それぞれのメモリーと日常


     ◆


 聡一は、松葉杖をつき片足を引き摺るようにして歩いていた。

 学生食堂に着き、カレーを注文していると、すぐ隣に立つ人間がいた。

「あたしが持っていってあげるから、先に席にいて」

 同級生の紅音だった。なぜか楽しそうな笑みを浮かべている。

 聡一は訝しく思いながらも、言われた通り席に着いて待った。

 しばらくすると紅音がやってきて聡一の前にカレーを置き、正面の席に陣取った。

「なんだよ」

「どうぞ召し上がれ」

 聡一は不審に思いつつ、スプーンを持ってカレーを食べ始めた。

「ねえ、食べながらでいいから、ちょっと話聞いてくれる?」

 そう言って紅音は話し始めた。大切な人のためのサプライズをプロデュースする仕事を始めたいと思っている、そういう旨を。こうこうこういうふうに、人を喜ばせたい。いずれ会社も立ち上げる。紅音は自分が考えていることを心底楽しそうに語った。こういう人間が自分のやりたいことを仕事にするのか、と聡一は思った。

 紅音が語り終える前に、聡一はカレーを平らげた。

「それで、なんでその話を俺にしたんだ?」

「素晴らしい。よくぞ訊いてくれました」

「なんか、嫌な予感がする」

「一緒にやろう」

 予感的中だ。

「なんでだよ」

「菅田くんが落ち込んでるんじゃないかと思って」

 聡一は今の自分の有様を見た。松葉杖がなければ歩くこともままならない状態。

 聡一は近くブレイクダンスの大会に出場する予定だった。そのために本気で取り組んでいた。本気でプロを目指していた。

 そんな折に、不運にも大きな怪我をしてしまった。夢を諦めざる得なかった。

「同情か?」

「捉え方は好きにすればいい。ただあたしは、困っている人をほっとけない質なんだ」

「おせっかいだな」

「そうかもね」

「俺みたいな人間に向いてるとは思えない」

「仕事に性格は関係ないよ。まったくないとは言わないけれど」

「考えとくよ」

「ありがとう」

 この時聡一は適当に受け流すつもりだったが、紅音はその後も毎日のように聡一に会いにきた。勧誘というより、ただ一方的に世間話をしていくことも多かった。

 しつこい人間だ。聡一が苦手としているタイプの人間である。

「もう俺につきまとうのはやめろ」

「なんでだよー。まだOKもらってないじゃん」

「俺はやらん」

「やだ、やる!」

「やらん」

「やる!」

「なんで俺なんだ」

「直感だよ」

「はあ?」

「きみとなら、上手くやっていける気がしたんだ」

「……」


     ◆


 聡一は、あるレコード会社のスタジオにいた。男性アーティストグループの振り付け指導を任されている。

 仕事の合間合間で、聡一は『とびとり』のことが頭にちらついた。

 賢二。それから紅音のこと。

 自分を引っ張るようにして『とびとり』に連れてきた、張本人。

 夢を失った聡一に、居場所とやり甲斐を与えてくれた。

 再び、ダンスの世界で生きる活力を取り戻させてくれた。

 紅音には恩があった。

 いや、違う。

 自分も、『とびとり』の仲間の一人なのだ。


     ◆


「岡崎七菜、九歳。将来の夢は、世界一の再生数です!」

 初めてやってきた『とびとり』のスタジオ。七菜の挨拶の言葉にちらほらと拍手が上がる。

 そんな中、一際大きな拍手で応えてくれた人がいた。

「素晴らしい」

 紅音だった。七菜に向かって手を叩きながら満足気な笑顔を浮かべている。七菜は逆に不安になった。

「あ、あの、変だとか思わないんですか?」

「どうして?」

「だって、いきなり世界一とか」

「夢があるって素晴らしいじゃないか。何の世界一かはわからないけど」

「いつか七菜POPで世界を獲ってやるんです」

「ワンダフル! 存分に協力させてもらうぜ」

 九歳で『とびとり』のダンスチームに入った七菜だが、当初懸念があった。ダンサーの中に、とても怖そうな男の人がいたのだ。いつも苛々しているような表情で、話しかけられないのはもちろん、目線すら合わせることができない。七菜は次第にこのスタジオに来るのが億劫になっていった。

