六、騒街の姫(六)

 それから半刻、宝劉の待つ神社に、子どもを連れた夫婦が現れた。連孝一家だ。山に隠れていたため着物は薄汚れているが、足取り確かに宝劉の前に進み出る。

 連孝の双眸に宿る碧い瞳が、神の眼だ。

「待ってたわ」

 宝劉は一家に呼びかける。連孝と、妻の怜山は頭を下げ、娘の凛山は表情をこわばらせる。

「眼を返してちょうだい」

 宝劉は強い口調で言った。

「貸すのは三日という約束だったはずよ。神様との約束を破るとどうなるか、もう十分わかったでしょう」

「恐れながら、申し上げます」

 はっきりした口調で返してきたのは、怜山だ。

「私たちは、神様の怒りに触れるとどうなるか、全く存じませんでした。はっきりと知っていたら、逃げたりしなかったかもしれません」

 その言い分に、宝劉はむっとする。劉家がもっと神との約束事を周知していたら、こんな事にはならなかったと言いたいのか。

 しかし、ここで怒ってもこの災害は解決しない。

「神様との約束を破るのは大罪よ。見てわかるでしょう? このままでは、この国が亡ぶわ」

 宝劉はなるべく落ち着いた声で言った。

 しかし、怜山は引き下がらない。

「国よりも夫の眼を優先する事の、何が悪いのですか。赤の他人の命より、愛する人の眼の方が大切だと、そう思う事のどこが罪なのでしょう」

 宝劉は閉口する。国を危機に陥れておいて言い訳とは、という呆れもあるが、恋愛というものに疎いため、妻の夫を想う気持ちがよく分からなかったのだ。

 沈黙が訪れる中、娘の凛山が口を開いた。

「お父さん、また凛花の事見えなくなっちゃうの?」

 曇りのない瞳に見上げられ、宝劉が答えられずにいると、少女はわあっと泣き出した。

「嫌だよぅ、せっかくお父さん、凛花の事見えたのに。嫌だぁ」

 鋭い眼と泣き声に囲まれ、宝劉は困惑する。いったいどうしたらこの場を収められるのか、分からなかった。

「お前たち、もう、止めなさい」

 今まで黙っていた連孝が、初めて声を発した。

「眼を返そう。これ以上、人に迷惑をかけられないよ」

「でも、あなた……!」

 妻の怜山が食い下がるが、連孝はそれを制す。

「生まれて初めて、お前たちの顔を見られたのは嬉しかった。世界はこんなに美しい所なのかと、感動したよ」

「だったら……」

「でも、たかが眼だ。また何も見えなくなるが、だからと言って死にはしないよ」

 そう妻に言い、ひざを曲げて娘と視線を合わせる。

「大丈夫だよ、凛花。眼が見えなくなっても、父さんが凛花を愛してる事は、変わらないからね」

 連孝は宝劉に向き直り、深々と頭を下げた。

「申し訳ございませんでした。お借りした眼を、お返しいたします。多くの方にご迷惑をおかけし、国を危機に直面させてしまいました事、心よりお詫び申し上げます」

 こうして、神から眼を借りた男は、神に眼を返した。

 人間が約束を破った事実は消えないが、碧い神は人間を赦した。

 町の上空を覆っていた黒雲は晴れ、風は落ち着いて春の陽気を取り戻す。鳥の声も空に響き、草木は生き生きと背筋を伸ばした。

「感謝するぞ、劉家の者よ」

 眼を返された神は、宝劉をまっすぐ見つめて言った。

「もし眼が戻らなかったら、私は邪神に身を堕としていただろう」

「私は劉家の者として、すべき事をしたまでです」

 拝礼している宝劉も言葉を返す。

「貴神がご無事で本当に良かったと、心から思っております」

「うむ。そなたも、無事で良かった」

 そう言われて、宝劉ははっとした。今対峙している相手は神だ。もし神自身が邪神になった場合、劉家が何をするかも知っている。

「……ありがとう存じます」

 涙が出そうになった。自分は危うく死ぬところだったのだ。今になって、その恐怖が襲ってくる。

「世話になったな」

 神は相変わらず淡々としゃべるが、その口調には安堵と優しさが溢れていた。

「私の相手をして疲れただろう。ゆっくり休むといい」

「はい」

 その言葉に甘え、宝劉は本殿を出る事にした。この神も、もう大丈夫だろう。

