第10話


「いつまで寝ているの、早く起きなさい」と、大きな声でママが命令する。

 パパは布団に潜り込むようにして寝ているので返事もしない。早起きのママや僕と違って、朝寝坊は特技の一つだ。いい年をして一、人で起きられないから困ったものである。横になっている時に、どうしても返事をしなければならなくなると「ああ」とだけ声に出す。機嫌が悪いと「ああ」と発声するのも面倒がる。僕はよく、色々な大人に「おりこうさんね」と、頭を撫でてもらえるが、パパがそんな風にされるのを見た例がない。

 僕はパパと違って早起きして、毎日ラジオ体操をしている。パパが起きるころには朝食をすましている。コーンフレークなら、自分で牛乳を入れるだけで出来上がる。ママより早起きしたときは、そうしている。顔を洗うのも、歯を磨くのも、服の着替えも一人で出来るので、ママにとってはパパよりも躾が楽だ。

 掃除や洗濯を手伝うが、力仕事だけは適性に合わない。それと、高いところにあるものを取るのも不可能だ。家では僕よりもパパの方が役立つ仕事もある。

 ママは相変わらず「まだ起きないの」と声をかけたまま、しばらくそこに立ち寝具をぼんやりと眺めている。やはり、返事がない。布団を引っ張り「いつまでも寝ていないで」と重ねて反応を待っている。観念したのか「ああ」とだけ返事をした。だが、まだ起きる気配がないので、ママは掃除機をぶんぶんとうならせた。

「何だ、人がせっかく良い気分で寝ているのに、起きたいときに起きる」

「いつも、そういっていつまでも寝ている」

「俺は嘘をつかない、起きると言ったときには起きている」

 ママは抗議を無視して、また掃除機をかけている。

 あまりにもうるさくなったので、パパは布団の上に勢いよく起きた。こうなると、朝寝坊も夢うつつもあったものではない。起きるとすぐに、頭をがりがりと掻き回す。僕はフケを吸い込みたくはないので、すこし離れた場所に移動した。

「しつこく『起きろ、起きろ』と、連呼するな、この馬鹿野郎」と怒鳴りつける。

この時、家に来ていた工務店の息子、弥次郎が大きな声で「ワーン」と泣き出した。弥次郎に聞くと、僕のパパが怒ったときに必ず、出来るだけ大きな声で泣くように母親から命令されている。弥次郎は「お前のいるところで、泣き顔を見せるのは屈辱的だが、従わないとあとで何をされるか分からない」と恐れている。

 おばさんはパパが怒るたびに小遣い稼ぎが出来て良いが、弥次郎にとってはいい迷惑である。このままだと、弥次郎はいじけた人間になる。幼児に対する虐待や、恐怖 支配は紳士淑女の用いるべき手段ではない、少しは周囲の様子を見て勘の働く男なら、パパもたびたび怒らないがそうは行かない。

 僕ならいくら玉田君からお金を積まれても、おやつをもらったとしても、こんな悪質な手口には加担しない。玉田君は児童虐待防止法の教唆犯、おばさんは実行犯で断罪されるべき存在だと思う。

 パパの怒鳴り声に合わせて泣く程度なら、まだ心の余裕が持てるが、玉田君がゴロツキを雇って乱暴すれば、普段は勇ましい弥次郎でも精神疾患に罹るのは間違いない。

 精神分析で高名なフロイトは、幼児期の虐待が後の人間形成に悪影響を与えると指摘していた。玉田君やおばさんが、幼児期にどんな虐待を受けて来たのか知らないが、一代限りで終わらせるべきである。子供に累を及ぼすのは絶対的に反対である。

 ママの𠮟声に加えて、掃除機の音や弥次郎の泣き声に苛立ち、やっとパパは薄ぼんやりとした目を見開き、洗面所の方に向かって歩き出した。パパは瞬間湯沸かし器のように、よく怒り出すが執着心がなく、しばらくすると忘れている。泣くのも笑うのも長くは続かず、感情の高ぶりはいつのまにか治まり、気分はころころとよく変化する。

 洗面所で顔を洗い、歯を磨くと、パパは両手を上に伸ばして「うおーっ」と大きなあくびをした。それは、テレビで見たアカギツネが威嚇するときの咆哮に似ている。パパはパジャマを洋服に着替えていると、例のごとくママは掃除を再開した。

