辻狼(2)


『もうし、どこへお急ぎか』

 行こうとしていた、里への道の方からだった。黄昏時にはまだ早い。だが、間違いようがなかった。

 這い寄る声。低く、深く、底なしの闇の虚のような――


「振り向くな! 走れ!」

 青褪め震えた少女の手を掴み、無逸は洛中への道を駆け戻った。

 だが、せせら笑う声。


『逃げるか、逃げるか。これは怪しい、これは怪しい。安寧脅かす、やましいことを企みか? ――検めさせていただこう』


 とたん、あたりにさっと闇が差した。何もかもを飲み込む無明の闇が、一瞬ですべてを覆う。瞬きすら漆黒に溶ける――かと思った刹那。

 空におどろおどろしい朱色が差し、血だまりの色で広がった。鈍く赤黒い光を反射するのは、灰の混じる乾ききった白い地面だ。

 黄昏の空と白色の大地が、茫漠と不気味に広がっていた。


「くそっ……! なんだ、これ!」

 狼の遠吠えが虚空を震わせ響き渡る。

 迫る足音が、幾重にも重なっていく。耳朶を叩くその音の、速度が速い。人のそれではない。獣の足音だ。


 あ、と声を上げて、涙を抑え込んでついて来ていた掌が、無逸の手のうちから滑り抜けた。足がもつれて転んでしまったのだ。

 反射的に振り向いた無逸の視界に、黒い影が飛び込む。懸命に立とうとする少女の背に躍りかかるのは、馬ほどの大きさがある鈍色の狼だった。

 擦り剥けた細い足に、赤く血が伝う。涙をためた瞳が、それでもなお蹲らずに起きようとしているが、間に合わない。


 舌打ちして、無逸は飛びかかるように少女を抱き込んだ。勢いのまま転がり倒れ、狼の牙と爪を辛うじて避ける。

 だが、顔上げた瞬間。眼前に別の狼が迫っていた。振り下ろされる刃のような爪に、西日の紅蓮が不穏に光った。


 切り裂かれる、と、息を呑んだ瞬間。

 無逸に触れかけた爪が、その前脚ごと爆ぜ飛んだ。

 瞬いた無逸の視界にひらりと青白い光が舞う。春明の符だ。いつの間に、懐から飛び出たのだろう。


(だが、これなら――!)

 かすか希望が繋がった。どこへ逃げればいいのか、皆目見当もつかないが、考え込んでいる時間はない。

 無逸は少女の腕を再び掴むと、走り出した。


 ――出入口がなければ、取り籠めようもない。だから抜け出るに困難があっても、必ずどこかにそれはある。

 かつて聞くとはなしに聞いていた友の化生退治の話。それを頼りに、あたりを見渡す。


 絶えず響き合う遠吠えの声に、追い来る足音と疾駆する獣の吐息が重なり合う。ちらりと見やれば、どこから湧いて出て来るのか、ギラギラと無数の赤黒い瞳が次々と増えて、二人を睨み据えて迫ってきていた。

 それを、光の尾を引きながら輝く符が、切り払い、薙ぎ棄て、宙を滑る。飛びかかる獣の首を跳ね飛ばし、襲い来る牙や爪を弾き返す。


 だが、あまりに数が多い。吠え声に呼応するように増える獣を防ぎきるには、たとえそれが天下の陰陽師のものだとしても、たった一枚の符だけでは限界があろう。

 それに、あてもなく逃げ続けるには無理がある。泣き声を必死で飲み込みながら後ろを走る息遣いが荒い。足の怪我もありながら、幼い体で大の男の全力疾走に食いついてきているのだ。当然、消耗も激しい。


 早く、早く、出口をと、気ばかり焦りながら、無逸は必死に周囲に目を走らせた。

 黒い雲を靡かせる、血濡れた空。果て無く広がる鈍い白の砂地は、なぜか寒気を誘う。

 頭上に躍りかかった、ひときわ大きい狼を、春明の符が放った鮮烈な光が弾き飛ばした。しかし、それだけで、転がり倒れ込んだものの、獣に傷はない。ぶるりと首をひと振るいすると同時、また牙を剥きだし猛然と走り寄ってくる。


(春明の符でも、抑えきれないのが出てきた……!)

