セレナーデ-小夜曲-

 ある日を境に、クロードが部屋を訪れなくなった。理由は分からない。正確には知りようもなかった。クロードの他には誰も彼女のいる部屋を訪ねる事はなかったのだから。だから、彼女はいつものように椅子に座ったままじっと待ち続けた。一週間だったのか、一ヶ月だったのか、それとも一年だったのか、どれだけの時間が流れたかそれさえ分からない。以前の彼女であればそれは苦痛でも何でもなかったろう。だけど、意識がある事を自覚してしまった今の彼女にとってそれは拷問に等しかった。

 だから彼女は考えた。

『人になればクロードと再会できるだろうか?』と。

 それがやがて『どうすれば人に成れるだろうか』へと変わり、最後には『人になりたい』へと擦り切れ変貌したのは至極当然の成り行きだったのだろう。


 叶わぬと知りながら願い祈り、叶わぬ事を嘆き、それでもなお諦める事が出来ず、時はまた流れる。薄闇の中動けぬままに、ただ想いだけを馳せる。『外』の世界の事など知らぬままであればよかった、と思いもする。反面、そんな事はないと必死で否定する自分もいる。相反するものがせめぎあい、このままゆっくりと壊れていくのだろうか、そんな風に彼女が思い始めた頃、扉が開いた。

 まず僅かに扉が動き、光が射し込んだ。流れ込んで来たのは様々な音。それまでに聞いた事もなく雑多でとても生命力に溢れている。一気に扉が開け放たれ、陽光が部屋の中を照らす。初めて感じる明るさに彼女は目が眩み、扉の向こう側を見る事が出来なかった。もし、仮に見えていたとしたら彼女はどんな感想を抱いただろうか? 街の市場の活気に満ちた光景に。

 ともあれ、光に目が馴れる間もなく扉は閉められ、あとには白い人影が残った。人影は扉がきちんと閉まっている事を確認すると静かに振り返る。その姿を彼女はどうしても思い出せない。確かにそこにいて、しっかりと見た筈なのに、白い長衣を着た黒髪の男だったとしか分からない。細かい所は何もかもがぼやけている。一目見ればその男だと分かるのに、視界から消えた途端印象に残らなくなってしまう、とでも言えばいいのだろうか。

 そんな男が一歩一歩近づいて来る。他の物には目もくれず彼女の前にやってくる。

 そして、衣擦れの音と共に腕を上げる。人差指と中指が立てられていた。

「―――」

 男が何事かを口ずさむと、指先に光が生まれた。蒼く澄んだ光だ。

 それが彼女の額にゆっくりと押し付けられる。触れた場所を起点に蒼光は彼女の体の隅々に広がっていく。染み渡っていく。

 次第に何かが変わっていくのを感じる。

「あ……」

「まだ、声は出さない方が良いですよ。体が馴れていないですからね、無理をすると二度と話せなくなってしまいます。ですから、考えてくれるだけで結構です。それで十分伝わりますから」

 穏やかではあるが有無を言わせぬものがあった。おそらくはそれが男の垣間見せた本質。けれど、そんな事とは関係なく彼女は肯く。男の言葉が真実であったから。なによりも、男が彼女の望みを叶える手段を携えて来たと感じていたからだ。

「ええ、その通りです。貴方の願いを叶える事が出来ます。すぐにという訳にはいきませんけれど。私がそうする理由ですか? 私の都合ですよ。都合……」

 薄く笑いを唇にのせて男は言う。それは薄闇の中不思議とハッキリと見えた。そう、闇に浮き上がる白い影として。

「方法は……」

 また男の手が虚空を掻く。蒼光が溢れ、一つの形を取る。純白の、男同様に闇の中浮き上がるほどに白い、長剣。

 彼女の身長ほどもある長剣を片手で軽々と回し、刃を上にした状態で水平にする。白い耀きが彼女の瞳に焼き付く。

「この剣の刃を血で深紅に染める事。それだけです。それを成し遂げた時、貴方の望みは叶いますよ。まあ、細かい所は追々という事で。さて、どうします。これを受け取るかどうかは貴方次第ですよ?」

 逡巡なく彼女は長剣に手を伸ばす。硬い陶器の腕が違和感無く動き、しっかりと柄を掴む。ずっしりとした重みが全て現実であると訴える。

 両足に力を込める。創られて初めて動くその事にさしたる感慨もなく、彼女は立ち上がる。無言のまま男と向き合う。けれど、男にはそれで十分だったはずだ。その証拠に何処か嬉しそうな笑みを口元に浮かべ、扉に手をかける。薄闇に束の間蒼光が灯り、扉が開かれる。

 風が吹きこんだ。運ばれて来たのは鉄錆の匂いと腐臭、響いているのは剣戟と絶叫。彼女が行くべきその場所が開けていた。

 扉を通じ、別の場所へと繋ぐ。それがどれほど異常で異様な出来事か、今の彼女には想像もつかない領域の話でしかない。けれど、もしその事に彼女が気付いていたら、彼女は長剣を手にしただろうか? おそらくは、手に取ったはずだ。そんな事など彼女が望む事に比べれば、どれほどの意味もなく、それ故に彼女-エレオノールは踏み出す。彼女自身の戦場へと。

 後ろから男の声が掛かった。振り向かない。その程度のものだったから。

「健闘を祈っていますよ」

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