08,悪魔退治のすぐそこで(上)






 複数の獣のパーツを、無作為に組み合わせた姿の怪物。兎、熊、獅子、蝙蝠――キメラと形容する他にない化け物は、自らを繋ぐ枷が破壊された瞬間から自由を手に入れていた。

 だが自我が発生してまだ間もない怪物である。最も古い記憶は統一された衣服で揃え、嫌な気配を漂わせる人間達が迫ってくる光景だ。なぜか攻撃され、痛いと思った。あらゆる欲望も、あらゆる雑念も持たない誕生直後の無垢とすら言える状態だったこともあり、その怪物は少しの痛みにすら怯え、堪らず逃げ出した。痛いのは嫌だとグズる幼子のように。


 ――直後のことである。外見通りの獣に等しい本能で、怪物は自身の危機を察知した。


 天使だ。地上に存在する、僅か十二体の本物の天使。

 だがそのたった十二体で任を成す、あらゆる悪の天敵である。

 怪物はその姿を感知した。輸送ヘリの中で寛ぐ姿を、ヘリの装甲越しにはっきりと視た。

 本能的に、三つのことに気づく。

 雑念がない無垢な状態だったのが、その怪物には幸いした。

 余計な理性で思考にノイズが走らなかったのだ。

 故に悟った事実を受け入れられたのである。


 格が違う。対峙した瞬間に殺される。あらゆる意味で歯が立たない。

 逃げられない。ここで殺される。逃げ回っても天使とその配下の人間に殺される。

 ――殺せる・・・今なら・・・


 どういうわけか、天使はこちらを見もしていない。気づいていないのではない、逆に明らかに気づいている。しかし格の差も同様に見抜かれ、自分が手を下すまでもないと侮ったのだ。

 天使の心中など怪物は知らぬ。ただ事実だけを認識している。

 幸いだったのはその天使は自らの力の多くを、配下の人間に割いて加護を与えていたこと。それにより本来よりも大幅に弱体化しており、力を与えられている配下も別の人造悪魔を仕留める寸前にいたことこそ幸運だった。それによりこの瞬間だけはこの怪物の周りは手薄であり、一か八かの賭けに出る余地を生んでしまっていたのである。

 更に。天使は、驕っていた。たとえ自身の力が弱まっていても、なお力の差は歴然としている。天使は怪物より深く勘付いていたのだ。とうの怪物が自身との格差に気づき萎縮した、と。故に油断していた、まさか自分に向かってくることはないだろう、なんて。


 ――ヘリの装甲を突き破り、間近に迫った怪物を見た時の天使の顔は見ものだった。


 え? と驚いた顔をしていたのである。果たして怪物の獅子の頭が持つ、豊かな鬣が蠢き、生まれた時から存在した知識にあった武器に変化した。間近で放った対物ライフルが女の腹部に風穴を開ける。逃れようと身を捻っていた背中に、刀身だけの刀で斬りつける。

 ほぼ同時に渾身の頭突きを見舞い、天使を吹き飛ばした怪物は愕然とした。

 油断を突いた、不意を打った、今出せる全力を振り絞った。なのに、それでなおも死んでいない。

 致命傷を与えられはした。だが殺せていない、人間基準の致命傷程度では死なないだろう。


 そこからはもう必死だった。知識として知っている、天使が死なないと人間に与えられた加護は消えない。つまり天使を傷つけられ激昂した人間の群れと戦えば、自分は殺される。

 特にあの人間・・・・だ。

 群れの中で一際大きいあの人間だけはダメだと怯える。幸いにもあの人間はこちらに向かってこなかったが、もしこちらに来ていたら逃げられもしなかっただろう。

 加護の臭いはしない・・・・・・・・・のに。素の力しかないはずなのに。人造とはいえ悪魔である怪物を凌駕するアレは、化け物だ。だから怪物は遮二無二に逃げて、逃げて、逃げた。逃走に徹した。


 必死に逃げ惑ったお蔭で、怪物は無事に死地から脱せられたのである。


 だが逃げたところで怪物に目的はない。

 もう安全だと判断した頃に、怪物は根源的な飢餓感に襲われた。


(不味イ)


 無知で無力な人間は、悪魔や天使、そしてその加護の下に在るモノに気づけない。天使の【聖領域】と類似した、天然物の悪魔が具える【侵食域】を、この怪物も当然のように具えている。

 故にやりたい放題だ。もちろんやり過ぎれば、先程の人間の群れに見つかるリスクが増す。だから知恵を働かせて病院なる施設に向かい、寝たきりの人間からマモを全て奪って喰った。


(不味イ)


 最悪の味だ。全く満足できない。歓楽街に行って、適当な若者を見繕いマモを奪う。

 やはり不味い。更に若い子供を、住宅街に忍び込み一人喰ってみる。


(不味イ!)