 パパは台所の自分の定位置に腰かけ、食事の支度が出来るのを待っている。

 人は本来、怠け者根性を持っている。自分の手抜きや誤魔化しは正当化するが、他人の怠惰や横着はいくらでも憎んで批判を差し向ける。僕はパパにもコーンフレークでさっさと朝食を済ませる知恵を授けたくなる。

 さすがに子供は聞き分けが良く、人間的にも優れている。パパのように駄々をこねないで楽しそうにご飯を食べるし、嬉しいときは素直に笑顔を見せて喜ぶ。世の中を見渡すと、強欲で自分本位の人間ほど高い地位に上るのを欲して、他を隷属させようとする。

 弥次郎でさえ、コーンフレークを旨そうに食べてくれる。弥次郎はスプーンを上手に使えないので、シリアルボウルの中の牛乳を周囲に跳ねまくり汚している。まるで小さな暴君だが、悪気がないのは分かる。ただ、単に僕に比べて酷く不器用なだけだ。弥次郎は乱暴者だが、打算はなく、偽善でもない。要するに無分別なだけだ。

 玉田君の権勢に押されて利用されただけの哀れな子供である。経営の神様と言われる、松下幸之助は「実業人の使命というものは貧乏の克服である。社会全体を貧より救ってこれを富ましめるにある」と、教訓を残している。

 玉田君や夫人の岩石さんは、金欠症のパパへの攻撃を中止してむしろ救いの手を差し伸べるべきではないか。少なくとも愛すべき隣人に対する仕打ちとしては、あまりにも酷薄なやり方だといえる。

 弥次郎が牛乳をまき散らし、コーンフレークをポタポタと落としている時は、ちょうど弥次郎の母親がご飯をよそおっているところだった。さすがに、おばさんも見かねて「まあ大変、弥次郎、ちゃんとお行儀よく食べなさい」と言いながら、ハンカチで弥次郎の顔を拭く。そしてついでのように布巾でテーブルを綺麗にした。

 弥次郎の家族の普段の生活ぶりが窺える。だが、弥次郎は母親が目を離すと、同じ失態を繰り返す。僕に比べるとまったく出来の悪い子供だ。

 さっきからこの一部始終を見ていたパパは、何も言わずに自分のためによそおったご飯を食べ、自分の味噌汁を飲み終わると、爪楊枝を口にしていた。パパは他所の家族には口出ししない。弥次郎が乱暴者になってボールや弓矢を家に打ち込んで来たとしても、当面は静観を決め込むつもりだ。

 今の世の中は、嘘をついてうまく立ち回る人と、先回りして人を出し抜く人と、虚勢を張り、人を恐れさせる人が大勢存在している。正義か不正義かも、言葉の綾にすぎないと思う輩である。僕も日本男児の一人として、この国の行く末を案じている。こんな連中ばかりが増えるとこの国は衰退する。

 人はよく思想信条の問題だと主張するが、迷妄邪説ではないとどう判断している? 思想信条が、奇妙なイラショナルビリーフを形成し、判断を誤らせる展開にしか力がないとしたら、もっと虚心坦懐に考える習慣から学ぶべきだ。今の大人たちは、二歳児の僕よりもまともな判断が下せないように思える。まったく、情けなくなってくる。

 そんな連中に比べると、僕のパパの方が遥かにまともな大人だ。身勝手だが意気地なしだから、まともなのである。無欲恬淡としているところがまともなのである。姦計をめぐらさないところがまともなのである。

 こうして、いかにも身勝手に朝食を済ましたパパは、クルマに乗って出掛けた。

 その後で、ママと弥次郎の母親が並んで食事をした。親戚でもない他所の家族が早朝に訪ねて来て、朝食を一緒にしている。奇妙な光景に思えるが、僕の両親は何の疑問も浮かばない。夢野にしても、弥次郎の家族にしても無遠慮である。もっと裕福な家庭に寄生して欲しい。やがて、弥次郎の家族も用をはたしたと見えて帰って行った。

 一時間は家内安全、無病息災で僕の興味の対象になる事件は起こらなかったが、突然のごとく珍客が訪ねてきた。

 女子大生らしく、カジュアルな服装で運動靴を履いている。パパの姪で、僕から見ると従姉にあたる。連休中や春・夏・冬の長期休暇などに時々、やって来て、家族と喧嘩して帰って行く絵美さんだ。容貌は名前ほど美しくない。普通顔の代表者として名乗り出ても不思議ではないほど、外でよく見かける顔立ちである。

