気配

 ――シンと、していた。

 書の邸は、外界の喧騒をまったく感じさせない。岩壁を繰り抜き作られた邸の中は静寂が支配していた。ありがたい話である。収められた書物を痛めない程度に抑えられた照明が其処彼処にあり、それは柔らかな暖色で蝋燭の炎にも似ていた。本を読むにはやや暗いかもしれないが、静寂を冷たく感じさせない程度には周囲を明るく照らしている。そもそも利用者には一つ一つ携帯用の明かりが入邸証明として手渡されている。

 珍しい事に人の気配も希薄だった。分厚い絨毯が足音を包み込む所為かもしれなかった。

 そんな中、男は観覧室傍の書架の前に立ち、本の背表紙を順になぞっている。

 特に読みたい本がある訳でもない。それでも、何か読みたい。書使に『何か面白い本はないか』と問い困らせる手もあるが、今は背表紙を眺めるだけでなんとなく満足出来た。

 まあ、興味を惹くものがあれば、いつでも手に取ろうとのんびり構え、ポリと頬を引っかきながら、きょろきょろと瞳が上下する。

「……ん?」

 ふっと、絵なのか、文字なのか区別のつかない本が目に付いた。

 首を傾げ、「これは、……どっちだ」

 どちらとも取れる。雰囲気からして人語ではない気もする。

「ふぅん」

 しかし、読めないものは仕方ない。内容が分からないのはなんとも残念ではあるが、見る分には、眺めている分には楽しませてくれれば構わない。画集を見るのにも似ているか。

「これにするか」

 その本を手に取り、閲覧室へと歩みを進める。

 取り払われた扉の向こうには遮るもののない閲覧室の机の列があり、そして。何か気配を感じた。

「……」

 何か、気配としか言いようのないモノが閲覧室に増えているようなそんな曖昧な感覚。隠れる必要もないのに書架の陰から閲覧室の中を伺い見る。

「おお……」

 間抜けな声が出た。

 姿は見えない、けれど何かいる。そういう確信だけが強くなる。言葉にするならやはり『何かいる』としか言いようがない。その気配がゆっくりと閲覧室から書架の列へとやってくる。

「ああ、失礼」

 身体をずらし、気配に道を譲る。入れ替わりに閲覧室に入る。気になって振り返ってみるが、やはりそこには、何も見えなかった。

「ああ、前にもあったなぁ……」

 言いながら、不思議に恐怖は感じず、思ったのは。

『話し合い手になってくれないのが残念だ』という事。

 ***

 時々そういうことがあるようです。ええ、『本』を愛する方であれば喩え何者であっても、『閲覧』を希望されるのでしたら、お迎えするのがわたくし達の誇りですから。

 ですから、お客様もどうかもしこの様な事が御座いましたら、場所を空けて頂きます事を重ねてお願い申し上げます。

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