迷い人
男の姿は旅行帽に煤けた外套。その端々には本来なら鈴が付けられるべきものなのだけれど、書の邸に入る時点で『ここではお静かに』と書使に商売道具のリュートと共々強制的に没収されてしまった。それでなのか、奥へ奥へ旧い書物の収められている書架のほうへふらふらと歩いていく足取りはどうにも頼りない。
「ううう、とっとと商売のネタになりそうな物語を見つけて返してもらいましょう」
どうにも落ち着かないとぶつぶつ呟いている。
ようやくそれらしい場所にたどり着くと、その圧倒的なまでの書物の量に唖然と立ち尽くす。
「書使でしたっけ。案内は良いかと聞いてきた理由が良く分かりました」
いっそ、この中で迷いに迷ってそれを歌にするかと、自棄気味で書架に挑んでいく。
僅か、時刻計の針が一回りもしないうちに挫けたが……。
「誰だ。こんなめちゃくちゃに棚に放り込んだのは。時代もジャンルも何もかもばらばら。これじゃ探せるものも探せやしない」
やっとの思いで探し出した本に書かれているのは『剣の聖女』や『雷を纏う剣奴王』のような、誰もが知っているものばかり。後は、おいしいシチューの作り方だの、誰のものとも知れない日記だの、意味の分からない酔っ払いが歌ったような即興詩だの、男にとって役に立たないものばかり。
ちなみに、『書の邸』の名誉の為に付け加えて置くならば、他にも砂漠に生息する生物の生態を記したものや、魔術行使の為の私家本など貴重なものは数え切れぬほどに存在する。ただ、ここは様々な書が集う『書の邸』。日々新たな書物が運び込まれ貯蔵される場所だ。その正確な数や配置を全て把握しているのは、数多い書使の中でも一人しかいないと言われる。だから、男は最初に問われたはずなのだ。
『お探しのものはどのような本ですか?』と。
ともかく、どうしたものだと頭を抱える男のすぐ傍を銀の髪が擦り抜けていく。
何事かと顔を上げる。
女が一人いた。両の目に覚めるような真っ赤な紅玉の瞳を持った女が。腕を伸ばした女の指の先で、棚に納められた本が独りでに動く。音もなく引き寄せられ、女の腕の中に納まった。
「な……」
夢でも見ているのかと、目を擦る。何の印も呪もなく行使できる魔術など耳にした事もない。これならば物語の種になると勢い込んで女を追いかける。
「待って、待ってください。今のは一体なんですか?」
誰というように、さして驚いた様子も見せず男の声に振り向いた女の瞳は、酷く冷たかった。言ってしまえば感情がない。
「なに?」
気圧されて一歩下がるが、好奇心が僅かに勝った。
「申し訳ない。僕は、ヴァイエル。所謂吟遊詩人で、今物語のネタになりそうな事を探しています。あなたが今やったのは魔術ではないのですか?」
不躾な質問。それでもしたのは、物語に身を任すものの性と言うべきか。
「知らない。出来るから、しているだけ。もういい? まだ、探し物があるから」
そっけない返答をして、女は歩き始めた。が、これで諦めたら、諦めるようなら吟遊詩人などというその日暮らしな職業などやっていられない。
「待って、せめて。せめて名前だけでも」
そこから、ひょっとしたら何か分かるかもしれない、淡い期待をこめての問い掛けは。
あまりに意外な返答によって、凍りついた。
「オリヴィア・アカーシャ」
だからもう話しかけるなと、無言の一瞥を残して、女は書架の列の奥へ奥へ。その道行きの途中で、何度か立ち止まり本を引き出しその腕に納めながら、ゆっくりと。
「え、だって。アカーシャって言ったら」
もうずっと前に、それこそ神滅戦よりも昔、まだ神々が猛威を振るっていた時代に、神の一柱に呪いを受け滅んだ国の名。その国の最後の女王の名が確か、オリヴィア……。
***
オリヴィア・アカーシャ。十八の誕生日に王国と共に滅ぶ呪いをかけられた女王です。ですが、一説には、呪いを解く術を求めて今では禁呪となった術式を行い、何処とも知れぬ場所へ迷い込んだとも言われます。ですから、ひょっとすると、未だに彼女は彷徨っているのかも知れません。
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