第25話 財布も木刀も色気を

 条は楓に寄り添って伊智那の部屋に戻った。中華風の間接照明にぼんやりと浮かぶ姉の顔をみる。

「お姉ちゃん、大事なことを云わなかったよね。結末を」

 湯上りの眠気を堪える楓も目を開け、妖気もいくらか薄れた和室で三人向かい合う。紫檀の机に諸々を置いて肌や髪のお手入れをする条は少し真剣にみえた。

「そうだね。まあこれも推測に過ぎないわけだけれど、入谷礼華は最後に罪を犯した」

「彼は――」

 視線が楓に集まる。

「生まれた子供を手放せなかった。死んだ教え子の名をつけて、自分で育ててしまった」

 柱時計の音が二時を知らせるまで、三人はよく話した。匿って、ほとんど監禁状態で育てれば常識も何もないだろう。思春期になり、周囲の異性が入谷礼華しかいなかった楓の本能的情動は必然彼に向く。血縁もない。彼女を知る他人はいない。その悪魔的誘惑に、入谷礼華は屈してしまう。

「そうか。入谷礼華は二度大罪を犯したのだな」

 彼は筒井靖にも山王楓にも顔向けできまい。

 伊智那は明日を考えた。

「僕たちはその顔を見なければ」

「彼の罪を止めなければ」



 二台のタクシーを呼んで、母、長女、楓の一組と、次女、エルシィの一組で分乗した。伊智那は「この曇天は英国人が持ち込んだのか」などとあまり伝わらないことを云って一人笑っていたが、内心はいくつも思うところがあった。座面の振動の度に景色から現実感が失われていく気がした。それは誰にとっても同じだった。楓のことを受け入れられたとしても、入谷礼華なる罪人は別である。どこかの騎士が彼に刃を向けるのは止めなければならない。しかし楓を引き渡して良いのだろうか。日本酒の小瓶を出して一口飲む。お米の甘味が広がるのを感じるだけに、今はしておきたいと願った。

 入谷礼華の質素なアパートは既に引き払われていたが、実家である屋敷は健在である。長年使い込まれれば財布も木刀も色気を増すが、まさにこの洋館はよくよく使い古されていた。緊張と敵意が漂う五人が目を合わせて、静かに伊智那がベルを鳴らす。ジリリリリと響いてそれから目を離すと、程なくして遠くのドアが開くのを見た。広い庭を挟んで、その柵の向こうに五人もの見知らぬ女性がいるというのに、驚きも何も知っていたと云わんばかりに歩き近づく家人もまた女性であった。

「お嬢様、お帰りなさいませ」

 声をかけられた当人、山王楓は不思議そうな顔をして動かない。

「まだ記憶が戻られていないようですね。みなさま、ご迷惑をおかけしたことお詫び申し上げるとともに、お嬢様を送り届けてくださいましたこと深謝致します。お互い事情と経緯を聞きたいものと思いますので、是非中に入られてください。お茶を用意致しましょう」

 淀みなく話す中年の女性は使用人とみえる。礼儀に武装された全身の内に冷徹な迫力を感じて、条は恐怖を覚えたが、姉がすいすいとついていくので従った。

 五人がフランス産の紅茶を飲んでいる応接室に入るまで、伊智那はいくつかのものを見た。使用人の髪を眺めるのに飽きると、目を左右に向ける。いたるところに、しかしくどくない程度の間隔で飾られた油絵は美麗だが有名作家のものではない。ほどなく隅のサインが入谷礼華のものであることが確認できたので、これらすべて入谷礼華本人によるものなのだろう。先導する使用人――橘と名乗った――にそれとなく訊くと、今は亡き主人によるものだと云った。

(入谷礼華は死亡していたか)

 そう聞いた五人が少し安心してしまったことを咎めることはできまい。

「さて、僕たちは千葉駅に近い路上で彼女を保護し、彼女の求めに応じて警察等に通報はせず、自力でここにたどり着きました。それ以上の事実はありません」

 条は言葉の色とマカロンを次から次へと口に放りこむ行動のギャップにやや呆れつつ、自らは押し黙ったままとして姉に任せることに決め込んだ。

「重ね重ねありがとうございます。……みなさんが知りたいと思われていることを説明するには、やや背景が広大に過ぎるのですが、どこまで既にご存知なのでしょう?」

 その目を見据えて、云う。

「山王楓と筒井靖は恋人同士であった。或る日子供を宿してしまった彼らは、教師である入谷礼華に相談を持ち掛ける。様々な事情で子供を秘密裏に出産することを決めた三人は、ほとんど順調にことを進めるが最後に失敗した。何があったのかは知らない。ただ、山王楓は死亡し、筒井靖はショックを受けて自殺した。残された子供を前に、打ちひしがれた入谷礼華は彼女を『山王楓』として狂気的に育て上げた。これが僕の想像する過去だ」

 何とも形容し難い表情で頷いていた橘は、マカロンに手を伸ばした楓の口から零れ落ちるのを先回りして回収する。されるがままの楓を見るに、彼女は本当に長い間楓の世話係だったのだろう。

「概ね、おっしゃる通りです。フランス軍を除籍して教師となられた主人は、既に精神がおかしかったのです。それでも教師として過ごすうち、回復されていたのですが、或る日教え子に相談を持ち掛けられました。命を扱っていた者として、主人は職務上あるべき範疇を越えて子供を守ろうとしました。結果は伊智那さんのおっしゃる通り、母であった山王楓の死亡という残酷なものです。子宮破裂に因る失血死でした」

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