銀の妖狐(1)



 


 龍が玄月へと滑り、空へと駆けたことによって、その身が隠し守っていた藤壺が、春明の視界の下につまびらかに姿を現していた。


 そこへ向けて、春明は風音をたて、一筋の流星のように一気に急降下していく。


 それを狙って、地上から一斉に嵐のごとく矢が射かけられた。生き物のように複雑な軌跡を描いて、春明めがけて押し寄せてくる。

 しかしそれは、届く前に次々と粉々に薙ぎ払らわれた。一瞥だにしなかった春明の前に現れ出た、五芒星。そこから滑り出た十二の光の渦に、ことごとく叩き落されたのだ。


 瞬きの間に地上へ舞い戻った春明を、紫の花が咲き誇る藤の樹が出迎えた。麗しく気品あふれる花房が揺れている。

 だが、それはどこか、妖しげで禍々しい。


 風を切った符が白銀の光を放ち、藤の樹を根元から断ち切った。長く伸びた枝も花ももろともに、千々に切り裂く。

 明空あけぞらに似た鴇色ときいろに、淡く可憐な紫が、華やかに、無残に飛び散った。

 だが、瑠璃色の勾玉の姿はない。


(どこに……)


 その時だ。倒れたはずの藤の内からどろりと黒い影がこぼれ出た。ずるりと根本と結びついて、倒れた幹が元に戻り、か黒い枝が再びうねり伸びる。


 と同時に、それは不規則に素早く蠢いて、春明の四肢を絡めとった。

 そのまま幹へと力の限りに引きずられ、春明の背が強かに打ちつけられる。絡みつく藤の枝が、ぎりぎりと首を締め上げ、臓腑を圧し潰して、ますます巻きついてきた。


 殿舎のきざはしからどろどろと這い出てきた影が、また女童の形を成して、囚われた春明を見やり、虚ろな目でにやりと笑う。


『オ前ハ、身体ハ邪魔。首ハ綺麗。ソレダケ貰ウ』

「・・・・・・そうか」


 喉を圧迫されながらも、静謐で冷静な返答。

 だがその落ち着きを嘲るように、不穏に笑みを浮かべたまま、女童が腕を伸べた。瞬間。

 ごきりと不快なひび割れの音が響いた。


 烏帽子えぼしが力なく地面に転がり、乱れた黒髪がばさりと広がる。首をへし折った威力衰えぬまま、さらに細い枝が首筋を締め上げる。やがてそれは肉に食い込み、骨に達し、嫌な音を立てて胴から首を引き千切った。


 迸る鮮血が黒く垂れさがる藤の房に飛び散り、落とされた首が、女童の差し出す腕の中に落ちる。

 抱いた首を見下ろせば、美しい死人が、苦悶に目を見開いていた。女童の唇が、にたりと満足げに引き上げられる。

 しかし――


「油断したな」

 涼やかな声が、彼女の背後で響いた。と、同時に。

 女童の胸を、縹の衣纏う腕が貫いた。


「ここに隠したか」

 ささやくその腕は、彼女の内にあったものを握りしめ、引きずり出した。


 膝から頽れる女童の手から転げた首が、煙のように溶け、藤にくくりつけられたままだった胴が霧散していく。


 確かに、生きた気配と男の陰陽の力をそこに感じたはずだったのに――。紛い物だったことが受け入れられず、女童は残る力を振り絞って背後を振り返った。


 そこには、冷たい金色の目をした男が立っていた。長く靡く髪は、眩く輝く氷のような銀の色。その瞳の色も髪の色もさることながら、五本の白銀の尾と獣の耳が、彼が人外の存在だと告げていた。


 ただ、そのはなだの狩衣も、端正な顔立ちも、睨み据える眼差しの怜悧な苛烈さも、間違いなくさきほど藤に捕りこめて殺したと思った陰陽師、そのものだ。


『オマエ・・・・・・――』

 紡ごうとした言葉が形にならず、どろどろと女童は足先から崩れていく。

 春明の掌の上には、彼女から奪った勾玉が、深い瑠璃色を湛えて静かに光っていた。


 力の源。彼女にこの裏の内裏を作り上げさせ、うつつの内裏すら脅かせるほどの力を与えたもの。それがもう、指ひとつ上がらない女童には、届かない。


「私が藤に肉薄する寸前、樹へ影が伸びたのが見えたのでな。この藤のうちからさらに別の場所に移したのだろうと思ったが、生憎私は奴ほど目が良くない。どこにあるか気配を探るには、お前を油断させるのが手っ取り早かった」

『同ジ化生ガ・・・・・・ナゼ・・・・・・』


 春明の声が届いているのか、いないのか。地に伏した女童は、呻き声をこぼしながら、忌々しげに彼の金色の瞳を振り仰いだ。虚空の眼窩から黒い濁った液体が流れ落ち、その身体がみるみる溶け消えていく。


『・・・・・・安寧ヲ、得ラレルハズダッタノニ・・・・・・』

 掻き消える寸前。どこに向けるともなく呟かれた言の葉が、かすか哀切の痛みを帯びて風に紛れていった。


 同時に、空間全体が揺れ動いた。

 がらがらと空が剥落し、殿舎も前栽せんざいの花々も煙と灰に変わってく。それらすべてを巻き上げて、一陣、野分のわきがごとき風が、春明の銀糸の髪を煽って吹き荒れた。

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