「伯母さんお久しぶりね」とリビングルームへ入って来て、テーブルの前に腰かけた。

「おや、朝早くからどうしたの」

「連休中なので、朝のうちにちょっと上がろうと思って、急いで家を出て来たの」

「何か、急用でも出来たの」

「あんまりご無沙汰しているので、訪ねてみたのよ」

「ゆっくり遊んで行ってね。もうすぐ伯父さんが帰ってくるから」

「伯父さんが居ないなんて珍しいのね」

「図書館の新聞資料室で、調べ物をするのだって」

「伯父さんが休みの日に早起きするのは、余程でしょう?」

「伯父さんほど、寝坊助はいない。今朝も七時までに起こせと頼むから、起こすとぷんぷん怒るのよ。本当に呆れたわ」

「何故、そこまで寝坊なのでしょう?」

「本人は低血圧症のせいだと言い訳するけど、要するに心がけだと思う」

「伯父さんほど強情な人はいない。この家を訪ねてくる人の中にも、ああいう人は見当たらないと思う」

「無類の変わり者ですよ」

「物分かりの良い佐々木さんに意見を言ってもらえば、少しは考えを改めると思うけど」

「ところが、うちでは佐々木さんは評判が良くないのよ」

「皆、世の中とは考え方が逆なのね。あの方が一番、良識的でしっかりしている」

「夢野さんは悪ふざけばかりだし、翠明さん、頑迷さんは主人の前では畏まっている」

「適任者はいないの」

「まあ、そうね」

 そこへ駐車場からクルマの停車した音が聞こえたと思ったら、たちまち「ただいま」と、声が聞こえた。パパが図書館から戻ってきた。鞄は出かけた時より、明らかに分厚くなっている。パパはゆったりとした構えでリビングルームに入って来る。「ああ、来たのだね」と絵美さんに挨拶しながら、すとんとテーブルに瓢箪型のものを置いた。

「変な形をしているけど、どこでこんなものを見つけたの」と絵美さんがパパに聞いている。パパは絵美さんの顔を見ながら「どうだ? 見事なフォルムだろ」と自慢げに答える。

「それのどこが良い形なのかしら? それに、なんの壷なの」

「単なる壷じゃないよ。美術家の鑑識眼で見ると、これほどの物はない」

「それは何?」

「瓢箪型の一輪挿しだ。純銀のものをたったの五万円で手に入れた。無論、花を活ける気がしない」

「口が小さく、胴の部分がくびれていて不格好に見えるわ」

「そこが素晴らしい。お前もセンスがないな。寸胴と暮らしていると、腰がくびれた美人と暮らしたくなる。男の願望にも美的価値にも適っている」と壷を取り上げると、くびれた部分を撫でてみたり、回して眺めたりしている。

「どうせセンスがありませんよ。この年で骨董品の値打ちが分かったとしたら、むしろ変でしょう? 瓢箪を衝動的に買って帰る真似はできないわ。ねえ、伯母さん」

ママは壷には興味がないので、一瞥しただけで

「金欠症なのに、状況を考えないで余計なものを買ってくる。何度、言っても聞き分けがない。ねえ、ちょっと聞いているの」

「お前のような寸胴に、くびれの価値は分からない。骨董屋に聞くと、かなりの値打ち品だ。どこから見ても、名品、珍品の味わいがある」

「くびれに価値なんか、あるのかしら」

「あるよ。女のくびれが魅力的に見えるのは、ウェストとヒップで七対十だ。それ以上でも、それ以下でもだめだ。これが、美的な黄金比率だ。しかも、万国共通の基準だよ。よく見ろ、この壷もウェストとヒップで七対十にくびれているだろ」

