第18話 マーサの父親

 ヴィクター教授が去ってから、しばらくは異様な雰囲気に包まれていた。穏やかで誰からも好かれている人であり、いまだに受け入れられないでいる生徒もいる。

 人一倍可愛がられていたルカは、好奇な眼差しを向けられたりもした。一時期は大学へ通うのも辛かったが、家に帰ればエドワードがいてくれる。だからこそ、卒業まで負けじと頑張ろうと思えた。

 ランチを食べようと食堂に来ると、マーサが座っていた。エドワードは彼女が事件に巻き込まれたと濁していたが、噂はすぐに広まるもので、彼女の父親が家で殺されていたのだと知った。

「ここ、座っていい? ほか空いてなくて」

「どうぞ」

 嫌われているわけではない。氷の冷たさと氷柱の鋭さを兼ね備えた態度は、誰に対してもだ。判っていても、心に刺さる。

「サンドイッチ、食べる? いっぱい作ったんだ」

「……いつもそんなに持ってきてるの?」

「ううん、同居人が弁当要らないのすっかり忘れてて、多めに作っちゃったんだ。どうぞ」

「一つもらうわ」

 チーズとハムを挟んだシンプルなものだが、ルカの好物でもある。

「美味しい。まともに食事したの久しぶりかも」

「お家、大変だったね」

「なんだ、知ってたの。腫れ物扱いはなれてるけど、ちょっと居心地悪いわね。でも今は家も居心地悪いから、似たようなものよ 」

「そっか」

「もう一つもらっていい?」

「どうぞ。フルーツも食べる?」

「うん」

「こうやって話したのって、小学生の頃以来だよね」

「あー、確かに。えーと……誰だっけ? 仲良い人、いたよね?」

「マークのこと? 同じ大学なのは知ってる? よく講義室に来るし」

「うん。でも彼はよく喋るしうるさい。ランチでは一緒にいたくないタイプ」

「はは……」

 ルカからすれば明るくて救われているが、彼女目線ではまったく違うものが見えていた。

「ちょっと話してもいい?」

「うん。もちろん」

「父親がね、って言っても義理の父親なんだけど。死んじゃったの」

「仲はあまりよくなかったの?」

「そうね。言っても信じないでしょうけど、虐待されてたから。神様が私を助けようとしてくれたんじゃないかって思った。ショックなのは父親が死んだことより、母が傷心しちゃってることなの。娘の私が話しかけても答えてくれないし、見向きもしない」

「それは……大事な人が亡くなると、何も考えられなくなるよ」

「まあね。私が異常なだけで」

「異常とは思わない。僕には何があったか判らないけど、虐待されていれば、マーサの反応も正しいと思う。もちろん、お父さんが亡くなっていいとは思わないけど……」

「……ちょっと救われた。近所の人に、こんなときなのに学校へ行くのって変な顔されたから」

「何もしていないと、余計に参っていくよ。気が紛れていいと思う」

 久しぶりに話して判ったこともある。マーサはマーサで、昔と何も変わっていない。塞ぎ込んでいたのは、父親の影響だ。虐待も作り話には聞こえなかった。

「犯人はきっと警察が捕まえてくれる」

 慰めにもならないが、今は警察を信じるしかない。

 頭に浮かぶのは、愛しいエドワードだ。推測だが、麻薬捜査課から強盗殺人課へ移ったエドワードは、この事件に関わっている。亡くなった男性の娘が大学生だと知り、探りを入れてきたのだ。

 友人として虐待の話をエドワードにしていいものかどうか迷うが、マーサとしては特に警察には聞かれたくない話だろう。

 ルカはふたりの住むマンションへ戻るが、エドワードはまだ帰ってきていなかった。




 日を跨いで行われた聴取に、女性はぐったりとうなだれていた。当然といえば当然だ。愛する旦那を殺され、警察が四六時中うろうろしていては、身も心も休まらないだろう。

 エドワードは声をかけず、現場へ足を踏み入れた。

「強盗殺人のわりには綺麗だな」

 独り言は同僚に拾われ、彼も同意見のようだった。

「ああ、盗まれたものは、宝石のついたネックレスだそうだ。現金は家に置いていなかったらしい」

「ネックレスか……周辺の質屋のチェックだな」

「ああ。それと被害者の死因は失血死。心臓付近まで刺されていたそうだ。それとネックレスは、元旦那からもらったものらしい」

「元旦那は今はどこに?」

「知らないの一点張りだ。本当かどうかはなんとも言えない。ネックレスがあったのは、彼女の部屋だ。引き出しを開けられ、なぜかネックレスのみ奪われている」

 何度も検証したが、強盗はプロの手口とは思えないほど雑だ。

 引き出しは下から開ければ時間の短縮になるのに、適当に上から開けた形跡がある。クローゼットも開いてはいたが、物色した形跡はない。

「金目のものはついでだったのか……?」

 自身に問いかけるが、明確な答えは判らない。ただ、マスコミが強盗殺人だと騒ぎ立てるには、納得がいかないものがあった。

 外に出ると、母親の元に娘のマーサが来ていた。大学の講義を終える時間だ。今頃ルカも帰っているだろう。

「いつになったら家の中に入っていいの? ホテル暮らし、嫌なんだけど」

「すまないね。あと少しの辛抱だ」

 マーサは相変わらず刺々しい態度だ。警察が嫌いなのかと思えば、母親に対しても、いささか似た対応を取るときがある。異なる点をあげるとすれば、母親に愛情を求める目を向けることだ。殺された旦那のことで頭がいっぱいの母親は、娘の態度に気づいていない。

「マーサ、一つ質問がある。君は前の父親について知っているか?」

「事故で死んだって聞いてるわ」

 側にいた母親の肩が揺れた。嘘を吐いているのは疑う余地はなかった。

 母親は顔を上げた。エドワードと目が合うと、後ろめたさが隠しきれなくなる。

「何かお話ししたいことがあるような顔ですね」

 同僚があくまで優しく、母親に追求した。

 警察官の言葉よりも、娘の視線が突き刺さるようで、母親は観念したようで口を開いた。




 エドワードの唯一の心安らげる場所と言えば、ルカの隣だ。

 一緒に住めば、家事もふたりで協力できると思っていたのに、事件続きでほぼルカの担当となってしまっている。

 帰宅すれば、ルカは勉強しているかソファーでうたた寝をしているかだ。いつぞやのホットケーキならぬ消し炭が嘘のように、キッチンからは良い匂いがする。

「ルカ、ルカ」

「んー…………」

 起きたらキャンディーをご所望しそうなほど、寝顔はまるで子供だ。小さな桃色の唇で、賢明に母乳を吸っていたのかと思うとますます愛おしくなる。

「夕食、温めて良いかい?」

 瞼が持ち上がり、大きな瞳が表れた。だがまだ眠そうで、すぐに瞼が閉じかかってしまう。

「おかえりなさい……僕が温めますから」

「今日も美味しそうだ。すごく良い匂いがする」

「うん……」

「君も良い匂いがするけど」

 今度こそルカの目がぱっちりと開く。身の危険を感じたようで、ソファーの上で距離を取った。

 おかしくて笑ってしまうと、ルカは決まりが悪い顔をする。

「さあ、ご飯にしよう。早く君の作った夕食が食べたいよ」

「はい。すぐに温めますね」

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