回想
後片付けを終えたあやめは、近所の商店街へと繰り出す。
帰るのが夕刻ということであれば昼餉は自分だけなので簡単に済ませることにして、次は夕餉の支度である。
さて如何するかと思いながら店先に並ぶ野菜を覗き込めば、顔見知りである八百屋の嫁が声をかけてくる。
「あやめさん、お買い物かい?」
「ええ。今日は先生が疲れて帰ってくるだろうから、お好きなものでも作ってあげようかって」
「なら、先生のお好きな南瓜の煮物にしてあげたら? 安くしとくよ?」
笑いながら勧めてくる女は、朗らかで人懐っこい。あやめもつられて笑みを返しながら、そうしようと頷いた。
本来であれば、独り者の男の家に年頃の女が住み込んで働くなど邪推を呼ぶだろう。
けれど、誰も何も言わないのだ。むしろよく頑張っているねと労わられる始末である。
恐らくそれだけ玄鳥の生活能力の程が知れ渡っているからだろう、とあやめの眼差しが若干遠いものとなる。
聞いた話だと、桂庵に何度か住み込みの女中の募集を出したし、派出婦会にも次の派遣を要請した。
しかし前任者が次々根を上げたというのが悪評となって広まってしまって、誰も来てくれる人が居なかった。
そこに現れたのがあやめであるらしい。
あやめが住み込みする事になったと聞いて、物凄い勢いで担当編集の男性が駆けこんできて喜んでいた記憶は鮮明に覚えている。
手はかかるけれど、玄鳥は悪い雇い主ではない。穏やかで滅多な事では激昂することもなく、此方を気遣ってくれる事も多い。
ある程度の采配は好きにさせてくれてもいる。だからこそ思うところ諸々あれども、あやめは今の勤めに満足している。穏やかな心持ちですらある。
前の勤め口を意に反して辞する事となった時は、こんな気持ちになれる日が来るとは到底思えなかったが。
あやめは、二年ほど前まである華族の家に仕えていた。
今はすっかり女中の身であれども、実は数年前まではその女中に傅かれる立場だった。
母は華族の生まれである。地方の名家へと嫁ぎ、あやめを産んだ。あやめはお嬢様と呼ばれながら何不自由なく育ち、年頃となって帝都の女学校へと進学した。
友も得て充実した日々を送っていたある日の事、唐突にあやめの父が事業に失敗したのである。女学校は退学。
父は借財を片づける為に東奔西走して、今や行方知れず。母は心労が祟って病に倒れて亡くなった。
家人は散り散りとなり、行く当てを失くしたあやめは、母の遺言に従い叔父である人を頼った。
事情が事情である為、諸手を挙げて歓迎されるとは思っていなかった、しかし……。
『お嫁に行って外に出た人間なんて、もう他人と同じだもの。こうして使ってあげているだけでも有難いと思いなさい』
過剰なまでに贅沢に着飾り、高慢に言い放つ女の声音は今でも思い出せる。
あやめは母の実家である
『これでも気を使ってあげているのよ? 下女中として塀の中で寝起きさせるのは可哀そうに思って母屋においているのだから』
『ありがとうございます、
一応は、長女付の上女中という身分だが、実際の処下女中の仕事も満遍なくさせられている。
上女中頭の言う事には、奥様のご意向、だそうだ。伯母の初枝としては、恐らく下女中としてこき使いたかったのだろうが、外聞が悪い為に名目上は上女中と同等の扱いをしていたようである。
初枝は昔から美しいと評判だったあやめの母を妬んでいた、という噂を耳に挟んだのは勤め始めて少しした頃だったか。
実家の権勢故か、嘉島家は初枝の天下であった。夫である叔父の存在は、すっかりその陰に隠れてしまっていた。
叔父は、遊学した経験もある優秀な人物であった筈なのだが、常におどおどと妻の顔色を窺っていた印象だけしか残っていない。
最初の頃こそ慣れぬことばかりで失敗だらけ、叱責に次ぐ叱責に心折れそうにもなった。
しかし、先代の頃から仕えているという下女中頭の老婆が、あやめに好意的だった事が幸いした。
何でもあやめの母は誰にも分け隔てなく良くしてくれた、自分の家族が大病をした際には療養の手はずを整えて下さったと、目を細めて語ってくれたものである。
慣れない仕事に苦戦するあやめを密かに助けてくれただけではなく、家事の切り盛りに必要な事を一通り教えてくれたのだ。
おかげで女中としてやっていくのに不足ないだけの知識や技を身に着ける事ができて、日々の勤めが楽になったものである。
あやめは彼女に感謝しており、彼女が勤めを辞して退いた後も手紙のやり取りをしている。
随分慣れたと思っていた、ある日の事だった。あやめは、嘉島家の長女である瑞枝に呼びつけられた。
あやめにとっては従姉にあたる少女だが、通う情はない。むしろ母親の尻馬にのって、ここぞとばかりにあやめを見下しこき使っていた。
『
