我が身もろとも神に捧げん

黒石廉

プロローグ

00 神事

 境内にいくつもしつらえられたかがり火が煌々こうこうと輝く。その光は月日と風雨で摩耗まもうした賽銭箱さいせんばこを照らしている。


 〈お賽銭箱が開けられたのはいつのことなんだろうか?〉

 六井絵里むついえりは誰が管理しているのかも定かではない賽銭箱を見て思う。

 彼女自身はこの集落に来るたびに「ご挨拶」として、小銭を入れている。


 この神社では加无名神カンナノカミという神様をその母神とされる大宜都比売オオゲツヒメとともに祀っている。カンナノカミという神様はどの文献にも出てこず、聞き取りでもよくわからない神様であったが、オオゲツヒメは食物を司る女神、豊穣の女神として有名だ。


 〈食べるのに困ることがありませんように〉

 民俗学を学ぶ大学院生という食いっぱぐれる可能性がきわめて高そうなことをしている絵里は半ば冗談ながらも「ご挨拶」のたびにこのようなお願いしていた。カンナノカミもオオゲツヒメの子どもだから、食いっぱぐれがないようにという絵里の願いになにかしら答えてくれることだろう。


 〈私とこの集落の人だけが拝む神様。もう少しあなたが有名になれるように私も頑張ります〉

 こう挨拶するのも絵里にとっては常のことであった。

 とはいえ、今のところ、この神が祀られている神社の賽銭箱に金が投げ入れられることはほとんどない。


 カンナノカミが忘れ去られた神であろうとこの集落の人間にとっては氏神だ。部外者の絵里より賽銭をいれる頻度も高いだろう。だが、いかんせん、和仁杭村おにくいむらは限界集落だ。住人全員を合わせても30人、彼ら全員が1日2回お参りしていたとしても賽銭箱がいっぱいになることはなかなかないだろう。


 中身がいつ取り出されたのかわからない箱のにぶくくすんだ木目が赤い光の中にぼうっと浮かび上がっている。

 その上には真新しい注連縄しめなわ、そこから下げられた紙垂しでは炎の光の中でゆらゆらと揺れる。


 注連縄しめなわ紙垂しでは、絵里も一緒につくったものだった。

 一緒に縄を結い、紙を切った老人たちは白い斎服さいふくに身を包み、まるで神主のようだ。だが、彼らは手に手に木剣や木の斧を持ち、拝殿はいでんに並んでいる。

 炎に照らされる老人たちの顔は普段の日に絵里に向けるしわだらけの笑顔ではない。久々におこなわれるという大事な祭りで緊張しているのか、どの顔も厳しい表情を浮かべている。


 拝殿の前の庭に別の神主があらわれる。

 ただし、彼もまた普通の神主とは多少様子が異なる。

 彼は手にしゃくの代わりに抜き身の太刀を持っている。

 かがり火に照らされて現れる烏帽子の下には鬼の面を被っている。

 神主は太刀を一振りすると、肩にかつぐように構える。


 神主は庭の灯籠のまわりをすり足で歩む。

 そして、中央に進むと立ち止まって太刀を高々とかかげる。


 太刀を右にかかげながら、右足をとんとんと2回踏み、左足を引き付ける。

 太刀を左にかかげながら、左足をとんとんと2回踏み、右足を引き付ける。


 木の武器を構えて待ち構える老人たちも同じ足踏みをしながら、庭の中を動き回る。


 反閇へんばいという足踏みによる呪法の一種だ。

 スピードが上がるに連れて半ば跳ねるような動きになっていく。

 老人たちの額ににじんだ汗が炎に照らされて輝く。

 

 鬼の面の下も汗だくだろう。鬼面をかぶる神主役を務めるムラザケーの吾郎も若くない。

 確か50半ばだったはずだ。

 絵里は、ことあるごとに彼女の胸元を覗き込もうと露骨な視線を投げかけてくるこの男が苦手だった。

 しかし、今の彼は絵里の目を惹きつけて離さなかった。

 

