25,危機の合間に






 作戦は順調に推移していた。想定していた通り進められていたのだ。ファーストコンタクト時に加えた一撃、続く追撃、悉くがクリーンヒットして左腕を奪うことにも成功している。

 ――だというのに、だ。

 ロイ・アダムスは薄皮一枚下で這い回る、静電気に似た戦慄の感覚に焦燥させられていた。


(クッ……!)


 両手に嵌めたメリケンサックは悪魔の住処である魔界に生息する、ドラゴンの鱗を加工して造られた衝撃槌である。装着者の魔力に呼応して打撃力を高める性質を持ち、更には打ち込んだ相手の体内に自身の魔力を浸透させ、相手の異能や魔術などの発動を阻害する機能が搭載されていた。打ち込んだ魔力が一定量まで到達すると、内部で自らの魔力を爆発させることもできる。

 これを装備したロイの打撃力は、【下界保護官】たる上級天使達にも通用する位階に達していた。すなわち白兵戦状況下に於ける戦略兵器と称しても過言ではない武器だということだ。


 ――であるのに。既に数十にも及ぶ拳撃を見舞っており、下級天使なら一撃で撲殺できる威力の拳打を大量に受けているのに、上級天使の後継たる無性の天使は健在のまま。


 内部爆破は機能せず。如何なる異能か、負わせたはずの傷が全快している。奪ったはずの左腕も再生して、奇襲の意趣返しだと言わんばかりの逆撃に用いられ、見事に殴り飛ばされてしまった。

 腰を抜かして座り込んでいた女の首を掴み、麗しい天使に対する盾として利用して接近し、雨霰と拳打を打ち込んだ。あらゆる反撃を初動の時点で潰す、コンパクトに纏めた連撃を食らわせ、瞬く間に血達磨にしてやりもしたのだ。――だというのに、一方的に殴り続けているロイの方こそが、実は追い詰められているのだと誰が理解できるだろうか。


(なぜ死なない……!)


 そう、ロイは既に全力を振り絞っていた。

 天使の体は人間に似ている。いや、正確には人間が・・・天使に似ている。もともと人間とは天使を大幅にグレードダウンさせ、大量繁殖に最適化された種なのだ。故に肉体の構造が似ているのは自明であり、そうであるからこそ行動の起こり・・・を事前に読んで潰すのは、白兵戦技能に特化して習熟したロイにとって容易であった。

 経験の浅い、生まれたての赤子。エヒムと呼ばれていた天使は未熟なはず。

 ロイは特製のメリケンサック【竜顎】を装備していなくとも、素手の打撃で山を掘り進めていける英雄級の実力者である。それが大悪魔の加護を受け膨大な魔力を獲得し、【竜顎】を用いて数十倍にも増した打撃力を発揮しているのだ。相手が上級天使であっても、既に殺し切れているはずのダメージを負わせているはずなのである。なのになぜ死なない? なぜ立っていられる?


 懐疑するも、卓越した技量を有する戦士としてのロイは事実を悟っていた。


 踏み込んだ脚の角度、腰の捻転、肩の駆動、肘の回転、拳のインパクト・タイミング。いずれもベストなものを選び続けた結果、ロイに殴られ続けるエヒムと名乗る天使は――着実に、そして確実にクリーンヒットを避け始めているのだと。

 顔面を抉る拳打を首を後ろに逸らしながら、顔を左右に揺らして打撃時の衝撃を逃がし。顎を狙い脳を揺らす為の拳撃を、膝の力を抜いて僅かに体勢を崩して打撃ポイントをズラし。潰されると分かっていても敢えて反撃の素振りを見せ、肩や腰への打撃を誘発し、致命的な攻撃を受けるタイミングを失くしている。次第に精度を増すダメージを減らす防御技能が致命傷を負わせない。


 そして遂にエヒムはロイの連打が生む、生き地獄に等しい打撃の檻から脱してのけた。


 ロイは格闘戦のプロフェッショナルだ。決して焦ったからと大振りの拳打を放つことはない。だがペトレンコが天災的天才と称した人外は、ロイの打撃を異常な学習速度で学び取り、一瞬とはいえロイの手首を掴んでみせたのだ。ゾワリと総毛立ったロイが、咄嗟に手首を半回転させて天使の手を弾いた瞬間、僅かに生じた隙をエヒムは見逃さず、如意棒を振るってのけたのである。

