魔王と聖女と女神の家族ごっこ

稲荷竜

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総合約3万文字

上中下全3話でお届けします

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 その種族はたんに『魔王』と呼ばれていて、いち世代に一人しか生まれなかった。

 あらゆる魔族はその人物を王としていただくことになっていたけれど、魔族というのは基本的に『力こそすべて』の野蛮な連中で、魔王はその力を味方に示したことがなかった。


 何せ書類仕事ができるやつが一人もいないのだ。すべての事務作業が集まってきて圧殺されそうになっている魔王が前線に立つ機会はなく、そして魔王自身、前線に立ちたいとは思っていなかった。


 傷つくのも傷つけられるのも怖いのだ。


 そういうのが表情や動作ににじむせいだろう。魔族たちは彼を『魔王様』とは呼んだけれど、そこには敬意も畏怖もありはしない。

 それを魔王はまったく気にしていないことがさらに『魔王軽視』に拍車をかけた。さらにさらに、魔王の打ち立てた方針もまた、彼を馬鹿にさせるには充分だった。


『戦争を終わらせよう。人類と共存共栄を目指そう』だなんて。


 若気の至りだ。今ならもっと角の立たない言い回しもできる。けれど戴冠式の時に大勢の前でしてしまった公約マニュフェストは今さら『なかったこと』にはできない。


 そんなこんなで魔王は共存共栄のために法整備をし、交渉を重ね、ようやく人類との和平寸前まで漕ぎ着けた。

 魔族への根回しも終わって、あとは議会で各種族の代表に賛成をもらうだけだったのだが……


「一対九十九により、人類との和平は不成立となりました。……あなたの提唱した『議会制』による否決です。文句はありませんな? 魔王様」


 ……ああ、陰謀と悪辣さでは、年長者たちにはかなわない。

『みんなもなんだかんだ言いつつ心の底では平和を望んでいたんだ』なんて、どうして甘い夢を見てしまったのか。


 ともあれ、否決は否決。


 今度の三者会談には、戦争を続ける旨を持っていかなければならない。


「…………はあ」


 とてつもない、憂鬱。



 聖女というのは人々の希望であり、戦う力のない者たちを救済する神の遣いとされている。


 希望の光を額に宿して生まれたその少女は神殿で『聖女』としての教育をつけられて生きてきて、そうしてそのまま死んでいく。


 聖女というのは人々の前で微笑んで、手を振って、癒して、そうして迷いや不安を受け止める存在だ。

 姿を現さない神に代わって人類を守護する者。だからこそ、幼いころの聖女はとてもとても優しく育てられてきた。


「聖女さま、今日もおかわいらしいですね」「聖女さま、どうぞ人々をお救いください」「聖女さま、お菓子を持ってまいりました」「聖女さま、あなたのお示しになった奇跡に人々も感謝しております」


 だから聖女は自分の素晴らしい役割を一生懸命にこなした。

 誓ってさぼったことはない。努力をやめたことはない。

 癒しの力を磨きに磨き、慰問弔問は常に欠かさず、寝る間も惜しんで戦地に向かい、血反吐を吐きながら癒しの秘術をかけ続けた。

 人々は聖女に感謝し、涙を流してその少女を称えた。


 ところが、魔族の攻勢が強まり、人類側はだんだんと劣勢に立たされ始めた。


 そうなるとあちらこちらで聖女の手が必要になる。


 ところが聖女は一人しかいない。どこもかしこも求める。でも、東と北に同時には存在できない。


 取りこぼす人が出始めた。


 最初は『しょうがないですよ』という慰めの言葉もあった。でも、取りこぼして助けられない人が増えていくごとに、そんな優しい言葉はだんだんと消えていってしまった。


「あいつはなぜ来ない! あいつさえ来れば父は助かった!」「俺たちの納めた金でぬくぬくと暮らしているはずなのに役立たずめ!」「命に優先順位をつけるのか!」「聖女なんだろう! 特別な力を持って生まれたんだから責任を果たせ!」