何故かその場には初枝も居たではないか。その場に満ちる空気も彼女らを取り巻く雰囲気も険悪そのものだった。
日頃従姉であるあやめを虐げては喜んでいた瑞枝である、今日も何か無理難題を申しつけられるのだろうかと身構えたのだが。
『……この泥棒!』
叫んだ瑞枝が、突如あやめへと渾身の平手を見舞ったのだ。
思いもよらぬ攻撃に、あやめはその場に倒れ伏した。痛みと衝撃に脳裏が白くなり、裡なる混乱をなんとか鎮めようと試みながら事情の説明を求めた。
何でも、瑞枝が婚約者から頂いたという指輪が紛失したというのだ。驚く事に、二人は指輪をあやめが盗んだ、と主張しているのだ。
昨日何やら慌ててあちらこちらをひっくり返していたが、まさかあれは……とあやめは眉を顰めた。
元来だらしなく粗忽なこの令嬢が、婚約者に貰ったものを失くしただろうことは想像にかたくない。
よくよく見たならば、憤っている様子を見せながら、何処か後ろめたそうな感じがある。
けれどそれを指摘すれば瑞枝が激昂するのは明らかである。
ともかく、あやめは釈明を始めた。けしてそんな事はしていないとどれ程言葉を尽くせども、瑞枝の激情は収まらない。
冷ややかにその場を眺めていた初枝がややあって口を開いた。
『警察に届けるのは家の恥になるから止めてあげる。でも盗人を置いておくものですか、出ていきなさい!』
止める者など誰も有りはしない。気が付けば、あやめは身の回りの最低限の荷物だけを手に、野良犬を追い払うように屋敷から追い出されていた。
去り際に初枝を目があったのを、今でも思い出す。
彼女は嗤っていた。手で隠した下の紅を引いた唇が、にんまり弧を描いた事に、あやめは気付いていた。
恐らく貰った指輪を失くしたなどと言えば婚約者に顔向けが出来ない、だから盗まれたという事にして取り繕った。
その為の生贄にされたのが、日頃から何かと目ざわりだったあやめだったのだろう。追い出す絶好の口実となったのだ。
騒ぎの数刻後、目についた店の軒先を借りて雨宿りをしながら、あやめは途方に暮れていた。
実家はもうない、父方の血縁も既に離散状態であれば頼れる血縁はあの家だけだった。行く当てなどない、この先縋れるものがない。
桂庵にも赴いたけれど、既にそこには嘉島家の手が回っており、紹介できる職などないと言われてしまった。
どうすればいいだろう、脳裏に繰り返し浮かぶのはそればかり。
けれども、どんな道に進めども未来を諦めたくない。理不尽に踏みにじられ蹴りつけられ、倒れたままでなど居たくない。
復讐しようとは思わない、そんな価値などあの人たちにはない。
新しい道を見つけて絶対に幸せになってやる。でも、今はどうすればいいかが直ぐには思いつかない……。
何処か懐かしい感じのする、穏やかで優しい男性の声が耳に降ってきたのは、思索に耽りながら夜空を見上げていた時の事だった。
『どうされました? 迷子のような顔をされて』
傘を差し出して問いかけてくれた人こそが、今の雇い主である玄鳥だった。
名乗られた名には聞き覚えがあった、当世に名高い小説家の先生ではないか。本当だろうかと疑う心はあったが、何故かしらすんなりと信じられた。
身体が冷え切ったあやめを、近くの馴染みの縄暖簾に連れていって、温かい食べ物などを頼んでは食べさせてくれた。
知らずのうちに強張っていた心が解けていったあやめは、ぽつりぽつりと今までの経緯を話始めた。
何故であったばかりの男性に、こんなに全てを語ってしまっているのだろうと思いもした。けれど不思議と玄鳥は話をするのに抵抗を覚えない、不思議な温かいものを感じたのだ。
無言のまま暫く聞いていた玄鳥だったが、おもむろに口を開くとある提案をしてきたのである。
何でも、勤めていた女中が辞めてしまったと言う。その後、通いで派出婦を頼んでいたが先日断られてしまい代わりの人材がないらしい。
女中部屋もあるので、あやめさえ良ければ住み込みで来てくれないかと言うのだ。
あやめとしては、願ってもない申し出だった。
ただ、その時点で若干ひっかかるものはあった。女中も派出婦も遠ざかるとは、一体、と。玄鳥が理不尽を強いるような人には到底見えなかったので、大分不思議に思ったものだが。
答えは、連れられていった玄鳥の家がすぐに教えてくれた。
『お掃除の道具はどちらでしょうか?』
あやめが玄鳥の家にて最初に発した言葉がこれだった。
派出婦がこなくなり代わりを探すようになってから、五日前だと彼は言った。
たった五日で、家中が地獄絵図と化している。あれは人間の世界ではなかった、魔界としか言い様が無かった。何をどうやれば、そう成り得るのかてんで想像が付かない状態だった。
とりあえず仮の寝床を確保して、次の日から掃除に取り掛かった。