 太刀をかかげながらの足踏みは激しくなる一方であったが、それでも吾郎は息も切らさず、反閇へんばいを続ける。

 この鬼面の神主役の男に白装束の老人たちが手にした木製の武器で襲いかかる。


 〈次の大祭のときには、撮影させてもらえるようにしよう〉

 絵里は小さなノートに気がついたところを書き付けながら、拝殿の庭で繰り広げられる「戦い」を目に焼き付けるように注視する。


 神主は木剣や木の斧の攻撃を受け流し、白装束に返す刀で打ち込む。

 もちろん白装束側も全力で撃ち込んでいるわけでもないし、神主が持つ太刀も刃が引いてあるものだろう。

 それでも地面を素早く激しく踏みしめながら打ち合う彼らの姿は迫力があるものだった。


 神主役は木剣や木の斧の攻撃を体で受けると「おぉおぉー」と叫ぶ。

 当てた白装束は「鬼を打った! 鬼を打った!」と叫ぶ。

 神主役が踊るような足踏みで拝殿の中に「逃げ込む」。

 白装束は鬼を追って拝殿の中に駆け込んでいく。


 絵里もその後を追う。

 拝殿といっても小さな神社だ。

 土間の両脇に畳が設えた床があるくらいだ。


 中央の土間には神主が太刀を投げ出してうずくまっている。

 鬼をその身に迎い入れた神主はわざと拝殿の中に逃げ込み、そこで皆に中の鬼とともに殺される。

 殺した鬼を神とともに食べ尽くす。


 〈鬼宿し 村のためよと 舞い狂ひ

  我が身もろとも 神に捧げん〉


 絵里は大祭について詠まれたという和歌を思い出す。地道な聞き取りを続けていく中で教えてもらったものだ。

 詠み人知らず、修辞もなにもないただ素朴なだけな歌であるが、これが人身供犠じんしんくぎや食人といったショッキングなテーマにつながる祭りを示したものであることは、その後の聞き取り調査で明らかになった。この聞き取り調査と別の祭りについての文献調査などからなかばタブー視されてきた人身供犠について論じた絵里の卒論は高く評価された。これをもとに書いた投稿論文も査読をパスした。

 指導教授の市野井は「奨励賞が取れるのではないか」と興奮したものだった。気難しいところのある人だし、好き嫌いの激しい人ではあるが、絵里のことは親身に指導してくれている恩師である。それに彼は著名な研究者である。そのような人物が自分のことを買ってくれている。

 博士前期課程マスターコースの院生とはいえ、研究者の端くれである絵里としては悪い気はしない。でも、それだけだ。論文のことで色々と相談に乗ってくれた恋人に言わせると自分は「無欲すぎる」らしい。

 今も論文のことよりも謎のベールに包まれたまま、歴史から消え去った祭りを自分の目で見られることに興奮していた。


 大祭もクライマックスだ。

 反閇と木剣の攻撃で力を削がれた鬼を、これに身体を殺した神主ごと〈殺し〉、神に捧げるのだ。


 「えーえーえー」

 「ほーほーほー」

 「えーえーえー」

 「ほーほーほー」


 白装束の老人たちがうずくまった鬼の周囲を奇妙な足踏みでまわる。

 

 右足をとんとんと2回踏み、左足を引き付ける。

 「えーえーえー」

 左足をとんとんと2回踏み、右足を引き付ける。

 「ほーほーほー」


 踊るような足踏みをしながら、彼らは手にした武器で鬼を打っていく。

 打たれる度に鬼は「おぉおおー」と叫ぶが、その叫びも徐々に小さくなっていく。

 叫び声が小さくなるにしたがって、神主の頭も次第にたれていく。


 白装束の一人が神主が取り落とした太刀を拾うと、彼の背中を突く。

 それは流れるように自然な動作であり、周囲の白装束たちも誰一人として驚きの声もあげなかった。

 土間にピンどめされたように神主がへばりつき、鮮血が彼の斎服を濡らしていく。

 

 絵里は何があったのか一瞬わからなかった。

 神主が痙攣けいれんするのを見て、悲鳴をあげる。

 逃げたくても腰が抜けて逃げることができなかった。


 絵里の肩を白装束の一人が押さえる。

 老人とは思えぬ強い力が絵里の肩を捕まえて離さない。

 

 「大丈夫でーじょうぶだ。ムラザケーもな、わかってたことなんだわ。『我が身もろとも神に捧げん』、そのとおりだろ。な、大丈夫でーじょうぶだから、おとなしくしてろな」

 老人が絵里をなだめるように声をかける。

 この声はカミヨコの米子よねこだ。

 絵里が来るたびに歯の抜けた笑顔で迎え、お菓子をくれる小柄な老婆だ。

 その老婆が普段からは考えられないような力で絵里を押さえつける。


 いつの間にか、木剣をナタに、木の斧を手斧に持ち替えた老人たちが神主を解体し始める。


 絵里はジーンズの股のところに温かいものを感じる。

 漏らした尿はすぐにひんやりとしたものにと変わる。

 顔も涙と鼻水でぐしょぐしょになった。


 「可愛いかーいー顔が台無しだ。それにしっこ漏らしちまったか。怖いこえーことねっからな」


 カミヨコの米子よねこが絵里の耳元でささやく……。

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