 まずい、と無逸が唇を嚙みしめた。その時。

 彼の眼前を過った符から、一筋。ふわりと舞い降りた紫に光る糸が、無逸の指先に触れた瞬間。遙か前方の空間を射抜くように指し示した。

 そこに、門が揺らぐように現れ出でる。


(あれだ……)

 あそこが出口なのだ。間違いない。あの日の帰り道、馬上で、『粉でもかけとこ』と、天下の陰陽師の符に、恐れも憚りもなく自分の術を混ぜ込んだ男。その彼が持つ瞳のごとく、彼の術が隠された出口を見出してくれたのだ。無逸には確信があった。


 守られている、大丈夫――。

 上がる息を飲み込んで。乾く喉を唾で潤して。汗をぬぐって、無逸は握った小さな手へ、より強く力を込めた。


「行くぞ、あそこだ! あの門まで行けば、助かる! もう少し頑張れ!」

 荒げた声は強く激しく、けれど優しい音色を携えて、少女の腕を引いた。

 その疲労ののぞく横顔にさした、希望を見出した輝きの色。乱れた前髪に隠れかけた猫のような瞳の、まっすぐに活路を見定める力強さ。


 薄暗い黄昏の光の中でもそれは眩くて、はっと痺れたように少女は目を瞠った。堪えていた涙が、押しとどめずとも引いていく。

 導く背中を追って、少女も残された力を振り絞って門まで駆けた。大丈夫、助かる――そう、思えた。

 けれど。


 門を目指しだしたとたん、背後の獣たちの気配が塗り替わった。怒りと憤りが混じった鋭い唸り声とともに速度が上がる。

 爪がふたりの背を狙って空を薙ぎ、牙が喉元めがけて荒々しく剥かれた。それを光る符が蹴散らし、叩き伏せるが、数に勝てない。

 光の刃のごとく閃く符の軌跡をかいくぐり、猛然と飛びかかった狼の爪先が、逃げる少女の肩にかかり、引き裂いた。


 激痛に悲痛な声が空気をつんざく。舞い散る赤い血飛沫とともに、痛む肩を押さえるため、少女の手が半ば無意識に無逸の手を振り払った。

 掌からすり抜けていく感覚と悲鳴に、無逸は振り返る。

 蹲る少女の身体に疾駆する勢いのまま黒い巨体がぶつかり、倒し伏せた。己を覆う獣の影を怯えて見上げる幼いまなこに、いままさに喉元に喰らいつかんとする牙が映り込む。


 春明の符は、無逸へと向かいかけていた別の巨大な狼を斬り捨て、次に真横に迫っていた影を貫いたばかりだ。とても間に合わない。

 それになにより、符は、少女より、無逸を守っていた。

 当然だ。符は、術を込めたる本人たちではない。その場に応じて、事を判断して動けない。そもそも、簡易なものだと言っていたし、なにより、あれは――春明から、無逸の守護として渡されたのだ。だから――


 無逸は、歯を食いしばって、少女の元へと駆けた。渾身の体当たりで、少女の喉元を喰い破ろうとしていた、狼の化生をはねのける。

 そのまま無逸と転がるように、狼の巨体は白くざらついた砂地へと倒れ込んだ。が、怒りに震えたその前脚が、無逸の頭を叩き潰そうと横薙ぎに振るわれる。

 そこへすかさず、符の光が一閃。前足を爆ぜ飛ばし、狼の首を刎ねた。だが、それも束の間。次々と新手が湧いて出る。


「行け!」

 注ぎ落ちた化生のか黒い血を拭い、怯える少女を叱咤して無逸は門を指し示した。

「俺がここで符と、少しの間この狼の群れを食い止める! その隙に行け!」

「でも、」

「いいから走れ!」


 反論を怒鳴りつけて封じて、無逸は片手に持っていた包みを少女へ投げた。走るのに邪魔だと、途中で奪い取るようにして預かっていたものだ。捨て置いた方がより早く走れたろうが、それはできなかった。包みの中には、鋏が入っている。

「早く走れ!」

 再度、鋭く無逸に命じられて、涙を瞳いっぱいに溜めた少女は、門に向かって身を翻した。


 符は、無逸を守っている。化生の数があとわずかでも少なければ、それでも十分だったろう。だが、こうもあたりに溢れかえり、一撃で倒せない個体まで混じっているとなると、たった一枚の符では、無逸を守りきるのですら手いっぱいだ。とても少女のことまで、守れない。

 だから、無逸が狼の注意を引き付け、狼の牙が向かない間に、少女が門の近くまで逃げきる方が、ともに助かる可能性が上がると思えた。


(別に俺だって……!)