 その結果として回ってきたのが、『和平』を望む魔王との会談の代表者だった。


 誰も魔族の王が本心で和平を望んでいるだなんて思っていない。きっと人類をはめるための罠に違いないと見られている。


 だから聖女が捧げられた。


 いざとなれば聖女ごと見捨てて魔王に奇襲をかけるのだ。


 囮役。それこそが聖女が最後にこなすべき尊い役割だと、そう言われた。なぜか、人々は聖女を恨んでいた。本当に理解が及ばない。


 彼女は、疲れてしまった。


「……もう、いいのかな」


 でも、ちょっとだけ安心していた。

 好きでもない人たちのために寝ずにがんばり続ける日々が、これで終わるのだと思うと、気分はなんとなく晴れやかでさえあった。



 あまりにも人類が追い詰められたことによって、ついに女神が地上に降り立った。


 神殿はその降臨にたいそう喜び、女神にどうにかして魔族を殲滅してくれないかと願った。


 ところが女神は、地上の様子をずっと見ていたために、その提案には従えなかった。

 なぜか?


「お前たち人類は何をしているのだ? 一丸となって敵にあたれば勝利はできたはず。それを、人同士で醜い争いばかりして、結果として、現状があるのだ。主神さまは大変お嘆きである。相手がいない時に人同士で争うのは、まあ、見逃そう。そこまで我々は人に期待していない。しかし、明確な『敵』が出てなお、足の引っ張り合い……特に神殿上層部はひどいものだ。神はあまねくすべてを見ていたのだぞ。お前たちの行いは醜すぎて、見るにたえぬ。私がここに降臨したのは、主神さまがこの世界を、というよりも、お前たち人類をこれ以上は庇護しないと決定したからだ。それでも私は━━」


 なおも言い募ろうとした女神の言葉は、降臨の場にいた神官の金切り声にかき消された。


 女神は捕らえられ、魔王との会談に送られることになる。

 それはほとんど意味のない誰かの思いつきであり、正論を言われて怒ったえらい人からの意趣返しだった。


 もう、神殿は神に仕える組織ではない。

 降臨した神よりも、現世での権力のほうが大事だった。


 この女神はメッセンジャーの役割をもった分霊だったから、見た目通り子供ぐらいの力しかなく、あっさり捕まった。


 三者会談の場に向かう馬車の中で、見せ物の動物みたいに小さな檻に入れられた彼女は、嘆いた。


「愚かな」


『それでも私は、見捨てない』と言いたかった。

 最後まで争う意思ある者を募って、きっとともに魔族をうち倒そうと呼びかけようと思った。


 けれど、言葉の順番か、言い方を間違えた。


 女神は幼く、そして正義感があった。もともと決闘と正義の女神なのだ。分霊になってもそのまっすぐな━━まっすぐすぎて、腐敗した人々にとって耳の痛い性格は、変わらない。