「変な理屈ばかり知っているのね」

「黄金比率ねえ。うーん、どうかしら」

「女も壷も基準は同じだ。コーラの瓶を見れば分かる」

「だけど、瓢箪を綺麗だと思わないわ」

「そうそう、伯母さん、この壷はむしろ小汚く見える」

「これだから女は困る。大芸術家に男が多いのも頷けるよ」

「でもね、こんな壷に五万円も使うなんて……。そんなお金がどこにあるのかしら」

「詐欺師から三十七万円も返金された。五万円は安いものだろ」

「百万円盗られて三十七万円戻ってきたから、マイナス六十三万円の損失です。五万円の出費を加えると大損だと思う。どうするの」

「細かい話はどうでもいい。万事、自分が満足できれば良い」

「こんな壷を買うなら、もっと安くて良いものがあったでしょう?」

「伯父さんの思う珍品なら、アマゾンやメルカリでいくらでも見つけられる……」

「ところがないよ。骨董屋に言わせると、滅多に出ない掘り出し物だ」

「伯父さんは、頑固すぎると思う」

「まだ、親に養われている学生の身分なのに生意気だ。貝原益軒の『女大学』の現代語訳でも読めばいい」

「古すぎる。伯父さんは人間が古いのよ」

「現代人は二から三年の短観でしか物事を見なくなっている。時代は加速度的に進歩を遂げつつあるが、人生の単位で見るとき、先人の考えは役に立つ」

 たまに、パパの正論は的を射る。天性の勘が働くのだ。絵美さんはパパに言われた意味が分からないのか、目を白黒させて黙っている。すると、パパは尚も

「これからの時代は、百才を超える長寿者が大勢出てくる。老化のプロセスは解明されているから、どんな時代になるか分からない。だから、俺は古典を読めと言っている。和洋折衷の大正ロマネスクを超える、今昔折衷の令和ロマネスクを目指すべきだ」

 僕にもパパの主張が論旨の整合性の点ではよく分からないが、これからは長寿社会が実現するから、長い人生の指針を歴史から学べと言いたいのではないかと思った。パパは説明能力に欠けるから誤解を招く。

「それって矛盾して聞こえるわ」

 やはり、絵美さんは時代が進歩するから、古い考えが必要だと指摘していると思っていた。そういう組み立てだと、矛盾を感じるのは分かる。

「矛盾はない。温故知新だ」

「どういう意味?」

 これだから、無理解なものどうしの会話は困る。双方に、通訳が必要である。意味の通じないメタコミュニケーションに長々と付き合うのは御免蒙りたい。

「そもそも、無知は罪悪だよ。女子大生ならもっと、言葉の意味から勉強しないといけない」

 絵美さんは無知を嘲笑されたと感じたのか、目から一滴の涙を流した。パパには女の涙が理解できないのか、怪訝そうに絵美さんの顔を見つめている。

 そこへ玄関のチャイムの鳴る音が聞こえた。これはいつも無遠慮な夢野や高校生が来た時とは明らかに違う。チャイムを鳴らす知恵のあるものが来た。

 ママが玄関に出向いたあと、家に入ってきたのは仏教学者の永野無明君だ。永野君は輝けるスキンヘッドを撫でるとパパに向かって「やあ、久しぶり。五年ぶりだな」と笑った。

 無論、僕は初めて会った人物だ。

 永野は「これは坊やのプレゼントだ」と、僕に土産物を手渡した。包みを開けて、僕が驚いていると「それは函館名物の『いかようかん』だよ」と説明する。

 不覚にも生きた烏賊を想像して、ぎょっとしたが間違いなく羊羹……、つまりお菓子である。

 永野君は風格のあるスーツ姿で、澄ましている。

 絵美さんが遠慮して食卓テーブルの前の椅子に移動すると、パパはソファーの方へ「そこに座ると良い」と指図した。

 永野君は絵美さんに一礼するとそこに腰かけた。

 パパは挨拶を交わすと、いつになく饒舌に最近の出来事を永野君に話して聞かせた。岩石さんや、詐欺師に騙された顛末、行雲館の生徒たちとの経緯など一通り話すと

「最近は実についていない。運命論者の君ならこれをどう思う?」と尋ねた。

「僕は元来、運命論者じゃないよ。仏教では因果応報と言って、運命論の立場でとらえるのではなく、自分の言動の報いを自分が受ける立場で考える。いわゆる自業自得だ。僕も運命論あるいは宿命論ではなく、そう考えている」