 そんなある日、ダンスの練習中に七菜は左足首を軽く捻ってしまった。踊れないほどではなかったので、そのまま踊り続けた。

 すると七菜のほうに近づいてくる人物がいた。

「おい」

「ひえええええ!」

 あの怖い男の人だった。七菜はついお化けでも目にしたかのように身構えてしまった。何されるかわかったもんじゃない。

「足、捻っただろ」

「えっ?」

「見せてみろ」

 男は七菜を座らせ、シューズを脱がしズボンの裾をまくった。真剣な表情で確認している男を間近に見て、七菜の心臓はドックンドックンと飛び跳ねんばかりだった。

「ちょっと腫れてるな。無理しないほうがいい。今日はもう休んでろ」

「……ほ、ほ」

「ほ? なんだ?」

「惚れてまうでしょー!! 怖そうに見えて優しいとか、惚れてまうでしょー!!」


     ◆


 七菜は学校の教室で授業を受けていた。シャーペンを得意気にクルクル回し、耳の裏に差したり、アヒルのように口を突き出して唇と鼻の間にのっけたりした。

「岡崎。……岡崎ー!」

 授業に集中していなかった七菜は、ようやく自分の名が担任に呼ばれていることに気づいた。

「はい、先生。岡崎七菜、今日も元気であります!」

 七菜は素早く立ち上がり、シュピンと指を綺麗に伸ばして敬礼をした。周りからどっと笑いが湧き上がった。

「もう、いい。座ってよろしい」

 おそらく担任は七菜に算数の問題を答えさせようとしていたようだが、呆れてその気も失せたらしい。

「さーて」

 七菜は先ほど給食を食べたばかりにもかかわらず、早くも今日の晩ご飯のメニューを頭に浮かべていた。


     ◆


 大学卒業後、咲来は医療系の事務職に就いた。残業は多かったが、とくに大きな不満なく働いていた。

 ある日、咲来が商店街を歩いていると、ある建物の前で『事務員募集』の張り紙を見つけた。

 なんとなく気になって張り紙を眺めていると、人が近づいてくる気配があった。

「やあ綺麗なお嬢さん。何かお困りですか?」

 朗らかな笑みを浮かべた少しボーイッシュな女性だった。

「いえ、とくに困っていません」

「今ちょうどキャストたちが練習中なんだ。見てく?」

 見ると、女性は両手にドリンクがたくさん入った袋を持っていた。

「いえ、見ていきません」

「行こ、行こ」

 女性はこちらの話が通じなかった。咲来は仕方なくついていき、スタジオの中に入った。

 スタジオの中では、壁一面のミラーに向かってダンサーたちが曲に合わせてステップを踏んでいた。

「ここは?」

「うん。一応地球」

「知ってます」

「今フラッシュモブの練習をしてるんだ」

「フラッシュモブ? 通りすがりの人が急に踊り出すあれですか?」

「そう、それ」

「ここは?」

「うん。一応地球」

「知ってます」

「ここは依頼を受けてサプライズを企画・実行する会社だよ」

「サプライズ……」

「そういえばあなた、表の事務員募集の張り紙見てたみたいだけど」

「はい」

「興味ある?」

「そうですね。少し」

「じゃあ決まり!」

 女性が突如として何かを決めてしまったようなので、咲来は慌てた。

「ちょっと、何が決まったんですか?」

「なにって、ここで働いてくれるんでしょう?」

「そんなこと一言も言っていません」

「あたしは大歓迎だよ。こんな可愛い子が働いてくれるなんて。ありがとう」

「何も言っていません」

「詳しい話をしたいから、上の事務所に来てくれる?」

 やはり女性にこちらの話は通じなかった。

 咲来はいつの間にかこの『とびとり』で働く羽目になっていた。


     ◆


 咲来は、自宅にいた。自室で机に向かい、趣味の漫画を描いていた。

 ちょっとした四コマ漫画。主人公は、トリッキーな発言を繰り返す女性だ。もちろん、この主人公にはモデルがいた。本人には内緒にしていたが。

 切りのいいところまで進め、咲来は伸びをしてから椅子から立ち上がった。

 窓際にいき、何気なく外の風景を眺める。

 木々が紅く色づく、紅葉の季節だった。風が路上の落ち葉をさらっていく。

 今ごろみんなは何をしているんだろうと、姿の見えない仲間たちに思いを馳せた。

 咲来にとって、『とびとり』で過ごした日々は充実していた。文化祭の延長みたいなところがある。決して社交的ではない咲来だが、楽しさは身に沁みていた。きっと、他の仕事では味わえない。

