよなと思う。うすら寒い格好をされるより、心臓にいい。

 ハルはソファのもう一方の隅に座り、スミレの刺繍のあるクッションを抱き寄せてにっこり笑った。上機嫌であることは確かだった。

 そしてスミレちゃんを呼び付けると、何事かを囁いた。

 スミレちゃんは「ああ」と言って、クローゼットを開けると、例の、楓の葉を刺繍したクッションを僕にくれた。

「あんまり上手く刺せなかったのよねぇ。どうする? 持って帰る? うちに置いておく? それとももうひとつ作ろうか?」

 ちょっとだけ、考える。

 迷ったのはすごくうれしかったからだ。

 自分専用のクッションが、ハルの家にあるというのはある種の安心材料だ。

「ここに置いてもらってもいい?」

「もちろん」

 よかったね、とハルは言った。


 心配していたようなことは見えなかった。

 ハルがなにかの理由で孤独を感じているのかもしれないと思っていたけれど、そんなことはないようだった。

 ココアの上に浮かんだ真っ白いマショマロのように、ハルはふわふわしていた。指を伸ばして確かめてみたいくらい、ふわふわだった。

 僕は内心、安心すると共に、活躍の場がなかったことに少しだけガッカリした。そんなのはおかしいとは思ったけれど、出番がないことにガッカリした。

 ハルにいいところを見せたかったんだろう、と思うと、今度は自分にガッカリした。

「嫌なこと、あった?」

 突然ハルが話しかけてきたので驚く。ハルはぬいぐるみのようにクッションを抱いている。リラックスしていた。

「特になにも」

「ふぅん。なにか考えごとしてたから」

「······してないよ」

「ママに用事があって来たの? アキ、うちのママ、好きだよね」

 それは誤解だろうと軽い憤りを感じる。

 遠回しでいやらしい言い方は、ハルには似合わないように思えた。まるでクラスの女子の一員のように。


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