第21話 手

春秋文化社に着くと、蓮司は真っ直ぐ受付に向かった。今回の件とは別にこの出版社には訪れたことがあるようだ。

「この海老原 桜ってカメラマンに会いたいんだけど。」

蓮司が桜の名刺を受付で見せた。

「アポイントは…」

「一澤 蓮司って伝えてもらえばわかるから。」

受付の女性は内線でどこかに連絡している。

「…はい、イチザワさんという方が…はい、はい、わかりました。」

内線が終わった。

「エレベーターに乗っていただいて、6階の…」

案内された部屋に向かった。

菫は無言の蓮司にただ着いていくことしかできなかった。


6階の廊下を歩いていると、ある部屋の前で蓮司が足を止めた。

どうやら目的の部屋のようだ。

蓮司は形式的にノックをしたが、中からの返事を待たずにドアを開けた。

———ガチャ…


小さな会議室のような部屋には海老原ともう一人、40代くらいの男性がいた。

「思ったよりずっと早く来た。」

座っている海老原が笑って言った。

———バンッ

蓮司は机に雑誌を叩きつけた。

「これ、読んだよ」

「気に入ってもらえた?イケメンアーティストの一澤 蓮司サン。」

いちいち煽るような言い方をする海老原に、菫はハラハラする。

「次号に訂正記事載せてよ。それで全部水に流すから」

(え…)

声から怒りは感じるが、蓮司は菫が思っていたよりずっと冷静なようだ。

「訂正記事?どこも間違ってないのに?」

「………」

海老原は記事を取り下げる気がないようだ。

「一澤さん。」

男性が蓮司のそばに寄ってきた。

「私、こういうものです。」

「編集長…」

男の名刺には【週刊春秋編集長 田井ノ江たいのえ 康二こうじ】とある。

「編集長ならできるでしょ、訂正記事。」

「一澤さん、せっかくならこれを機に我々と仕事をしませんか?」

田井ノ江の提案に、蓮司の目元が小さくピクッと動いた。

「海老原とあなたが知り合いだったのも何かの縁だ。うちの雑誌で連載しませんか?顔出しで。大々的にプロモーションもしますから、話題になりますよ。」

「あんた何言ってんだよ」

蓮司の声に苛立ちが混ざる。

「あら、いい話じゃない。連載で知名度が上がるのはアーティストとしてプラスになるでしょ。うちの雑誌だって蓮司がタレント的に人気が出れば売り上げが上がるし。」

「……そういうことかよ。」

蓮司が呟いた。

「桜さん、あんた今コイツと付き合ってんだ?相変わらず男のために他人を利用して、健気だな。」

———ハァ…

蓮司が呆れたように溜息をいた。

「とにかく訂正記事さえ載ればもう文句言わないから」

蓮司は部屋を出ようとした。

「女の力で売れたくせによく言うよな。」

田井ノ江が呟いた。

「は?」

蓮司の目つきが変わった。

「学生のうちに個展ができたのは桜のおかげだろ?絵じゃなくて顔が良かったから声かけてもらえたんだよ。お前だっておいしい思いしたんだろ?」

———ガタッ

蓮司が田井ノ江のシャツの胸ぐらを掴んだ。

「蓮司!ダメ!」

菫が不安そうな声をあげる。

「何が訂正記事だよ。大した実力もない二流のくせに大物気取りやがって。載せてやったんだから礼くらい言えよ。」

菫には、田井ノ江に殴りかかる蓮司の拳がスローモーションのように見えた。

———バッ

菫は必死で蓮司の振り上げた拳を両腕で掴んだ。

「離せよ」

興奮した蓮司は菫に対しても言葉が荒くなっている。

「ダメだよ蓮司!」

(力が全然足りない…どうしよう…えっと…えっと…蓮司が落ち着くこと…)

蓮司が菫の腕を振り払った。

(あ…ダメ…!)


『スマイリーも養わなきゃいけないしね。』

蓮司の言葉が浮かんだ。


「ダメ!蓮司!蓮司が問題起こしたら、スマイリーがご飯食べられなくなっちゃうよ!!」


蓮司の腕がピタッと止まって、菫の方を見た。

「そ、それに…京都の職人さんだって、頑張ってくれたのに商品発売できなかったら悲しいし…」「それに…」

菫の声が掠れる。

「それに私…も、きっとまた泣いちゃう…し…」

「………もう泣いてんじゃん…」

蓮司の声と目つきが、普段の穏やかなものに戻った。

「れんじの手は…人をなぐるためのものじゃないし…」

「………」

「わたしは…れんじの顔なんか知らなくたって、あの個展で感動したよ…たしかに…開催できたのは海老原さんのおかげかもしれないけど…あの個展があったから…わたしは仕事頑張れた…」

「………」

「こんな記事で…こんな人たちが、どんなに蓮司の絵を汚そうとしたって、蓮司の絵は汚れないよ…汚れたって…」

「………」

「私が、がんばってきれいにするから…だからもう、こんなことで傷つかないでよ…」

菫は泣き続けていた。

「スミレちゃん…」

蓮司の手が菫の頭を撫でた。

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