 躱さざるを得ない、見事な反撃。ロイはまんまと自身の間合いから脱してみせたエヒムを睨む。

 天使エヒムは死に体だ。背面を除く全身に打撲の痕がない箇所は存在せず、いたるところから出血してボロ雑巾のようになっている。着込んでいたスーツも襤褸同然だった。だが――


「ペッ……『全快』『修復』」


 血の混じった痰を奥歯と共に吐き捨てた天使エヒムが、力ある言葉を口にした途端、その身に刻まれていたダメージがなかったものとして掻き消える。あまつさえ衣服すら新品同然となった。

 堪らず苦笑する。上着ベストを脱ぎ捨てこちらを見据える銀の瞳に、神聖を見限り悪魔信仰者に転身した人間は、不覚にも魅入られそうになってしまったのだ。在りし日の信仰の日々が脳裏に蘇りそうになるのを、奈落のように黒い失望を思い返すことで封じ込める。そして冷静に戦力差を精査する為、ほんの少しでも時間を稼ぐ目的で口を開いた。


「呆れた打たれ強さだ。お前はサンドバッグの生まれ変わりらしい」

「……急に喋りかけるな。下衆の声で耳が腐る。俺と気安く話せる友達にでもなりたいのか?」

「つれないな。お前が此の世で見る最後の顔かもしれないんだ。少しは打ち解けていた方が、お前も無念なく逝けるかもしれないだろう?」


 言いながら気づく。意図していなかったが、ロイの言葉が通じている、と。

 天使エヒムは日本出身。現代がグローバル社会である以上、堪能な英語能力があっても不思議ではないが、発音までネイティブなのは些か腑に落ちない。

 もしや天使フィフキエルから継承した知識を万全に運用できているのか? だとしたら脅威度は跳ね上がる。知識に経験と実力が釣り合ってしまえば、ロイが単身で勝てる相手ではないのだ。

 だが肝心の実力はまだ手の打ちようがなくなるほどではない。驚異的な成長率なのは明白だが、短期決戦に持ち込めたなら単独撃破は能うだろう。

 故に分析する。

 天力の籠もった言葉により、天使エヒムは全快してのけた。衣服の修復と左腕の再生まで成してみせた上に、急展開について行けず立ち往生する見込みがあった愚かな民衆まで避難させた。

 天力を宿した言葉が現実に作用する力なのだろう――エヒムの前身になかった能力だ。汎用性を含めて極めて危険な力であると評価する。これに加えフィフキエルの力まであるとすると、本格的に成長される前に叩かねば、主である大悪魔メギニトスの脅威になる。


 最後にメリケンサック【竜顎】の特性が通じていない理由に憶測を立てる。正鵠を射ている保証はどこにもないが、有り得るとするならば流血と共に天力で魔力を押し流しているのだろう。言うまでもないことだが、そんな真似は普通なら自殺行為にしかならない。失血死が避けられない結末となるからだ。だというのに堪えた様子がないのは……単に相手が普通ではないからだろう。


「スゥ……」


 細く、しかし深く、一気に空気を吸う。自身の背後から無数の魔力の塊が襲来するのを感じた。ペトレンコの判断により、人造悪魔の軍勢が投入されたのだ。――作戦は、まだ順調である。より正しく言うなら、この段階に到っても仕留め切れず長引いているのか。

 本来ならこの段階までに殺せていたはずなのである。最悪のケースを想定して、未だに予測の範囲に留まっているとはいえ……これ以上長引かせてはこちらの想定を上回られる可能性が高い。

 迅速に、一気に終わらせる。なぜならば。


「俺が手に負えなくなるかもしれないから、か?」

「………!」


 心を読まれた? ニッ、と意地の悪い笑みを浮かべたエヒムが嘲る。


「顔に書いてある。ポーカーフェイスは苦手らしいな」


 エヒムはそう言うが、そんなはずはない。ロイは無駄に表情を動かしていないのだ。密かに動揺するロイを前に、如意棒を縮小してホルスターに収めたエヒムは穏やかな殺意を滲ませた。


「俺も驚いてる。分かるのさ、お前がどう動き、どう対処すればいいのか。咄嗟に下す判断の精度が増しているのも、どう動けばお前を殺せるのかも、少しずつ見えてきた。だからもう暫く遊んでいけ。言っただろう……? お前は、楽には殺さないとな」