 ここで殺されるつもりがあるわけではない。助かるなら、逃げ切れるなら、そちらを選び取る。諦めはしない。

 ただ、どこかで――


 符の輝きが切り裂く、真っ黒な人ならぬ血飛沫。それが舞い散る中、仲間の断末魔もものともせず、遺骸すら踏み散らして、次々と牙が、爪が、飛びかかってくる。

 少女の方へ行かないように、その行く手を邪魔しながら、避けて逃げて、息つく間もなく無様に転げまわる。掠めた爪先が裂いた痕が、倒れたはずみでついた傷が、重なっていく。


 少女の方へ抜けようとした一群が、額から垂れる血を拭うと同時に視界に入った。もつれる足を叱咤してそれを追い、群れの先頭を行く、大きな一頭を蹴りつける。とたんに、刃のごとき牙が無逸へと怒りあらわに襲いかかった。

 腕ごと食いちぎろうと咬みかかるその首を、叩き落そうと符が空より滑り落ちる。が、一瞬早く獣はくるりと回転して身を翻した。そのはずみで、獣の尾が無逸の向こう脛を掠める。


 瞬間、激痛が走った。思わず無逸は苦悶の声を上げてうずくまる。尾までも刃のように研ぎ澄まされ、それがギザギザと歪な軌跡で無逸の足を斬りつけたのだ。

(ああ、くそ……!)

 溢れる血が止まらない。足から迸る痛みが脳髄を揺さぶり叩くようだ。


 門の方へと視線を走らせる。遠く小さく、けれど、息せききったか細い影が、あとわずかで辿り着くのが見えた。

 あと、数歩。間違いなく、門をくぐれる。助かる距離だ。

 無逸の口端は自然と引き上がっていた。痛む足を引きずって、己も門の方へと向かう。


 符が空を滑る。襲いかかる化生を打ち倒してくれている。守られている。導かれている。だから最期の瞬間まで、それに応えて走りたかった。

 助かるなら、逃げ切れるなら、そちらを選び取る。諦めはしない。


 ただ、どこかで――覚悟を決めたところもあった。


 どうして他人の妹相手に、そこまで身を挺することにしてしまったのかは、分からない。けれど、己にも妹がいる。彼女たちを見捨てることは、無逸にはできない。それだけの、あまり単純な理由なのかもしれなかった。


 彼方で門が開く。うつつの世界の雨音が、離れているはずなのに耳朶を打った。

 振り返らずに門を通り抜ける、幼い背中を笑んで見送る。

 自分も辿り着ければと思った。けれど――狼たちの攻撃が、より苛烈さを増した。

獲物を取り込めた、この黄昏時の空間から、それを屠る前に逃したことなど、いままで一度たりとてなかったのだろう。


 輝く符の繰り出す攻撃の手も間に合わず、群れから飛び出た一匹の前脚が、無逸の背を抉るように爪を振り下ろした。

 迸る痛みに、叫び声が喉を突き、そのまま無逸は倒れ込んだ。

 彼方では、現への門が彼を待ちきれず閉じていく。振り仰いだ真上には、牙むく無情な狼。


(……ああ、ここまでか……)

 悔しさに泣きたい気持ちとともに、ふと灯った満ち足りた心地に無逸は微笑んだ。

 特異なものなどなにひとつない、つまらぬ己だ。なにか為せる力があるわけではない。どこにでもいる、ありふれた、ただ人。

(でも、そんなつまらぬ俺でも――)

 瀬戸際で、己ではない誰かを救う意思を持てた。


 そんなもの、かなぐり捨てろという者もいるかもしれない。だが、それでも――

(悪くない)

 無逸には、そう思えた。


 光の符が、急くように狼たちを切り伏せていくが、及ばない。門にももう、届かない。

(――せっかく守ってくれてたのに、悪かったな)

 死にたくはない。それは確かに、嗚咽交じりに喉を突きそうになる。それでもなお、この決断に、悔いはないのだ。

 だから、無逸は目を閉じ笑った。


 胸の上に置いた掌に、かすか膨らんだ感触。すっかり忘れたままになっていた、玄月の梨だ。

(梨……子遠のとこで、一緒に食べとけばよかったな……)

 それがどうにも最期に、惜しいことだと思えて、すっと笑んだ無逸の頬を一筋、冷たいものが濡らして滑っていった。




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