第18話 桜

蓮司の声がすると、スマイリーが玄関に走っていった。

「なんだよスマイリー。そんなに寂しかった?」

抱き抱えたスマイリーに話しかけながら、蓮司がアトリエの中に入ってきた。

「スミレちゃん、なんかスマイリーが…」


———パシャッ


というシャッター音と、フラッシュの光が蓮司を迎えた。

「お帰り、蓮司。」

海老原がわざとらしい笑顔で言った。

「………」

蓮司は一瞬呆然としたような表情を見せた。

「……っんで、あんたがいんだよ!?」

振り絞るような声から、怒りのこもった声に変わった。

「どのツラ下げてここに来てんだよ!!出てけよ!」

菫は蓮司のあまりの形相ぎょうそうに、思わずフリーズしてしまった。

「こわ〜い。久しぶりなのに。」

海老原は笑っている。

「二度と会いたくなかったよ。さっさと出てけよ!!」

「はいはい。あー怖。」

海老原は荷物をまとめて出て行った。

蓮司は怒りのこもった表情でしばらく立ち尽くしていた。

「…クソ…ッ」

蓮司が吐き捨てた。

「…蓮司…スマイリーが…怯えてる…」

菫の言葉に蓮司はハッと我に返った。

「スマイリーっていうか、スミレちゃんが怯えてんじゃん……ごめん…」

菫は涙目のまま無言で首を横に振った。

蓮司はスマイリーを抱えたまま、菫を抱き寄せて頭を撫でた。

「ごめん…」

(…あの人…蓮司の心のトゲ…だ…)

蓮司の泣きそうな表情を見て、菫の女の勘がざわついていた。


「…何もされなかった?」

「……うん、さっきあの人が来て、お茶出したところだったから。」

菫の言葉に蓮司は安堵あんどした。

「ごめんね、勝手に上げちゃって…。」

蓮司は首を横に振った。

「スミレちゃんは全然悪くないよ。あいつはスミレちゃんが断っても無理矢理上がってきてたよ、きっと。」

「…あいつって……あの人…“サクラ”って…」

触れて良いのか悪いのかわからず、気になったことを中途半端に口に出してしまう。

「気になる?」

蓮司は菫のを見て聞いた。

「………」

菫はしばらく沈黙した。

「気に…なる…。あの人、個展のことと関係あるでしょ……?」

———ふぅ…

「こんなときばっか勘が鋭くてズルいな。」

蓮司は苦笑いで言った。

「俺のこと嫌いになるかもしれないよ?」

「…ならない…」


「スミレちゃん、サクラの名前はあの人から取ったって思ってるでしょ。」

菫は小さくうなずいた。

「それは違う。勘違いだよ。サクラは俺が小学生の時から一緒だったからね。」

「そうなんだ。」

「猫に女の名前つけるのが俺のクセって思ったんでしょ。」

「……ちょっとだけ…。」

蓮司はまた苦笑いした。

「海老原 桜は、俺が通ってた美大に講師として来てたんだ。」

(講師…)

「最初は向こうからやたらと話しかけてきて…“サクラ”って名前に惹かれたんだと思うけど、すぐに親しくなって付き合った。」

(…先生と…)

「カメラマンでパソコン作業も詳しかったから、いろいろ教えてもらって、信頼もしてたし尊敬もしてたよ。あの頃は。俺の前ではあんな感じでもなかったしね。」

「“学生の頃にちょっと”…」

菫は以前に蓮司が言っていたことを口に出した。

「よく覚えてるね。」

「あ、えっと香澄ちゃんが…絶対女だって言ってて…」

焦って変な言い訳をしてしまう。蓮司も思わず小さく笑ってしまう。

「それで、卒業間近の頃に個展やってみないかって言われて…」

「あの個展。」

「そう。」

「まだ学生だったんだ…。」

「うん。たったの4〜5年前だけど…今よりまだ全然ガキだったから、あの頃は本気であの人のこと好きだった。」

「………」

「だから個展も頑張って、あの人のこと喜ばせようって思ってたんだけど…」

「………」

菫は黙って聞いている。

「あの人…結婚してたんだ。」

「え」

「知らないうちに不倫してたんだよ。最低でしょ?」

「え、でも…知ってから別れたなら…」

蓮司は首を横に振った。

「え…」

「旦那がいてもいい、俺の方を本気で好きなはずだ…って思ってた。そのうち旦那と別れて俺だけになるはずだ…って。」

(あ…)


『恋愛ってそういうもんだよ。相手に好きな人がいようが、結婚してようが、気持ちはどうしようもない。』

『スミレちゃんはいい子だね。』


以前に蓮司が言っていた言葉の本当の意味がわかった。


「でも、あの人は俺のことなんか全然好きじゃなくて。狙いは別のとこにあった。」

「……狙い?」

「個展をやったギャラリーのオーナーがあの人の旦那だったんだ。」

「え…」

「若手の、これから伸びそうなアーティストに個展をやらせて、ギャラリーのオーナー…つまり旦那にクソみたいな安値で買わせるのがあの人の目的。あの個展に出してた作品も買い叩かれそうになって」

「………」

「文句言いに言ったら、不倫してたこと訴えるって言われて。あの人はあくまで俺が言い寄ったってスタンスで…もちろん旦那とグルだったんだけど…」

「ひどい…」

「結局あの時出してた作品は全部タダで手放した。俺が売れれば売れるほど、あの時の作品は高値になるって…吐き気がするよ。」

「そんな…」

「だから個展はもうやりたくないんだ。嫌なこと思い出すから。悪いのは俺だしね。」

蓮司は悲しげに笑った。

「あの時…私は元気を貰ったのに…蓮司はそんな風に苦しんでたんだ…」

菫は蓮司をぎゅっと抱きしめた。

「なんで菫ちゃんが泣きそうになってんの…」

菫は抱きしめる腕に力を込めた。

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