「強気だな。私を殺す算段が付いたと言っているように聞こえるが」

「そんな算段は立っていない。立っていないが分かる・・・のさ。俺は、お前を、殺せると」


 シャツを締めるサスペンダーが両脇に現れる。

 履いていたズボンもタイトなパンツに変化し、スポーティーな印象に格好が変わった。

 両手に嵌めるような素振りをすると黒い手袋が現れ、天使エヒムは白翼と黄金の環を消し去る。トントンと軽くステップを踏んだ後、エヒムは好戦的な所作でクイッとロイを手招いた。

 ロイは堪らず失笑を漏らす。まさか武器を収めて、格闘戦を自分とするつもりなのか? 力量差は未だ大きいと、骨の髄まで理解できたはずなのに……舐めているのなら大変結構だ。

 救世主の再来を討てるのなら、ロイ・アダムスの培ってきた全てを擲ってもお釣りがくる。


「ならば試させてもらおう。人間わたしが上位者をころせるのか――人の手は神に届くのか。存分に」


 東京の上空まで辿り着いた悪魔の軍勢を示すように両腕を広げ、ロイ・アダムスは嗤った。









  †  †  †  †  †  †  †  †









 最終戦争ハルマゲドン前日。

 そう形容するのが適当だと思わされる、此の世の終わりが迫っているかのような光景だった。


 人造悪魔――正確には完成した人造悪魔の試験型プロトタイプ。廃棄されるのを待つばかりだった悪魔の軍勢は、大衆がイメージする分かり易い『悪魔』の如き容貌をしている。

 黒い体皮に隆起した筋肉、巨大な蝙蝠の頭部と翼、邪悪さを表す血の色の双眸。体長は3メートルにも届こうかという巨躯であり、漲る邪悪さは魔力の発露だと言えよう。

 まさに悪魔だ。フィクションの世界にだけ生息する、架空であったはずの悪の権化。百を優に超えるその軍勢が、東京上空に達したその時、熱海景は呆然と空を見上げて呟いた。


「なに……あれ……」


 聖天使の『言霊』は作用している。間違いなく効力を発揮している。だが戦闘神父に奇襲の為の盾にされた際に腰が抜けて、立ち上がることすらできなくなっていた。

 これでは逃げられない。

 だがそんなことよりも、極一般的で平凡な少女である景には、自身の目に映る全てが信じられないもので。今に降りかかりそうな災害を前に、無力な子羊のように縮こまるしかなかった。

 天使様に変身した綺麗な人と、神父のコスプレをしている美形の青年が、目にも留まらない超高速でアクション映画のワンシーンのように殴り合う様も。東京の高層ビル群を薙ぎ払い、ガラスやコンクリートの破片を撒き散らしながら進撃する悪魔の軍勢も。全てが全て現実のものとは思えない。目の前の光景を現実のものだと受け入れきれなかった少女は、乾いた笑みを浮かべた。


「あ……はは……ゆ、夢、だよね……?」


 そう、夢だ。夢に決まっている。だってこんなの、絶対にありえない。

 自らに言い聞かせる自己暗示の言葉は、無力であるが故に自身の心を守る為の自己防衛だった。

 だが健気な自己防衛は意味を為さない。景の真上を一体の悪魔が通り過ぎた直後、その悪魔が破壊したビルの大きな破片が頭上に落ちてきたのだ。

 人間一人、容易に押し潰して余りある瓦礫。それを見上げた景の目には理解の光は宿されておらず、少女は成す術もなく押し潰されて肉片と化す結末を迎えようとしていた。


 しかしその小さな悲劇は阻まれる。


 突如として瓦礫を打ち砕き、凄惨な死から助け出してくれたのは、見ず知らずの他人だった。

 ダークブラウンの髪を短く切り揃えた、藍色の瞳のシスターである。

 身動きのしやすいように改造された修道服に身を包んだ西洋人の美女は、両手に握り締めた厳ついトンファーを振り抜いて、心配そうな眼差しで景を見下ろしていた。


『――無事ですか、迷える人』

「……えっ、あ、ぁ……」

『無事なようですね。イーサン、彼女を安全なところへ避難させろ』

『了解。すぐ行って戻ってくるんで、それまでヘマしないでくださいよ、副長殿』

『減らず口を叩く暇があるのか? さっさと行け!』


 流暢な英語。日本語ではない。故に夢見心地は覚めなかった。景は英語が苦手なのだ。

 夢の中にいるとしても、危ないところを助けられたのならお礼を言うべきなのかもしれない。漠然とした心境のままシスターに対して感謝の言葉を伝えようとした景は、根っからの善人だった。