 だから女神は、人類が最後の救いの手を自ら振り払ったと感じた。

 失望と徒労感から出たため息は、ガタゴトと馬車が揺られる音に消されて、誰の耳にも届かない。



 広い広い砂しかない場所で、聖女と魔王と女神は顔を合わせた。


 彼らの周囲には人類と魔族の軍勢が大規模に展開していて、この会談のすぐあと、いや、途中からでもきっと、交戦を始めるであろう雰囲気があった。


 びょうびょうと吹く風があたりの音をかき消して、中央で急拵えのテーブルを挟み見つめ合う三者は、世界全体から隔絶しているようだった。


 三者三様に疲れ果てた顔をした者たちは、互いの表情に自分と近しいものを感じ取って、笑う。


 魔王が投げやりに切り出した。


「我らは合議により、和平を否決した。戦争は続く。きっと、どちらかが滅ぶまで」


 聖女は疲労と晴れやかさが同居する笑みを浮かべて、うなずいた。


「滅ぶのはおそらく、人類なのでしょうね」


 女神は机の上にあごを乗せるようにして、何も乗っていないその場所を見ていた。

 そこには和平を結ぶための書類が乗るはずだった。


「正義は失われた。人を滅ぼすのは、人自身の愚かさである」


 魔王と聖女はおどろいたように、その小さく美しい少女を見た。


 そして、魔王がふと思いついたように、述べた。


「ねぇ、逃げちゃわない?」


 極限の徒労感が彼の口をついて出たのだ。


 聖女は「まあ」とおどろいたあと、微笑む。


「素晴らしい思いつきだと思います」


 女神はこれまで超然とした無表情だった顔に、にんまりとした子供っぽい笑顔を浮かべた。


「それも、よかろう」


 三人は互いを見て笑い、そして━━


 その場から、あとかたもなく消え失せる。


 あとには会談中の三者が唐突に消えたことに戸惑う大軍勢だけが残された。



 両陣営の代表と言える三者が唐突に消え去ったことで、人と魔の最終決戦となるであろう戦いは回避された。


 和平決裂の瞬間に魔王の号令で飛び出すはずだった魔族軍は機を逃し、逆に魔王を脅威視し『こいつだけはなんとしても聖女に抑えさせて殺す』と息巻いていた人の軍もまた、『隠れ潜んだ魔王』への警戒のために手を出せなかった。


「貴様ら、魔王様に何をした!?」


 魔族の軍から言葉が飛ぶ。


「貴様らこそ、聖女と女神様をどこへ隠した!」


 人の軍からも叫び声が飛ぶ。


 そのあと始まったのは聞くに堪えないののしりあいだった。お互いに根拠のない差別発言を繰り返し、よく知りもしない相手を偏見だけで悪者と決めつけて罵詈雑言を吐く。


 言い回しをいかにも高尚そうに取り繕ってはいるものの、それはほとんどの中身のない、子供の口喧嘩にも劣るものであった。


 そのまま言い争いはヒートアップし、確かに険悪な空気が流れ、武器ががちゃがちゃと鳴り、互いに互いを殺意を込めてにらみあったが……


 戦いは、起こらなかった。


「ふん! 弱々しい人間どもめが! そこまで言うならば、口だけではないことを証明してみせよ!」


「そちらこそ吠え声ばかりの魔族めが! 神の加護をおそれぬならばかかってこい!」


 ……魔族は魔王を軽視していた。

 人族は聖女を差し出し、女神を捨てた。


 そうして、いざそれらの存在がすっかり消え去ってしまうと、彼らの胸中に言いようのない不安がよぎったのだ。


 しかも……


(女神の権能がいかようなものかもわからん。魔王様はどこへ連れ去られた? それは誰の仕業なのだ?)


(魔王が聖女と女神を遠くに連れ去り、自分はこのあたりにひそんでいるかもしれない)


 互いに、目の前で自分たちの代表者が消えたのは、『敵方の罠』だと思っていた。


 ……こうして一昼夜のののしり合いののち、互いの軍勢は、相手の臆病さをさんざん馬鹿にするようなことを言いながら軍を退くことになった。


 自領に戻っても、魔王も、女神も聖女もいない。

 三人は今…………



 ……『霊峰』と呼ぶしかない、大陸中央からはるか北の山があった。


 そこの周囲はすさまじい雪が降り積もる極寒にして峻険な山々なのだけれど、その一帯だけは暖かく、花々さえも咲き誇っていた。


「これなるは、勇敢なる士のために用意された館だ」


 女神の案内によって招かれた魔王と聖女は、その『館』を見る。


 神の用意した建物なのだからどれほど豪壮なものなのかと思いきや、そこはなんの変哲もない、一つの家族が暮らすだけでいっぱいというような家だ。


 ただし不思議な力は働いているようで、ほのかに光り、古いもの特有の『歴史の重厚さ』は感じられるのに、見た目はまるで新築、木製のようでいてツヤツヤした壁面は大理石のようでもある、なんとも不可思議なものだった。

