坂の途中のすみれさん

あまくに みか

1章 坂の途中のすみれさん

第1話 坂の途中のすみれさん

 小港荘こみなとそうは、うねうねと長い坂の途中にあるアパートだ。◯◯荘という名前がつくアパートは、古っぽいイメージがあるが、小港荘はどちらかというと、新しいアパートだった。


 1DKの部屋は、明るい木目調と白い壁で統一されており、外に植えられているハナミズキの葉影が、床にきらきらと濃淡を作っている。


「いち……に……さん」


 今日も私は、船を数える。

 小港荘に住もうと思った二番目の決め手が、この窓から見える、海だった。大きな波が立たない限り、それが海だと気がつかないような、静かな海が見える。


 キラキラと、時折色を変えながら輝く地面のような水面を、すーっと滑る船を見るのが好きだった。


「今日は五艘か」


 私は手に持つ黄色のマグの中が、空になったのを確かめると、んーっと伸びをして立ち上がった。


 ネイビーのワンピースに、緑のカーディガンを羽織る。ボブカットに切ったはずの髪の毛は、顎のラインで見事に外側に跳ねている。生まれながらの癖っ毛には、美容師さんも勝てなかったようだ。


 日焼け止めを塗って、薄くアイシャドウを目元にのせる。チークを大きめのブラシで入れたら、最後にリップをつける。私のメイクは3分もかからずに終わる。


「いってきます」


 朱色の鞄を肩から下げて、私は小港荘を出る。ハナミズキの小道を抜けてすぐ、坂道があった。


 小港荘に住む一番の決め手が、坂道の途中にある。


 坂の上では、ダメなのだ。

 途中だから、いいのだ。終わらない物語の中にいるようなワクワク感、一番にならなくていい安心感や中間の楽さ、そんな感情に坂の途中は似ている。


 まさに、私の人生そのもののようだ。


 坂を下りきって、駅前の商店街へ向かう。大きなアーケードの下をくぐった時、少しだけ潮の香りがした。


 賑やかな商店街の大通りから少し離れた、横道に私が働く雑貨屋「ポラリス」はある。


 ポロロン、ポロロンとドアチャイムが鳴る。


「すみれさん、おはよう」


 私が挨拶するより早く、店長の真梨子さんが反応する。


「おはようございます」


 ポラリスは小さな雑貨屋のため、従業員もお客様と同じ入口から出入りする。真梨子さんの「いらっしゃいませ」のスピードには、未だにかなわない。


「ちょうど良かった、今日は頭痛がするのよ」


 眉間に皺を寄せて、前髪をかき上げる。真梨子さんは可愛いというより、綺麗という言葉が似合う美人さんだ。


「店番変わります。上で休んでいて下さい」


「ほんと? 助かる。宅配が届いたら、開けて並べちゃって……例のアレよ」


「わかりました」


「ごめんね」と言って、真梨子さんは2階へ上がっていった。


 ポラリスの二階は事務所と倉庫、そして小さなキッチンがある。真梨子さんは事務所のソファーで、午前いっぱい休むだろう。


「雨が、降るのかな」


 真梨子さんの頭痛は、雨の前にやってくる。もうすぐ梅雨が始まろうとしている。真梨子さんには気の毒な季節だ。




 宅急便は、十一時頃にやってきた。


 私は早速ダンボールを開ける。緩衝材に丁寧に包まれたそれは、手のひらサイズの鳥の置物だ。丸っこくって、薄ピンク色の小さなくちばしが可愛らしい。羽はパステルカラーで虹色に描かれている。


「全部で二十羽。確かに、あります」


 数を確認してから、一羽を手の上に乗せてみる。真梨子さんがこの可愛らしい鳥たちを「例のアレ」と言ったのには、訳がある。


 この鳥は今「恋を運ぶ鳥」として女の子たちから人気なのだ。店長は、お客様からの依頼もあり、ポラリスの店頭に並べることにした。


 真梨子さんは今三十四歳。彼氏いない歴六年だそうだ。こんな美人を世の中の男性が放っておくはずがないのだが、もしかすると真梨子さんは手痛い恋愛の過去があるのかもしれない……なんて、安易な想像をしている。


 そんな訳で、真梨子さんに「恋」とか「恋愛」とかいうワードは厳禁なのである。


「もしかして、鳥のせいで頭痛が……?」


 首をひねったところで、ポロロンとベルが鳴った。入ってきた人物を見て、私ははにかんでしまう。


「ちょうど近くを通ったから」


 スーツのジャケットを小脇に抱えて、直哉さんが笑う。


 直哉さんは大手の企業に勤める四十代男性。この場に真梨子さんが居なくて良かったと、私は手をもじもじさせながら、頭の隅で思った。


「それ、何?」


 少しかがんで、私の手の中を指差す。


「可愛い鳥さんです」


 直哉さんの目の前で、手の中を開いて見せた。


「買ってあげようか」


 直哉さんが微笑む。頰が熱くなる。


「……いいんですか?」


 本当は、鳥に興味はなかったけれど、彼が嬉しそうだったから、ついつい私はのせられてしまう。


「いいよ、これくらい」


 笑って、お金を差し出してくるのを、私はおずおずと受けとる。


「今日は七時くらいになるかな。その時に、可愛い鳥さんを渡すよ」


 鳥は再び緩衝材に包まれ、今度はポラリスの紙袋に入れられた。それを直哉さんが持って、手を振りながらまた外へと戻って行ってしまった。


 あの鳥が「恋を運ぶ鳥」だというのは、黙っておこう。胸の奥がチクリとしたのを、私は隠せなかった。




 夕刻、やはり雨が降り始めた。


 しとしとと銀の糸が降るように、美しい雨が降っていた。真梨子さんは頭痛が治らず、今日は早めにポラリスを閉めることになった。


 店に置いておいた折りたたみ傘をさして、私は商店街を歩いた。


「ハンバーグにしよう」


 ぽつり、ぽつりと雨は傘をノックする。今日は、直哉さんがうちに来る。


 そう思うだけで、自然と笑みがこぼれてくるのに、体の奥で泣いているもう一人の自分がいた。


 雨足が強くなると、傘を叩く雨音は、まるで何かが燃えているような音に聞こえてくる。


 時計の針が、七に近づいてくると、ソワソワする。部屋は綺麗にしたし、彼が好きなハンバーグは、いい感じに出来立てを保っている。


 チャイムが鳴る。

 玄関に駆け寄って、ドアを開ける。

 直哉さん。直哉さん。


 私は彼に抱きつく。彼の手には、ポラリスの紙袋。中には「恋を運ぶ鳥」。








 嘘ばっかり。








 恋なんて、運んで来ない。

 直哉さんは、二十二時に小港荘を出て行ってしまう。彼を待つ、家族の元へ。



 坂の途中が、好きだ。

 中途半端なところが、私に似ているから。

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