第4話 忘れ物

会社を出て30分後

菫は蓮司のアトリエで呆然としていた。

「忘れ物って…」

「だからこれ。忘れ物。」

そう言って蓮司が差し出したのは、炭酸水のペットボトルだった。

「言ったじゃん、飲み終わらなかったら持って帰ってって。」

「開けてないんだから、冷蔵庫に戻したら良いんじゃないですか!?」

———はぁ…

菫は脱力して溜息をいた。その様子を蓮司はどこか嬉しそうに見ていた。

「やっぱ無防備だよね。忘れ物が何か確認しないで、また俺と二人きりになっちゃって。」

揶揄からかうように言った蓮司に菫はムッとする。

「今日はドア開けてますから…。」

「虫とか入って来そう。」

「…私が帰ったら閉めてください。もう帰りますので。」

(この人とはまともに話せないから契約も無理…社長に謝ろう…)

菫は鞄に炭酸水を入れて帰る素振りをした。

「あれ?帰っちゃうの?」

「炭酸水、受け取りましたから。」

菫は後ろを向いたまま静かなトーンで言った。

「あれ?いいの?もっと大事な物忘れてると思うけど。」

「なんですか?お菓子でも出していただきましたっけ?」

そう言って菫は不機嫌そうに振り返った。

———ペラッ

そこには蓮司が紙を持って立っていた。

「これ、必要なんじゃないの?」

「それ…契約書…?」

蓮司の署名と捺印もされている。

「必要でしょ?」

「え、でも昨日は無理って…」

菫は今日、改めて蓮司を説得するつもりでここに来た。

「気が変わった。俺、スミレちゃんと仕事したい。」

「契約の内容が頭に入らないって…」

「ちゃんと読んだよ。商品ジャンル毎の契約で、他社から同一ジャンルの話があったら要相談。既存作品の場合は使用料、描き下ろしの場合は制作費に使用料含む、あとは商品の生産数によってロイヤリティが規定のパーセンテージで支払われる、今回の希望は手帳とノートとレターセットとメモ帳と付箋とファイル。販促物への使用は都度相談、でしょ?制作費も使用料もロイヤリティも違約金もこれでいい。」

「え…?」

「ちなみに俺カメラもパソコンも自分でできるから、デカい作品は写真撮って補正してデータ渡すよ。合わせる文字フォントは指定させてほしいけど、レイアウトは作品イメージが変わらなければ好きにやってもらって大丈夫。イメージわかんなければフォーマットもらって最初は俺がやってもいいけど、デザイナーのやりたいようにやった方がメーカー色が出るんじゃない?スミレちゃんがくれた商品のカタログ、結構センス良い感じだし。」

「は…?」

蓮司がペラペラと仕事の話をするので菫はわけがわからない。

「昨日は“そういう話苦手”って…」

「スミレちゃんて、本当ほんと素直で可愛いよね。」

蓮司はいたずらっぽく笑った。

(嘘だったってこと…?)

「はい」

蓮司が菫に契約書を渡した。

なんにせよ、無事に一澤 蓮司と契約ができるのは喜ばしい。

「…ありがとうございま…え…?」

契約書をよく見ると、手書きの文章が追記されている。

“担当者は週一日以上一澤蓮司のアトリエを訪問すること。”

“担当者は川井菫。変更した場合は契約解消。”

「え!?何ですかこれ!」

「基本的に毎日いるからいつでもどうぞ。それ以外の契約書にはもうサインしないから。」



午後 ミモザカンパニー

「こんな内容だったら別に無理して契約しなくても良いけど。」

明石が言った。

「え、でも…」

人気上昇中の一澤 蓮司の商品を発売できれば売り上げは確実に上がるし、会社の知名度も高まると予想できる。まだまだ新参のメーカーであるミモザカンパニーとしては願ってもない好機だ。

追記事項以外は全てミモザカンパニーの希望通りの契約内容で、作品データの準備などもすべて蓮司本人が行うというのも本来はあり得ないくらい良い条件だ。

「私は大丈夫です。週一、平日は厳しいので土日に行きます。」

「いや、土日は使わせられないから、そこは柏木と俺で川井さんの担当営業先のフォローするようにするけど…そういう話じゃなくて、男がこういう条件出して来てるのが心配。」

この手の話に呑気な菫の様子を見て、明石は溜息をくと何かを考えるように無言になった。


翌週 月曜日

「ミモザカンパニーの明石あかし あまねです。よろしくお願いします。」

明石が名刺を差し出した。

「…一澤 蓮司、です。」

明石は菫と一緒に蓮司のアトリエを訪れていた。菫は明石に持たされた手土産を蓮司に渡した。

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