 確かに『神なるもの』ではありそうだけれど……


「なんというか、勇敢なる士のために用意されたというには……」


 魔王は言い淀む。


「狭そうですね」


 聖女がにっこりとして言う。


 神を相手にしてあんまりな物言いなので魔王は慌てて聖女を見るけれど、聖女はにこにこしたまま、『何か問題でも?』と言いたげに首をかしげるだけだった。


 女神はその建物の扉の前で振り返り、二人を見る。


 七色に輝く不思議な瞳が、眠たげに二人を見上げ、問いかけた。


「━━さて、ここからどうしよう」


「は?」


 魔王が思わず呆気にとられると、聖女が「うーん」と悩ましげに唸る。


「その場のノリで全部捨てちゃいましたからねぇ。どうしましょう」

「……君たち、ずいぶん、なんていうか、イメージと違うね」

「あら? 魔王様だって、もっと苛烈で恐ろしいお方だとばかり。こんなくたびれた中間管理職のような人だなんて、想像もしていませんでしたわ」

「聖女、君、あんがい口が悪いね!?」

「『聖女』のわたくしをお望みですか?」


 その瞬間に聖女の美しい面相によぎったのは、濃い疲れだった。

 魔王はため息をつき、「いや」と首を振る。


「そういうのは、僕もこりごりだ。……僕はね、たぶん、魔王というものに向いていない。そういうものに生まれついたから仕方なくやってきたけど、本当は、こういう場所で、作物でも育てながら生きていく方が、よほど向いていると思っているよ」


「わたくしも、生まれついて聖女だったのでそれ以外に道はないと思っておりましたが……助けたい人と、助けたくない人は、います。人間なので」


「我が体は、人類最後の決戦のために遣わされた分霊なれど……人類は我が手を振り払った。ならばあとは、好きにするがよかろう」


「つまり僕たちは、三人とも、肩書きに向いてないってわけか」


 魔王が笑うと、二人も力が抜けたように笑った。


「しばらく、何も考えずに、ただ暮らしてみませんか?」


 つられて浮かべた笑顔がひかないまま、聖女はそう提案した。


 女神は「よかろう」と言い、魔王もうなずくことで同意する。


「では、これからわたくしたちは、家族ということで」

「……どうしてそう飛躍するのかな?」

「だって、きっと、これは、家族というカタチでしょう? 同じところで何の目的もなく、ただ生きていくだけの他人なんて、悲しいですよ。であれば、家族の方がいい。その方がきっと、楽しい気がします」


 言われてみればそうかもしれないと思える発言だった。


 けれど、魔王は『家族』をよく知らない。

 思い描こうとしても、『それ』はなんだかとてもおぼろげで、うまく像を結んでくれないのだ。


 聖女もどうやら、わかっていないで言っている様子だった。

 女神は……考えるまでもないだろう。彼女はきっと、人間だの、魔族だのの『家族』なんていうものを知らない。たとえ知識で知っていても、体験したことはないはずだ。


 だから魔王は笑みを深めた。


「いいね。やってみよう」


「では、あなたは『お父さん』で」


「ええ? 僕はそんな年齢じゃあないけどなあ。これでも魔族の中ではだいぶ若いよ。君ぐらいの娘はさすがにもてあます」


「では、わたくしが『お母さん』をやります。見た目は、似たようなものですから」


「私はいかにする?」


 二人の視線がずっと下に降りて、自分たちの腰ぐらいの高さにある女神の頭にそそがれた。


 虹色の瞳を持つ少女は無表情だったが、その銀に輝く長すぎる髪をきらめかせて、二人の言葉をじっと待っている様子だった。


「「『娘』」」


 魔王と聖女の声が重なる。

 そして、笑い声に変わった。


 女神は「む」と声を上げる。


「私は神であるぞ。神と言えば、母であろう」


「いやあ、そう言われても。ねぇ、お母さん」


「そうですねぇ、お父さん」


「「娘で」」


 二人の声がまた重なって、また笑い声に変化する。


 女神は「むう」と今度は不満を声ににじませたけれど……


「わかった。娘役をやろう」


 二人が引き下がらないと理解したのか、それとも神なりの論理があったのか、不承不承という様子で承諾した。


 のどけき霊峰の一角、勇士の館にて、『家族』の暮らしはこうして始まる。


 誰一人として『家族』を知らないまま、種族さえも違う三人で始めた、あまりにも穴だらけの、幸せな暮らし。



「魔王様はまだ見つからんのかァッ!?」


 魔族四公とは『不死公』『悪魔公』『異形公』『精霊公』を指す。


 その中で魔王軍の次席、すなわち実質的な支配者と呼べる存在は『不死公』であろう。


 真っ白い肌に真っ赤な瞳の夜の支配者、すなわちヴァンパイア。

 すべての不死者たちの王にして魔王軍全体を動かす元帥。それこそが不死公と呼ばれる美しき壮年の男性であった。


 平時は穏やかで底知れぬ雰囲気を宿したこの男は今、『魔王の不在』という事態を前に醜く騒ぎ散らし、配下どもに当たり散らすほど我を失うありさまだった。


 魔王が、恐ろしいから。


 戦闘能力を恐れている?