 紅音が誘ってくれなかったら、自分が『とびとり』にいることはなかっただろう。自分は臆病だから、きっと前に足を踏み出せない。そんな自分を紅音は引っ張っていってくれる。少し強引だけど、それぐらいじゃないと自分は動けないことを咲来は知っていた。

 一時的に解散した『とびとり』だが、いずれ必ず良い方向へ動き出すだろう。咲来には確信があった。だから、今はその時を待つべきだ。

 咲来は仲間たちを信じている。


     ◆


 賢二は音楽家の両親のもと、幼いころより楽器を習った。

 真面目な性格の賢二は嫌な顔一つせず、来る日も来る日も練習に明け暮れたが、その先に待っていたのはあくまで「人並み」という烙印だった。どんな楽器も器用に上手に弾きこなす。しかし、彼の代わりなどいくらでもいた。自分である必要などなかった。

 両親を落胆させてからは、将来的な目標も見い出せず、ただ漠然とした日々を過ごした。

 そんなある日、賢二はフラッシュモブの現場に遭遇した。それは駅前の広場で突如として発生した。

 音楽に合わせ、どこからともなく現れたダンサーたちがステップを踏む。やがて周囲の観客たちにもターゲットが判明した。男女のカップルの男性だけが踊り始め、女性のほうは驚きの表情を浮かべた。場は一体となり、多くの人間がそのプロポーズの結末を固唾を吞んで見守った。

 賢二は、こんなにもワクワクする音楽を聴いたことがなかった。フラッシュモブで流れた音楽は感動を誘った。決して特別な曲ではない。それなのに、ダンスと合わさった音楽はこんなにも心を揺さぶった。

 賢二は、初めて自分の意思で、音楽を弾きたいと思った。この感動のために音を奏でたいと願った。

 現場で場を取り仕切っている女性がいた。その女性に話しかけようとしたところで、更なる衝撃が賢二を襲った。

「ん? どうしたの? 何か用?」

 賢二のことを不審に思った女性が話しかけてきた。

「いえ」

「いえ? 家がわからなくなっちゃった? 迷子かな坊や?」

「迷子でも坊やでもありません。あの」

「なーに?」

 賢二は女性の顔を見ていると言葉が出なくなった。

「ははー。わかったぞ」

「なんですか?」

「この綺麗なお姉さんに見惚れちゃったんだな」

 図星を衝かれた賢二は何も言えなくなった。

「あれ、マジで?」

「いえ、あの。さようなら」

 賢二は回れ右をしてこの場から立ち去ろうとした。

「ちょっと待ちなって」

 後ろからガッと女性に肩を掴まれた。

「なんですか?」

「今ちょっとうちは人手が足りなくてね」

「さ、さようなら」

 賢二の肩を掴む女性の手に力が入る。

「悪いようにはしないさ」

 まるで恐喝のようだった。


     ◆


 賢二は自室で椅子に座り、ギターを構えていた。

 震える指を弦に沿わせる。

 ひたすらに己と向き合った。

 楽器を弾くことは己との対話だった。

 世界を閉ざし、時間も忘れ、内なる自分を観察した。

 まだ残っているか?

 まだやれるか?

 勇気を振り絞る意思はあるか?

 この恐怖を振り払えるか?

 賢二は静かに孤独と闘っていた。



 紅音は一人『とびとり』の事務所にいた。自分の席で机の上に上半身を投げ出して、泣いていた。

 喪失感が胸の中に渦巻く。大事なものが自分の手から滑り落ちていく感覚。仲間を失うことへの恐怖。

「お母さん……お母さん」

 紅音はうわごとのように繰り返した。

「お母さん……会いたいよ」

 彼女の言葉に応えるものはいなかった。

 頬から垂れた滴が机の上に広がった。

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