夕陽がまるくて

 自分のわかってもらいたいことを、ほんとうにわかってもらえた。そんな実感のあった日だった。

 話し終えて、大学の建物の高いところに行くと、夕陽が目にまるくまぶしく、日が暮れきったいまでも目の裏に奥に、残像のように紅色の円が残っている。


 生きているだけでえらい、と。そう言われ続けてきた。ましてやいま、家庭をもち子育てをして大学にいて、もうすごい、えらすぎる、と言っていただいた。


 普通に生きることがそもそも本来は難しいような。それほどのバックグラウンドを、確かに私は、もっている、らしい。自分では鈍くとも普通だと思っていても、まれに優しい他者を愕然とさせる、そんなものを、もっている、らしい。


 こう書くと、あんまりにも鈍く、傲慢に響くな。


 知能検査をして、高い能力と低い能力に、かなりの開きがあった。1000人にひとり、いるか、いないか、もしかしたらいないかもしれない、そんなめずらしさだった。他の能力もでこぼこで、4つに分類された能力のなかに同じ水準のものが何ひとつなかった。

 20開きがあれば発達障がいの可能性があります、そして、ここまで開きがあるのは、とてもめずらしい、何らかの傾向があるにしても、そのなかでもめずらしいです、と説明を受けて、自分でもいろいろ行動して情報を集めて。でもやっぱりここまで差があるのがよくわからなくなって、今日、相談してきた。


 具体的なことは書けないのが、もどかしい。ほのめかすような書き方しかできないのがもどかしいし申し訳なさもあるのだけれど、やはり書けないと、いまは考えている。

 だれかに迷惑をかける可能性があるのと、私自身がまだその問題に向き合えていないからだ。だから、申し訳ないのだけれども、ご容赦いただけるとありがたい。

 とにかく、何かしらの経験があって、それは私にとってはずっと付き合っていかねばならないほど重たいものだと、そう書くことにここでは留めたい。


 その、かなりの開きというのが、何らかの傾向があるにせよ、それに加えて、私の経験に関係しているのではないかと。そういうお話だった。


 とてもありがたく、光を感じた。


 めずらしいことを、うらやましがられたこと、あるいは、ちくりと言われたこともある。

 希少であればあるほどなんだか個性、とされるような風潮のなかで。だから、めずらしさを述べるのも、本当は危険なのかもしれない。


 だけども、めずらしいからといって。

 やはりそのめずらしさで、すべてが帳消しになるわけでもない、と思う。


 低いところの能力に関しては、いわゆる知的障がいのラインを下回ってはないけれど。だけども、困っている方々のお話に、とてもとても共感できる。

 できないこと、無理なことが多すぎるし、もう本当に、自分ではなにがなんだか、なにをどうしていいのかわかんなくなる。


 自分でも、ずれている、とてもずれているのはわかるのだが、ではどうしたらいいのか、まだよくわかってない。


 得意な言語の力を生かして生きていきましょう、と言われるし、そうするしかないし、言語の力があるんだからいいんじゃないかという話にともすればなりかねない。

 だけど、言語の力がたとえ一定程度あるにしても、そのことが、私のなにかを、相殺するかのように帳消しにしてくれるわけではやっぱり、やっぱりないのだろう。


 めずらしさも、私の経験してきたことをわかりやすく帳消しにするとか、そんなわけでも、ないのだろう。


 客観的には、いろんな意見があるだろう。

 しかし、実際に能力の差やらある種のめずらしさ、そんなものを抱えている自分自身、そのまるごとの感覚としては、そう感じる、やっぱり、帳消しなんかじゃない、って。


 そのことをわかってくれて、伝えてくれて、教えてくれるひとは、とても優しい。他者のために、私もいつかはそんな在り方をできたら。

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