 否である。今代の魔王が戦っている姿など誰も見たことがない。いや、幼いころには腕試しを披露する機会もあったが、王の力を見るため用意された、大人しい低位の魔物にさえおびえてしまって手出しできないありさまだった。

 それは平和な時代の人間が見れば『優しさ』と評価される在り方だったかもしれない。しかしこの時代の魔族にとっては『臆病』『惰弱』以外の何者でもなく、それゆえに魔王は『戦う力なし』と言われていた。


 では、その知謀を恐れている?

 それもまた否だった。そもそも魔王が知謀を発揮したことなどない。

 かの存在は魔族を統べる王に産まれていながら、戦略、戦術において敵軍を陥れたことは一度もないのだ。

 かの者がやっていたことは兵站の管理だとか武装の管理だとか、低位魔族の損耗計上だとか、あるいは人間との交渉、手紙のやりとりなどという臆病なまねさえしていた。

 それで魔族側に死者が減ったことはすべての魔族が認識しているけれど、そもそも死を恐れ回避しようとするなどという有様はあまりにも情けないため、そんなものを恐れる魔族は『魔族』と見なされない。

 その魔王の采配によって死を逃れた魔族からさえ『臆病者』と呼ばれるかの存在の知謀など、どこに恐るべき要素があろうか?


 ゆえに、不死公が恐れているのは、ただ一つ。


「あの魔王は、【王権】をまだ二つ残しているのだぞ……!」


 魔王がなぜ産まれた時から魔王なのかといえば、それは両の瞳に【王権】を宿しているからだ。


 使い切りの絶対命令権。すべての魔族が強制的に従ってしまう『魔族のはじまりから存在する、すべての魔族の魂に刻まれた契約』。


 あの王が『王権を以て命ずる』と述べるだけで、瞳の一つにつき一度きりだが、あらゆる魔族がその命令に従うのだ。


 ……失敗した。

 あの魔王が情けない臆病者だとわかった時点で殺しておくべきだったのだ。不死公たる自分こそが魔族の王として立つべきだったのだ。


 しかし情けない魔王だからこそ四公はみな『王権』を自分のために使わせようと懐柔を試みた。

 そうして懐柔を試みるうちにあの王は成長してしまった。

 力も知謀も恐るるに足らず。しかし、魔王の基礎性能は四公であろうが侮り難い。一瞬で殺すことは難しい。

 そして一瞬あれば【王権】の発動が叶う。……暗殺者を差し向けようともその背後に何がいるのかを察して、『背後』もろとも死を命じられるかもしれない。そのぐらいの知能は身につけてしまったはずだ。


 魔族の中で上り詰めた地位にある四公は、失敗を恐れて誰も魔王に手出しできなくなっていた。

 そもそも、ほとんど傀儡なのだし、【王権】を使う気配もないから、手出しをする理由がなかった。他のことで忙しかった……


 さまざまな言い訳が浮かぶけれど、こうして消息を絶たれてしまえば、いつどこで気まぐれに【王権】を行使されるか不安でたまらない……!


