20 狩り

 矢車大樹やぐるまたいじゅは疾走する。

 彼はとりたてて足が速いわけではなかった。

 彼は三十路を超えていて体力のピークは過ぎていた。

 それでもここの老人に比べれば相当に若い。

 だから、追っ手をまくのは楽なはず……だった。


 〈なのに……どうなってんだ……おかしいだろ〉

 「くそっ!」

 最後の部分だけが声に出る。


 ここの老人たちは見てくれとは裏腹に異様な体力がある。

 元気な老人といったレベルではないのだ。

 実際に対峙たいじした大樹にはそれが驚愕といくばくかの恐怖とともに刻み込まれている。

 先程の老婆もそうだった。

 素早い動きとほんの少しの迷いもなく攻撃をしてくるところは、猛獣かさもなければ怪物のような印象を大樹に与えていた。


 〈なんなんだよ、あれ。山姥やまんばかなにかかよ〉

 大樹は走る。

 追っ手をまくことはかなわない。

 追っ手をまくどころか、追っ手たちに追い詰められているような感すらある。

 だからといって、今のところ、他の手立てを思いつかない。


 〈俺は巻狩で駆られる獣かよ〉

 大樹は木の根っこに足をとられかける。

 なんとかバランスを立て直したが、ふくらはぎがつりそうになる。


 〈それでも……〉

 大樹は考えをめぐらす。

 彼はまだ取り囲まれてはいない。

 巻狩の包囲網は完成していない。彼が逃げ出すことを見越して、行き先に追っ手を忍ばせておくとかいうことがない限り、包囲網は完成しないのだ。

 だから、全力で逃げることだけに徹すれば、逃げきることはできるだろう。

 追っ手たちはあきらめ、彼は麓の電話が使えるところまでとぼとぼと歩いていくことができるはずだ。


 〈だが、逃げてどうなるのだ。絵里を置いて逃げて……〉

 大樹の脳裏を再び嫌なイメージが横切る。

 それに仮に通報したとして、どう説明すればよいのだろう。

 限界集落の老人たちが突然、監禁や殺人に手を染める。

 下手すればこちらのほうが狂人扱いされてしまうのではないか。


 大樹の迷いが逃げ足を鈍らせたのであろうか。

 追っ手が近づいてきたようである。

 

 「矢車さんだっけなー。勝手に人の家、入って、あろうことかレディーレデーの部屋に押し入るなんて。あんたー変態へんてーさんってやつかね? それとも今流行りのストーカーってのかね?」

 脳天気な声が大樹に呼びかける。

 大樹は呼びかけを無視する。


 「大学でーがくとか行くと、おかしくなるんかねー。あんたんとこの若いわけーのもさー、部屋ん中でボインちゃん襲おうとするしなー。最近の若いわけー者はほんとうにしょうもないよなぁ。俺らんときはなぁー、ちゃーんと『ボインもませてくだせー』って頼んだもんだよー。本当にあんたら、大学でーがくで何教えてるんだー?」


 相手の姿はまだ見えない。

 大樹はこれにも当然答えない。

 ひたすら声がする方向から離れようとする。


 「絵里さんもなー、悲しんでたさ。あんたが騒ぐからよ、いろいろ大変てーへんなことになってしまったじゃねーか」

 声は続ける。

 大樹はやはり答えずに歩き続ける。

 音を立てないように注意をしていたが、小枝を踏んでしまう。


 パリンという音は追っ手に聞こえたようだ。


 「あんた、近くにいるんでねーか? やっぱり最近の若いわけー者はなってねーなー。礼儀れーぎを知らねーから困るわ。人がせっかく話してやっているのに無視するでねーよ」

 老人の声が近づいてくる。

 大樹は息をひそめて声から遠ざかろうとする。


 「だいたいでーてーなー、あんた、年寄いじめて何が楽しいんだ? カンヨコのばーさん、泣いてたぞ。痛い痛いいてーいてーって泣いてたぞ」

 「カンヨコのばーさん」とはすさまじい形相で大樹に斬りつけてきた老婆のことだ。

 大樹は相手の挑発に乗らないように気をつけながら、逃げる。

 挑発にさえ乗らなければ、あの大声は大樹に有利なものとなる。

 今のところ、大樹の近くまで来ているのは声の主1人のようだ。

 いよいよとなったら相手を無力化することも可能かもしれない。


 〈なんだったら、この山の中で巻狩気取りで俺を狩ろうとしているやつらを1人1人無力化したって良いんだ〉

 大樹は考える。

 集落の人口は30人弱だ。

 すでに少なくとも2人、そのうち1人は散弾銃持ちを無力化している。


 相手は脳天気な声で話し続けている。

 

 「お前が下手に騒ぐから、若いわけー命が散弾でちってしまったでねーか」

 大樹は挑発に乗らないようにと必死に自分を抑える。


 「まぁー下手なスイカ割りみてーにぐっちゃぐちゃに割れてしまってさー、あれじゃ、なんにも使えねーんだ。兄ちゃんよぉ、お前おめーのせいで日本をしょいたつ若者が犬死にしちまったんだぞー」