「それでは、これにて失礼させていただきます。貴神におかれましては、これからも我等が民をお守りくださいますよう、お願い申し上げます」

「承知した、劉家の者。そなたに多くの幸のあらん事を」

 宝劉は本殿の外に出ると、その場に座り込んだ。

「殿下!」

 彩香が慌てて駆け寄ってくる。

「どうなさいましたか。神様に何か……」

「違うわ」

 彩香に助け起こされながら、宝劉は身を震わせる。

「怖かった……」

 改めて一連の騒動を思い出す。先程の神の言葉もあり、自分の身に起きた危険を認識すると、改めて恐怖が沸き上がってきた。

「生きてて良かった……」

 人身御供になる覚悟を決めるなんて、数日前の自分はなんて蛮勇を持っていたのだろう。今なら舜䋝が取り乱した気持ちも、分かる気がする。

「あら? 舜䋝は?」

「先程、お戻りになられましたよ。社務所で待機しております」

「そうなのね。燿と空鴉にも早馬を。戻ってくるように伝えてちょうだい」

「御意。殿下も少しお休みになってください」

「そうするわ」

 足の震えも落ち着いてきた。宝劉は立ち上がり、彩香と共に社務所へ行く。

「宝劉様、ご無事ですか」

 建物に入ると、すぐに舜䋝が駆け寄ってきた。

「ええ、何ともないわ、大丈夫よ」

 宝劉が言うと、舜䋝は安堵の表情を見せた。

「今、ちょうど茶が入ったところです。いただきましょう」

「そうね」

 座布団に腰を下ろし、三人は宮司の持ってきた茶をすする。

「それにしても、山に隠れてた連孝一家を見つけだすなんて、さすがね、舜䋝」

「ありがとうございます」

 やはり舜䋝を単独行動させて正解だった。他人の前では、彼が本領を発揮するのは難しい。

 舜䋝がいなかったら、自分は今頃どうなっていただろう。宝劉はじっと舜䋝を見つめる。

「舜䋝」

「はい」

「ありがとう」

 舜䋝は少し目を丸くした後、照れたように微笑した。

 温かい茶を飲んでほっとしたのだろう、宝劉は大きなあくびをする。

「安心したら眠くなってきたわ」

「左様でございますねぇ」

 彩香もどこかとろんとした眼をしている。

「宿に帰って寝ましょうか。僕も眠いです……」

 舜䋝も眠気に抗えない様子で、眼を閉じる。

 そして三人とも、その場で眠ってしまった。

 部屋の外から様子を窺っていた宮司が、口元を緩める。その笑みは怪しく、不気味で冷たいものだった。


 騒動のあった街から東に八里、森の中を移動する影があった。

 木から木へ飛び移るその影は、群れからはぐれた猿ではない。

「街道を歩いて帰るより、こっちの方が速いもんね」

 燿は上機嫌で、次の枝へ跳ぶ。普通の人間には到底できない動きだが、彼には朝飯前だ。

 神の眼を借りて逃げた男が見つかったという。万事解決したようで、街の上空に見えていた黒雲も姿を消した。

 主人から引きあげてくるよう指示もあったし、宝劉の元へ戻るのである。

「この調子だったら、あと一刻くらいで街に入れるな」

 街中を歩き、他の人間に合わせて移動するのもいいが、こうして一人、本領発揮して身体を存分に動かすのも気持ちがいい。

 そんな様子で楽しんでいたので、燿は上から降ってきた網に気付くのが遅れた。

「わぎゃ!」

 突然降ってきたそれに自由を奪われ、木から落下する。慌てて受け身をとろうとするが地面にたたきつけられ、燿は気を失った。


 一方その頃、空鴉は攻撃を受けていた。

「何なんですか、あなたたちは」

 相手に問うても答えは無い。

 先程まで、協力して男を探していたというのに、宝劉から街に戻るよう早馬のあった途端、揃って空鴉に武器を向けた。

 空鴉は鏢を飛ばして応戦したが、今は敵に囲まれてしまっている。

 これはまずい。空鴉は自分の武器を手にして、息を切らしていた。

 敵が襲い掛かってくる。何とか応戦するものの、多勢に無勢だ。

 後ろから硬いもので殴られ、空鴉は敵陣の真ん中で気絶した。

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