「やはり殺しておくべきだった……!」


 魔族四公筆頭『不死公』は、己の侮りを後悔していた。



「うわ、すごい。本当に植えたとたんに芽が出るんだ」


 霊峰には小さな畑が用意されていた。

 短い畝が四つあるだけのそこは、年貢を納めた上で食っていかねばならないとするとあまりにも頼りない広さだけれど、『家族』三人がつつましやかに生活するだけならば充分な広さがあった。


 まして神の恩寵を受けている土である。撒いた種はすぐさま芽吹き、病害はなく、味も大きさも素晴らしいものが実るとされていた。


 ここは『勇士の館』。ここに招かれるのは特別な存在であり、そのような存在を飢えさせ、苦労させるようなことはありえてはならない神の庭。

 ただしここには期限があるらしい。何せ神はこの世界をすでに見捨てた。この庭が恩寵を受けていられるのも、神の力の残滓が尽きるその時までだ。結界がないあたりも、神が『そっぽを向いた』影響らしい。


 まあしかし、と魔王は思う。


「そもそも僕らに食糧なんていらないんだけどね」


 魔王は『機能』だった。

 魔族というものの方向性を定めるべしと存在する『はじまりの契約』の擬人化。二つの瞳に一つずつ【王権】を宿す生き物。


 ……ああ、本当の本当に平和を望むなら、魔族を相手に『戦うな』と【王権】を以て命じればよかったんだ。

 それをしなかったのは……


「痛いのは、嫌だしなあ」


【王権】はその黄金の瞳に一つずつ宿る機能であり、一回使い切りだ。

 一度命じれば片目が、二度命じたならもう片方の目が潰れる。


 目が潰れるだなんて恐ろしいじゃあないか。どれほど痛いのか想像もつかない。

 魔王は痛いのも苦しいのも嫌いだった。まして片目を失って二度と光が戻らないなどと、想像するだけで立ちくらみがする。


 ……それに、ただ『戦うな』と命じたところで、戦いが終わらないのは充分に理解していた。

 戦いには常に『相手』がいる。

 魔王が魔族に戦いを禁じたところで、そこから始まるのはただの蹂躙だ。戦う力を持ったままの人による、戦う力を失った魔族の蹂躙。共存共栄にはならない。

 けっきょくのところ、平和は信頼がなくては成り立たないのだ。

 心の底から根拠を必要とせず相手を信じることができれば理想。打算と利益に基づいた信頼を相互に獲得できれば最上といったところ。


 まあ、聖女と女神の口ぶりだと、そもそも『和平』自体が砂で建てた塔のようなものだったらしいけれど。


 魔王はもちろん魔族の滅びも望んでいない。

 彼らがいいヤツだとは思わないけれど、自分が王として治めることになってしまった種族なのだ。その絶滅を願うほど薄情ではない。

 ……いや、むしろ。

 薄情だからこそ、絶滅までは望まない。


 けっきょく、痛みも苦しみも、価値がある相手のためにしか捧げられないのだ。


 魔族のために痛いのも、魔族のために苦しいのも、ましてや片目を失ったり、命を失ったりするのも、イヤだった。

 殺したいほど憎くない。あたりたいほど怒れない。滅びられるのも面倒くさい。なんていうか、恨みとか怒りとかを向けられるのが、げんなりする。そもそも、命をそんな気軽に奪っていいとも思えないし。


 ようするに。


「……ああ、僕は、自分の臣下たる者たちのことなんか、どうでもよかったのか」


 畝に種を埋めながら笑ってしまう。


 思い返してみても『惜しい誰か』の顔を思い浮かべることができない。


 たった一人で発生する『魔王』という種族には、命懸けで守りたい相手も、殺してやりたいほど憎い相手もいなかった。ただそれだけの話。


 白い手を黒土まみれにしながら畑を世話していく。

 最初に埋めた種は魔王がすべての畝に等間隔に種を埋め終えるころには芽吹いており、女神の話では二日か三日で立派な実をつけるらしい。


「お父さん、ご飯ですよ」


 聖女の声がして、長身の青年はしゃがみこんでいた体勢から立ち上がり、腰をとんとん叩いてから「うー」と伸びをした。


 見上げた空は、この場所の上空だけ清々しい青空が広がり、あたたかな陽光が差し込んでいる。

 深い深い雪の山、分厚い分厚い灰色の雲の中にぽっかり空いた円。ここだけ別な世界のような錯覚を覚えてしまう。


 けれどここは、『この世界』の一部なのだ。


 神が見捨てた世界は閉じてしまった。


 タイムリミットつきの楽園で、家族を知らない三人は、家族ごっこに興じ続ける。


 誰も正解を知らない遊びは、世界の片隅でひっそりと続いていた。

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