 何故だ。何故不味い?


 怪物は人間のマモを吸う度に、知性を獲得していっていた。人間並みとは言わない。まだ成熟には程遠い。しかし確かな知性が怪物を悪魔にした。知性の成長と共に、欲望が芽生えたのだ。


(人間ノ『マモ』ハ美味イノデハナカッタノカ!? 不味イデハナイカ!)


 苛立ちの余り、マモを失くした幼子を抱いて寝ている女の頭を握り潰す。怒りが収まらず男の心臓を引きずり出した。それでも抵抗がない、何をされているのか気づかないまま一家は死んだ。

 何故だ! 何故だ! 悪魔は煩悶としながら、凄惨な光景の中で頭を捻る。

 そうしていると、悪魔の頭に、あの驚いた顔の天使が浮かび上がった。

 ドクンと心臓が脈打つ。未知の感覚に驚いて、悪魔――製造者に付けられた名はヌーア――は胸の真ん中に手を置いた。なんだこれはと疑問に思って、悪魔は思考する。


(アァ……ソウ、カ……)


 この世に生を受けて、一番最初に触れたモノ。それがよりにもよって人間とは比較にならぬほど美しく、強く、貴いものだったから。極上の美味を、返り血で味わってしまったから。だから人間如きでは満足できなくなってしまったのだ。

 あの時は堪能する余裕がなかったが、今なら分かる。あの女しかいない、あの貴い天使だけが自分を満足させてくれる。そう錯誤したヌーアは飛翔した。家屋の天井を突き破り、天高く。

 その様は日輪に近づきすぎたが故に天に落ちた男のようで、背徳的なまでにひたむきだ。悪魔は何時間も根気強く、ただただ己の欲する天使の気配を探し続ける。


 故に悪魔ヌーアそれ・・を感知した時、歓喜して脇目も振らず突貫したのだ。


 気づかないわけがない、感知できないわけがない。だって男を狂わす娼婦のように、あんなにも熱心に奇跡を連発している尻を振っているのだ! あんなに【天力】を垂れ流されては馬鹿でも分かる!


『見ヅケダ! 見ヅケダ! 女、オレノ女ァッ!』


 あの天使が健在であるなら到底勝ち目はない。天使が単独であるとは考えづらく、近づく前に人間の群れに殺される。更に言えば一度不覚を取った相手にまで油断する馬鹿はいない。――そうした当たり前の危険性は、悪魔の頭から抜け落ちてしまっていた。


 人の諺にこんなものがある。恋は盲目、と。


 悲しいかな、ヌーアは一目で天使への恋に落ちていたのだと、自覚できるだけの知性をまだ持っていなかった。恋への免疫を持たない故に、後先を考える計算高さを持ち合わせなかったのだ。

 もしも今少し人を襲い、マモを喰らって知性を育んでいたのなら。もしも今少し悪魔らしい悪辣さを磨けていたのなら。犠牲者を認知していない今の天使になら取り入れて、その傍にいることができたかもしれない。だが最早、そんな未来はどこにもなかった。


 狂奔する人造の悪魔が往く。









  †  †  †  †  †  †  †  †









 せっかく修復したガラスドアが砕け散る。

 外から突進してくる化け物を見た瞬間、本能的な危機感を刺激された俺の体は勝手に動いていた。


「うっ、わぁぁぁ――ッ!?」


 俺の矮躯を掴もうと伸ばされた熊の両腕を、反射的に左腕で弾き上げる。

 予想外の膂力を発揮した一撃は容易く人造悪魔にバンザイの格好を強制し、左足を軸に左回転した体が獅子の頭へと回転上段蹴りを放っていた。

 流れるような防御からの反撃。鞭の如く撓った右脚に伝わった衝撃で、間違いなく人造悪魔キメラの牙を圧し折ったという確信があった。だが自らが繰り出した、神業めいた反射行動に驚きを覚える前に悲劇が起こる。俺の足刀を食らったキメラが真横に吹き飛んだのだ。

 するとどうだ、醜悪なキメラはマンションの壁を貫通して、視界から瞬く間にいなくなってしまったではないか。撒き散らされる轟音と、コンクリートの破片――唖然とした俺は声を震わせる。