 〈挑発だ。言わせておけ〉

 冷静になるようにと大樹は自分に言い聞かせる。

 それでも体に力が入ってしまう。

 足元の小枝がパキンと音を立てて折れた。


 「やはり近くにいるでねーか。つれねーな、返事しろよ、なぁー」

 声が大きくなる。

 

 「ほーら、返事せー、お手々たたいて、返事しなせー。ぱんぱん!」

 ぱんぱんという掛け声のあとに銃の発射音がした。

 手を鳴らす代わりに銃を撃ったということらしい。

 声の主は猟師兄弟タニミの弟、作治のほうだろう。


 作治は脳天気な声で叫び続けている。

 

 「手ぇー、叩きなせー! つかまえてやるから、しっかり大きく叩きなせー」

 追っ手は銃を持っているうえに妙なテンションである。

 さらに悪いことに、大樹はこの老人の兄を負傷させている。

 捕まるようなことがあれば、ただではすまないだろう。

 そもそも相手が生きたまま大樹を捕まえようとしているのかすら不明である。

 

 「お手々たたいて、こちらに場所を教えなせー。さもねーと、撃っちまうぞぉ。ぱぁんぱん!」

 再び銃の発射音。

 先程よりも明らかに近づいているようだ。

 

 〈場所を教えたって撃つだろうに〉

 だから大樹は自分の居場所を教えてやらない。

 自分の居場所は教えてやるつもりはないが、このまま見つかったり、追いつかれたりするよりは自ら相手の前に姿を表したほうが良い。

 大樹は覚悟を決める。


 相手は大声でわめきながら歩いているから場所の特定は容易だ。

 木の陰で相手が近づいてくるのを待つ。

 紙でくるんでいたた包丁を取り出す。

 

 木の枝をぱりっと踏み砕く音がする。

 木の葉の上を歩く音が消える。


 大樹が隠れていた木から顔を出す。

 作治と目があった。


 「なぁ、あんた、兄ちゃんの腕折りやがっただろ? ちょっと仕返ししてーんだけどえーよな?」


 大樹は無言で作治に突進すると包丁を突き立てる。

 作治は猟銃を構える暇もないままに大樹にだきつかれるような形になった。


 「痛いいてーでねーか」

 作治の抗議を大樹は無視する。

 猟銃を持つ腕を極めると靭帯じんたいに容赦なく損傷を与えた。

 

 作治は銃を取り落としたものの左腕で思い切り大樹を殴り飛ばした。

 手にした包丁こそ取り落とさなかったものの、すごい力で殴られた大樹は後ろにふっとばされる。


 大樹は口の中に広がる鉄の味のするものを飲み込みながら立ち上がる。

 目の前にころがっていた猟銃を大樹は蹴り飛ばす。

 彼は銃の撃ち方を知らない以上、これをもって形勢逆転というわけにはいかない。


 「お前おめー、学校で習わなかったのか? 目上の者にはちゃんとしろってなー」

 刺された脇腹に聞かなくなった右腕を当てながらタニミの作治がおっくうそうに言う。

 作治は腰から剣鉈けんなたを抜く。

 

 「銃を人に向けちゃいけませんっていうとても大事なこと忘れた方にそんなこと言われましてもねぇ」

 対する大樹は文化包丁を腰だめにかまえる。


 突進する大樹に剣鉈けんなたが突き出される。

 大樹の顔にちっと火花が走るような感覚が走る。

 相手の腹に文化包丁を突き刺す。

 一瞬前に顔に走った火花が激痛に変わる。

 大樹はそれを気にせずに作治を押し倒すと無我夢中で彼を刺した。

 

 「痛いいてー痛いいてー、兄ちゃん、痛いいてーよぉー。ムーンだしてくれよー」

 作治は目に涙を浮かべながら腹をおさえていたが、静かになった。

 

 大樹は血まみれの手で頬をぬぐう。

 手に残るどろりとした感覚が自分のものなのか、作治のものなのか、大樹にはわからない。


 大樹は呼吸を整える。

 人を殺めてしまったという罪悪感はなかった。

 

 〈斬りつけれられたときの痛みのように、あとからやってくるのだろう〉

 大樹は考える。


 〈ならば、罪悪感が俺を縛り始める前に全員めった刺しにして彼女を助けるとするか……〉

 彼はひひひと笑うと集落の方に歩きだす。

 右手には作治から奪った剣鉈、右手には作治の命を奪った文化包丁をぶらさげて。


 ◆◆◆


 黒い塊が横から突進してくる。

 大樹は間一髪で突進をかわした。


 獣が立ち上がって咆哮する。

 かつては白かったであろう胸のV字は赤茶けた何かで汚れている。


 「クマとかなしだろ?」

 大樹は剣鉈と文化包丁を構える。


 しかし、黒い獣は驚くほどに俊敏で強靭だった。

 獣は剣鉈の斬撃や文化包丁の刺突をものともせずに大樹をなぐりつけた。

 

 大樹は吹き飛ばされた木の根元で血を吐いた。

 そして、彼は意識を失った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る