第35話 隔てるモノ、それを越える者(二)

 その日の晩、数馬は食卓にて、叔母に登山の件について話した。どんなに彼女が「ロマン」を重んじているのだとしても、流石に大人に話だけでもつけておかないと、例えば万が一遭難でもしてしまったときには、それはそれは大変なことになってしまうだろう。だから、昼間に伊奈が数馬に伝えてきたことを、ほとんどすべて話した。

「なるほど……あの子はハイキングって言ってたけど、本当のところはどちらかといえば山登りって感じなのね……うーん……」

「個人的には行かせてやってもいいような気がするんだが、やっぱり心配か?」

 その日は珍しく早く帰って来ていた叔母の夫——つまり叔父も、会話に入ってきた。

「そうねえ……十歳の子供が二人だけでってのはちょっと流石に危なっかしい気がするから……」

「そう? それだったら、次来たときにでもその旨伝えて、中止ってことにしてもらって……」

「いや、ちょっと待ってくれ。こんなのはどうだろう」

「こんなの、というと?」

「俺が後ろからついて行くんだよ、そうしたらそこまでの心配はないだろう」

「まあ確かに、そうですね。それなら、行かせても大丈夫だと思うけれど……数馬くんはどう?」

「うーん……彼女は、大人に頼ったら達成感が損なわれるとか、ロマンがないとか、そういうことを言ってたけど……」

「ロマンか……なるほど。その子は俺の顔を知らないだろう。俺が、君たちの姿を最低限確認できる距離から見守っててあげれば、数馬くん的にも問題はないんじゃないか? もちろんそっちからはバレないし、君の気分も損なわないようにできる限り隠れておくさ。声も聞こえないくらいの距離を取るから、安心していいぞ」

 その言葉遣いから、叔父がどんなことを考えているのかは容易に想像が出来たが、子供だからといってそこまでの急展開を想定するのは、いささか気が早すぎるんじゃあないだろうか。第一、ある程度の意思疎通には成功しているとはいえ、彼女とは絶望的に反りが合わないように感じている。

 まあ、それは良い。叔父は、登山に反対しないどころか、むしろ積極的に推奨して、しかも協力まですると言っている。これを覆すのは、きっと無理だろう。

「安心っていうのが何のことかはさっぱりだけど……結局、山登りは決定ってこと?」

「まあ、お父さんがついて行くっていうなら、反対する理由も特には見当たらないし、ね……」

「君さえよければ、心配せず行っていいぞ」

「あの、どちらかというと体力の方が……」

「あら、そのために『リハビリ』をするんじゃなかったの?」

 数馬の体がピクッと反応した。言及してほしくなかったことに言及されてしまった。

 そう。元は人並みの運動神経を備えていたとはいえ、長い引きこもり生活を経て、彼はいまや、通学すらもままならないと思われるくらいには体力が衰えていたのだ。そんな彼が、突然外に出て運動しろと言われても、はっきり言って困ってしまうだけだ。

「ほほう、リハビリか。いいじゃないか」

「今は体力の方はだいぶ衰えちゃってるかもしれないけど……もし数馬くんにやる気があるなら、最低限、元の生活がある程度送れるくらいの体力には戻しておきたいところだよね……」

「早朝か夜という条件付きだが、その時間帯ならいくらでも協力できるから、ぜひ呼んでくれ」

「うーん……」

 数馬は悩んでいた。学校に行かなくなって、もう長い時間が経つ。その間にも、周りの人たちの学校生活は進んでいる。もちろん、伊奈だって例外ではない。そんな彼女が目標を提示してくれた以上、これは社会生活に復

帰するためのまたとないチャンスなのであって、逆に言えば、ここを逃せば、もうしばらくは——ともすれば一生、こんな状態のままかもしれない。合理的に考えれば、個人的に辛いということ以外、それを拒む理由はどこにもなかった。

「……分かった。最終的に登山に行けるくらいの体力が戻ってくるとは到底思えないけど、やるだけやってみようと思う。近頃は……精神面でもそこそこ調子がいいような気がするから」

「そうか、じゃあ決まりだ! 明日の朝、もし起きれたら、ラジオ体操にでも付き合うぞ!」

「そういうことなら、全力で応援するから。頑張ってね」

「あっ、でも登山前日は休ませてよ? 翌日に酷い筋肉痛にでもなったりしたらまずいから……」

「ハハハ、相当やる気みたいだな! こっちまでやる気が湧いてくるよ」

 こうして、数馬の「リハビリ」の日々が始まった。


 一日目。前日に早く寝たおかげで午前五時に目が覚めてしまったので、約束通り叔父と一緒にラジオ体操をした。これだけでも相当な疲労が溜まり、数馬は自身の身体の衰えを痛感した。その後は軽いウォーキングとストレッチを行って、その日のトレーニングは終了ということになった。数馬はその日、午後八時にはもう、泥のように眠っていた。

 これを何日か繰り返して、多少の「慣れ」が出てきたので、四日目からはちょっとしたランニングが追加された。これは一キロにも満たないほんの短いものだったが、一か月のブランクを経ている数馬にとっては非常に厳しく、初日だけは嘔吐してしまった。しかし、その翌日以降は、特に問題なくトレーニングをこなした。

 八日目には、トレーニングの最中に伊奈がやって来た。「おっ、やってるねえ」「今日はプリントを届けに来たんだけど、トレーニングに精を出してるみたいだし、とりあえず置いてくるね」みたいなことを言って、数馬のトレーニングをしばらく観察すると、飽きてしまったのだろうか、ほどなくして大きなあくびとともに帰宅してしまった。

 そして、こんな風に、感覚を取り戻していくのに合わせて徐々に行う運動をきつくしていき、それをこなし続けて——思っていたよりもあっという間に、その日は来てしまった。

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