第10話 千葉駅を捉えつつあった

 あまりに用心深く嵐を恐れる者は地面を這うほかないと。しかし地面を這ったところで無様なだけである。一方この場合は、あまりに不注意な者は嵐が来ても窓を閉めない、だろうか。それで家を失っては、無様どころか滑稽だ。喜劇である。伊智那は曇天に対して窓を閉めるつもりだったが、ついお酒とバイクで忘れてしまった。食卓上で揺り起こされると、妹と楓が千葉駅に買い物に行ったと聞き、用心を怠ったことを悟った。

 条に電話がつながらない。

「ちょっと様子を見てくる」

 レブルを再び走らせた。

 千葉駅までそう距離はないが、歩くにはとても遠すぎる。これが公共交通機関を使うとなるとさらにやっかいで、二十分ほど歩いてバスに乗り船橋方面まで遠ざかって、そこから千葉駅を目指さなければならないのだ。丁度、家と船橋と千葉駅を頂点にした三角形ができあがる。伊智那は二人がバス停にいないことを確認して、三角形の使われなかった一辺――つまり家から真っすぐ千葉駅へ――を走った。

(別に、何かあったとは思えない。ただ二人が無警戒かもしれないこと、これが不味い)

 山王楓を取り戻したい何者かがいて、どうやら秘密裏に行いたいことまでは事実だろう。ただし目的が見えないのもまた不気味に横たわる現実だ。楓は逃げ出してきたわけではない。むしろ通報や保護を拒む素振りをみせる。ならば、何食わぬ顔で「うちの子が失礼しました」と引き取りに来ればよいのではないだろうか。例え「うちの子」が他人の旅券を持ち、他人として育てられていようと、性的に奔放過ぎようと、犯罪として通報するには曖昧すぎる。

(他人、山王楓という女性――母さんの元同級生だったか――として育てられた少女。これがもし正しかったとして、目的は何だ。影武者ならば過去の山王楓を演じてもまるで意味がないじゃないか。では親から洗脳的な性的虐待を受けてきたのか。僕が思うに、楓の性的な感覚は破綻しているが、虐待を受けてきたようにも見えない。少なくとも身体はとても大切にされてきたことがわかるほど美しいし、偏ってはいるが教養もある。他人や大人に怯える様子もない。それに、嫌な云い方だが、ただの性的虐待では彼女が山王楓を名乗る意味がわからないし、そもそもの話、本物の山王楓はどこにいる? 旅券は偽造ではなさそうだった。盗んだ? 在っても実家の押し入れに眠っていそうな学生証さえ? 誰にも気づかれず他人から盗んだ身分証を持たせて、実在の人物の過去に成り代わるなんてことができるのか? ……そういえば、ゴスロリ少女と出会ったとき、母さんはひどく取り乱したと聞く。何故だ? 僕なら、旧友にそっくりだ、くらいにしか思わない。そりゃあ旅券を見れば取り乱すのも頷けるが、取り乱したのは山王楓を見た瞬間らしい。何もかも歯車が合わない、いや、揃わない。母さんと級友だった山王楓が自分の分身として子供を狂気的に育てた、というのがありそうだが――この場合身分証関係に説明がつく――そのような人物が自身の分身の性的な倫理観を破綻させるだろうか。推察だが、僕の知る楓が性的な関係をもっていたのは男だ。父さんに襲い掛かった時、そのように動いていた)

「――いよいよわからないな。情報不足に過ぎる。差し当たっては母さんに件の級友について訊かねばなるまい」

 レブルは着実に千葉駅を捉えつつあった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る