「え、え? なんで、俺……」

「あなた、手を抜いたでしょう!? わたくしらしくないわ! あんな雑魚、やるなら今ので終わらせなさい!」


 何故か全身に鳥肌が立っているのに気づく余裕はない。凄まじく下卑た気配だったのだ、余りの嫌悪感に震え上がってしまう。だがフィフキエルの叱責に引かれ呆然とする愚は避けられた。

 手加減なんかしてるわけない。そも、全てが反射行動だったのだ。むしろどうしてあんなにも鮮やかな反撃ができたのか、そちらの方が不思議だろう。

 マンション全体が激しく振動している。震度七の地震を超えたのではないかというほどの揺れに、マンションの住人達が動揺する気配を感じ取ってしまった。言語化できない焦りを覚える。


「フィフキエル! お、俺はどうしたらいい!?」


 どうすればいいのか分からないなら、分かるはずの相手を頼る。普段から通していた姿勢が咄嗟にぬいぐるみ姿のフィフキエルに判断を仰がせた。すると即答でフィフキエルが言う。


ベランダそこから外に出なさい! 雑魚相手とはいえ万が一があるほど今のあなたは弱いわ、体勢を整えてから迎撃するのよ! 冷静に対処すればあなたの方が100倍強い!」

「わ、分かった!」


 フィフキエルを掴んで自身の肩に乗せると、言われた通りに大急ぎでベランダに出る。しかしここは四階だぞ、どうしろというのか。まさか、飛べと? どうやって?


「羽根はどうしたの!? なぜ仕舞っているの! 天使の誇りよ、さっさと出して飛びなさい!」

「ああ! ……でもどうやって? こ、こうか?」


 羽根を出せと言われても出し方なんて分からない。だから先程と同じ要領で願い、羽根を出したいと強く念じた。すると背中に違和感、ばさりと羽ばたく感覚に後ろを窺うと、白い羽根が俺の背中に生えていた。なんてメルヘンなんだと思うも、笑ってる場合じゃあない。だが即座に飛び立つ覚悟は固まらず、南無三! と叫んでベランダから虚空へと身を投じる。

 落下する感覚に心胆が縮み上がる。必死に羽根を動かすと、一度の羽ばたきで一気に浮遊した。急に生えてきた新しい腕、そんな感覚に『新鮮な違和感』とでも言うべき異物感を得る。だが自身が空を飛んだという驚嘆に、そんなものは一瞬で掻き消えた。


「おっ、おおおお! とっ、とと、飛んでる!? 飛んでるぞっ!?」

「当たり前でしょう? 何をどこまで忘れているのかしら……まあいいわ、それより早くあのゴミを掃除するわよ。あんな雑魚、本当ならわたくしが出るまでもないというのに……ゴスペルはどこをほっつき歩いてるのかしら。使えないわねぇ……」


 言っている間にもマンションから凄まじい轟音が轟いていた。

 下に落ちた、空を飛んだという新感覚に興奮しかけていた意識が冷め、無意識に体勢を制御して振り返ると、眼前で信じ難い光景が作り出されているのに瞠目してしまう。

 キメラの勢いは留まることを知らなかった。まるで見失った宝物を必死に探す幼子のように、玩具箱をひっくり返そうとしているかの如く、マンションの四階層を遮蔽物を無視して駆け回っているのだ。だが超常の存在であるキメラが、人の造った建築物の中で縦横無尽に駆け回ればどうなるか、当然の帰結となるアンサーが示されてしまった。


 高さ60メートル、20階層を誇るタワーマンションは、四階層を崩壊させられることでバランスを保つことができず、ジェンガのように崩れ去ろうと大きく傾いたのだ。


「――――ッ!?」

「どこを見ているの、あのブサイクなのが来るわ!」


 探しものが外にいると気づいたキメラが、砕けた牙にも構わず再度突貫してくる。飛翔してくる醜悪なキメラの姿をはっきりと視認した俺だったが、しかし今はそんなものよりも気を取られてしまうものがあった。住み慣れた住処の崩壊――マンションの中にいた人達。そして外を歩いていた通行人。最寄りの建築物。放っておいたら大惨事が確定している、だから発作的に叫んでいた。


「『元に・・ッ! 戻れ・・ェェエエエ――ッ!!』」


 声よ枯れろとばかりの絶叫。体の中からごっそりと、何かの温かみが減る。満面に汗を浮かび上がらせると、時間が巻き戻るかの如くタワーマンションが元に戻っていくではないか。