あの便利な台所も凄かった。暫く唖然とした後、憤慨しつつ真っ先に掃除を始めたのがそこだ。
正しい形で使われた形跡はなかった。無造作に置かれた使用済みの食器などなど、あれやこれやとガラクタ等の巣窟と化していた。
使わぬなら何故これだけ揃えたと思ったが、暮らすに困らぬ家を用意してもらっただけだから良く分からないとのこと。
勿体ないと半ば憤慨しながらあちらもこちらも磨いた事を覚えている。日々の食事をどうしていたのかすら、まったく窺い知ることができない状態だった。
全力で家中を片づけて魔界を人間界へと変える事に成功したあやめであったが、次の日の夕方に買い物から帰ってきた後に愕然として立ち尽くした。
まず、玄鳥の書斎が元に戻っていた。
書斎以外の被害は軽微ではあるが、この調子なら二日もあればあの惨状になるだろう。
如何にすれば一日でそうできるのか、むしろわざとやっていないだろうか、そうでなければ説明がつかない。
そう思って玄鳥を観察していたが、どうやら執筆している最中、展開についての思索に耽りながら家じゅうを歩き回る癖があるのだ。
その間、彼は無意識らしい。あちらこちらにぶつかったり、落したり、他諸々。そうして家は巻き戻る。
片づけても息をするように乱雑な状況へ戻っていく。そう、片づけても片づけても……あまりに果てなき繰り返し。
多分、何時しか来なくなったという派出婦達はそれに心折れてしまったのだろう。
それだけではない。
朝は叩き起こさなければ起きる事が出来ない、身形もこちらで気を使わなければ無頓着、放っておけば食事とて忘れる等々……。
誰かが居なければ、玄鳥は人間らしい生活というものが送れなかっただろう。
編集さんから聞いた話によると、玄鳥はさる華族様の次男坊であるという噂もあるとか。
委細は彼らとて知らないが、兎に角人を使う事に慣れている階級の出らしい事は確かだと。人にしてもらう事になれているなとは、あやめも感じている事である。
本人も自らの力でなんとかしようと試みはしたようだ。
玄鳥がいうには、自分で身の回りの事をしようと行動した。しかし、悉く裏目に出て惨劇となり、終いには、編集者に止められたという事である。
今までの通いの人達が逃げ出した訳がわかった。
この小説家の先生は、紡ぐ文章こそ素晴らしいけれど、生活能力は皆無、どころかやる気を出した場合はもはや災害級。
心が疲れるのを通りこして虚無になるほどに壊滅的であると、あやめも一度は能面のような顔になってしまったものだが。
(駄目だ、この人をこのまま放っておけない!)
あやめはめげなかった、挫けなかった。
散らかすというなら何度でも片づけてみせよう。あとは出来得る限りの対策を講じよう。
追い出されて路頭に迷うよりはましだ、やってやろうではないか!
……といった意気込みで住み込みの女中となって、はや二年が経とうとしている。もう何事にも慣れたものである。
一応、乳母日傘で育った令嬢……であった筈なのに。何故我が身は斯くも逞しいのであろうかと自らに問う事はある。
確かに昔から、どちらかと言えば深く物事を悩まない性質ではあった。
悩むよりは行動する事が多く、両親からは名家の娘として如何なものかと渋い顔をされた事もあった気がする。
しかし、それでも落ち込む事もあるし、辛い出来事に対しては負の感情が抑えられなくなりそうにだってなった。
事実、家が没落してからの日々に心が折れて立ち直れなくなるかもしれない、と感じる事すらあった。
その度に不思議な想いが、導きのようにこころの内側から湧き上がってくるのだ。
――『何時か、必ず戻る』のだと。
理由は分からないし、心当たりがあるわけでもない。
何処へ戻るのか、そもそも何を指しているかもわからない、それなのに強く心を支えてくれる『約束』だ。
不思議な言の葉はあやめに向かい風に耐えうる強さを、憎しみに落ちずに済む力を与えてくれた。
だから、あやめは空を仰ぎ素直に思うのだ、世界はこんなにも美しい、と。
あちらこちらで馴染みの顔に声をかけられ、軽く会話に応じながら歩みを進める。
懇意にするようになった八百屋の嫁や近所の奥さん達は、あやめが嘉島の家を追い出された事を知っている。
華族様のお家を追い出されたということで、最初こそやや遠巻きにされていた。
しかし、何かと接する事が増えてあやめの人柄を知るにつれ、彼女達は何を信じるかを自分達で決めたようだ。
今では呼び止められてお裾分けを頂く事もあるし、井戸端会議に興じるまでになっている。
あやめはこの街にも、あの家での暮らしにも、すっかりと馴染んでいた。
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