 だが気がつくと景のすぐ後ろに神父が立っている。そして有無を言わさず神父の肩に担がれ、景は目を白黒させてしまった。やはり急展開の連続について行けていないのだ。


『総員傾注!』


 シスターはこれ以上一般人に時間を割く気はないらしい。トンファーを装備したシスターを中心に集結した、カソック姿の男達の集団に向けて号令を発したのである。

 景を肩に担いで走り出した神父は、瞬く間にバイクの最高速に等しい速さに達し、悲鳴を上げる少女を無視して疾走していく。余りの恐怖に意識を薄れさせ、失神してしまった景はこうして退場させられたのだが、彼女がいなくなるのを見届けることはない。

 シスターは覇気の充実した声音で大喝した。


『これより無法を働く悪魔共を一掃する! サーチ・アンド・デストロイだ! 私はフィフキエル様の援護に向かうが、貴様らは二人一組ツーマンセルを崩さず敵に当たれ、いいな!?』


 了解ッ! と唱和される。東京の一角を破壊し尽くさんとする悪魔の群れを掃討せんと、急行した【教団】の精鋭部隊総勢32名が散開する。

 たかが人間如きと悪魔は嘲るだろう。だが天使フィフキエルの加護に与る精鋭部隊こそが嘲るのだ。下級悪魔にも満たぬ雑魚ばかり、駆逐するのになんの苦労があろうかと。

 連携も何もなく無作為に破壊を撒き散らし、火の手を放つ不浄の悪魔共を狩る為、神父達は光の刃を形成する筒と拳銃を手に交戦状態に移行する。それを尻目にシスターは、探し求めていた敬愛する主のお傍に馳せ参じようと疾走した。そして言うのだ、増援に来たと。


 主の危機を救う。優れた下僕しもべとしてこれほどの幸福があろうか。これほど存在意義を示せる場が他にあるのか。燃え上がる信仰心を胸に、エーリカは崩壊していく街の中を疾駆して。


『――ああ、もう。こうも最悪のケースに行き当たるなんて、本当に嫌になるわ』


 しかし、忠実な信徒であるシスターことエーリカ・シモンズの行く手を阻む者が現れた。

 わざわざ通せんぼをするような行儀の良さはない。わざわざ語り掛ける愚かさもない。当たり前のようにエーリカの横合いから白い影が突進し、彼女が驚異的な反応速度で固めたガードごと、強引に撥ね飛ばした怪物がいた。

 それは毛むくじゃらの、白い犬だった。ポピュラーな悪魔の群れに匹敵する体躯の大きな犬。大量のヨダレを地面に垂らし、アスファルトを溶かした白犬から女の声が発されている。


 交差したトンファーで白犬の頭突きを防いだエーリカは、軽やかに着地しつつも冷淡に悪魔を睨む。


『どうして【教団】の犬がこんな時に、こんな所へ現れるのかしらね。お蔭で段取りが狂いそうよ。だから……お願いよ、ボーニャ。さっさとその女を殺してちょうだい』

『分かッタ! 分かッタ! ボーニャ、アガーシャの言うコト、聞く!』

『………』


 エーリカはこめかみを痙攣させる。

 本来の隊長であるゴスペルが本部に招集されている今、なし崩しとはいえ己こそが天使フィフキエルの随一の下僕であるのだ。であるのに、満足に役目も果たせないとあっては信徒の名折れ。行く手に立ちはだかる白犬の悪魔を無機質に見据えて、敬虔な戦闘シスターはトンファーを重ね硬質な音を響かせた。


『おぉ……フィフキエル様。愚かな私に試練をお与えになるのですね? 眼前の汚物をただちに便器へ流せと……ッ! であれば今少しの猶予をお与えくださいッ! 今すぐに片付けて、御身のお傍に駆けつけましょう!』


 エーリカにとって、悪魔とは対等な敵ではない。存在そのものが許容不能な汚物でしかなかった。


 故に殺意はなく、敵意もなく、純粋な信仰のみで殺害できる。


 言葉通りの汚物を前にしたかのように、心底からの嫌悪を隠さず表に出したエーリカは、狂信に突き動かされるまま白犬へと襲い掛かった――








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