 願いを叶える能力。まさに神の奇跡とすら言える劇的な現象。だがそちらに気を取られたのがいけなかったのか、キメラが俺の至近にまで辿り着き毛むくじゃらな腕で俺を捕まえた。

 その様はまるで抱擁にも似て。堪らず総毛立った俺は、キメラの醜悪に歪む顔を見上げた。


『ヅッ、ヅヅヅ、捕マエタァ! アッハハハ!』

「テ、メェ……気安く触んな、獣臭いんだよこの動く動物奇想天外がァッ!」


 全力で足掻くと、やはり容易くキメラの拘束から脱せられた。俺の体の2倍以上もあろうかという太さの腕を強引に払いのけて、自分の住処を破壊してくれやがったクソ野郎への怒りと触られた嫌悪感をぶつける。顔面に全力で踵落としを放ったのだ。

 だが獅子の鬣が蠢き、触手のように伸びて俺の蹴り脚に絡みつく。その感覚が怖気がするほど悍しくて全身が震えてしまいそうだった。キメラが嗤う。黒板に爪を立てたかのような不快な声で。


『逃ガサナイッ! ドコニモ行クナ、オレノ女ァッ!』

「誰が誰の女だ、俺は男だぞッ!」

「男でもないようだけど?」


 力任せに振り払うと、黄色い鬣がハラハラと千切れ飛ぶ。執拗に迫るキメラから逃れようと、羽根を動かして急上昇していく。しかし慣れの問題なのか、諦めずに追い縋ってくるキメラの方が僅かに速い。徐々に追い付いてくるキメラが腕を伸ばして再び抱きしめようとしてくるのに、俺は泣きそうになりながら叫び声を上げ、全身全霊を込めた鉄拳を熊の胴体部分に突き込んだ。

 固い筋肉を貫き、体の芯まで通る衝撃にキメラが吐瀉して一気に落下する。そのまま地面に激突してアスファルトの破片を巻き上げた。


「だぁから触ろうとすんなや! 男の人呼ぶぞ!?」 

「あなた、気をしっかり保ちなさいな。言動がおかしくなってるわよ……? わたくしってこんな性格だったのかしら……?」


 肩にしがみついているヌイグルミが何か言ってるが、今は耳に入らない。そんなものより、今は地面の方が気になっていた。他人への迷惑を気にし過ぎる日本人の鑑とでも言うべきか、俺は破壊されてしまった通路が気になって仕方がなかったのだ。


「『……戻れ』」


 呟くように願うと、遥か下方にある地面が元通りになる。すると今まで自覚していなかった、俺の中の何かが減る感覚を感じ取れた。

 なんだこれ。得体のしれない感覚に、もしかしてMPでも減ったかなとゲーム脳で思う。

 正解だった。果たして地面に大の字で倒れていたキメラが、にやりと嗤って言ったのだ。


『【天力】ヲ無駄打チスルトハ。ソンナニ大事ナノカ、コンナモノガ。ナラコウシテヤル』


 天力? 魔力みたいなもんか。キメラの声が聞こえてそう思ったのも束の間のこと。おもむろに拳を振り上げたキメラが、そのまま地面を殴りつけた。


「は?」

「何やってるの、あれ」


 困惑する俺とフィフキエルの前で、キメラが地面を滅茶苦茶に破壊する。

 立ち上がって電信柱に駆け寄ったと思えば圧し折り、近くのコンビニを殴りつけて壁を壊す。


「『……戻れ』」


 元通りにする。キメラがこちらを見上げた。

 今度は有料駐車場に走り、駐車している車を跳ね飛ばしていく。ちらりと、またこちらを見る。

 まるで意中の女の子の気を引こうとする、小学生男子の悪戯めいた行動。

 それに、俺は青筋をこめかみに浮かび上がらせた。


「『戻れ』……おいたが過ぎるなぁ、こんのクソガキがァ……!」

「ちょ、ちょっと、あなた? 何をそんなに怒っているの?」


 我慢の限界だった。むしろなぜ我慢していたのだ。生理的に受け付けない存在へと成り下がった獣畜生に、俺は確実にブチキレてしまって。

 なぜか嬉しそうにこちらを見る悪魔の許に、一気に降り立ちに向かう。コイツは生かしておいちゃいけない害獣だ、駆除してやろうという尋常ではない殺意を懐いて。


 自分の中で人らしい心理的ブレーキが、音もなく壊れたことにとうの俺は気づいていなかった。







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