「もっと簡単にいうと、何だ?」

「つまり、君自身の言動が君に報いをもたらしている」

「それなら、僕はどうすれば良い?」

「まあ、心がけを変えるのだな」

「何だ、それなら、毎日取り組んでいるよ」

「大体、君は人に対する接し方が分かっていない」

「いや、違う。時代を先取りする天才や聖人君子は、昔から周囲の無理解に傷つけられ迫害されている。僕の場合もそれと同様だ」

 パパは自分で意見を求めておきながら、批判されると聞こうともしない。

「まあ、そう思っておいた方が、君の身のためだ。自分でどうするかは、考えて決断すれば良い」

「ところで、この一輪挿しの壷を君ならどう思う?」

 少々、気まずくなったのか、パパは目をしょぼつかせると話題を他に切り替えた。

「茶人の千利休は、一輪挿しを余分なものを除いた純粋な美だと賞賛した。だから、悪くはない。が、良いかどうかは花を挿してみないと分からない」

「まあ、そんなところだと思った」

「自分の態度を改められないのなら、深くは気にしないことだ」

「どうして、そんな風に言える?」

「この世界はホログラムだ。仏教思想ではインドの僧侶・世親の唯識思想を要約した書物『唯識三十頌』を唐代の学僧・玄奘三蔵が翻訳してまとめている」

「玄奘三蔵は人物名か」

「君も知っている三蔵法師だ」

「『西遊記』に出てくる三蔵法師なら私でも知っているわ」

「孫悟空、沙悟浄、猪八戒の出てくる『西遊記』か」

「そう『西遊記』の三蔵法師だよ。もっとも、物語は後世の創作だがね」

「唯識なんとかいう本には何が書いてある?」

「つまり、人の心のみが実在し、他のすべては幻想に過ぎない。僕らは共同幻想を生きている」

「それは『般若心経』や『法華経』に書かれているのと同じじゃないか」

「そうとも言える」

「般若心経なら知っているわ。ギャーテー、ギャーテー」

「般若心経でいう色即是空、空即是色は、色は物質世界、空は実体であるとともに形のない波動のように捉えにくい。空、つまり波動状のものを色である物質に変化させるのは、人間の知覚だ。法華経となると、もっと思想的に奥行きが深いので、簡単には説明が難しいがね」

「何かピンと来ないね」

「難しすぎるわ」

「そうとも言える」

 絵美さんはいつの間にか席を立ち、戻ってくるとお茶を恭しく出した。

「お茶は水分補給だけではなく、カフェインで気分転換や脳を活性化する。お前にしては素晴らしいサポートだ」

「そうとも言える」

「君はさっきから、そればっかりだ」

「禅語の『喫茶去』を知っているか」

「意味までは、知らない」

「永野さんの話は、難しすぎるわ。私に分かるのは孫悟空だけかしら」

「これは失礼した」

「ところで永野君は、遊びに来たのか」

「いや、そうじゃない」

「それじゃ用事かな」

「まあ、そうだ」

「僕に何か関係があるか」

「そうとも言えるな。少し君に話したい件がある」

「具体的には、何だ? 遠慮なく話してくれ」とパパが促すと、永野君はさっきまでの饒舌と違い、思案深げに俯くと黙っていた。永野君は達観したような理屈を明言する男なのに、なぜか口のなかでもごもごと、要領を得ないのは、何かいわくありげである。

 絵美さんは様子を見て「少し席を外しましょうか」と、ママが居る台所の方を見た。

「本当に話しても良いのか」と、絵美さんが席を外しても永野君はまだ迷っている。

「話しにくいのか」と、パパは永野君の顔を見ると、姿勢を正し「いいよ。何でも好きに話してくれ。他に誰も聞いていない。僕も言いふらしたりはしないよ」と穏やかな口調で付け加えた。

「では、遠慮なく話すよ」と、少し眩しそうな表情でパパの方を見た。そして、タバコの煙を吐き出しながら横を向いた。

「実は困ったことになった」

「何が? 金策でもしているのか? それとも事件に巻き込まれたのか」

「早合点をされても困る。そういうケースではないが、問題があるから相談に来た」

「だから何の問題だと、聞いている」

「付き合っている」

「誰と?」

「言いにくい相手だ」

「今、ピンと来たよ。君の年齢で若い女と付き合って、手切れ金を要求されているのか」

「いや、それも違う」

「じゃあ、何故?」

「つまり、相手が玉田家の令嬢だ」

「まさか、令嬢は翠明君と交際中だ」

「相手が悪すぎる。どうして、あんな女に手を出した? 自分の立場や年齢を考えなかったのか」

「僕じゃない」

「じゃあ誰だ?」

「僕にとって大事な人間だ」

「まったく、要領を得ないな。誰だよ」

「僕の息子だよ」

「君の息子が、玉田の娘に手を出したのか」

「いや、だから言いにくい」

「話を聞かなければ分からない」

「あそこの娘が生意気で人を人とも思わない女だから、懲らしめてやろうと言ってうちの息子が玉田令嬢を口説いた」

「口説くのが何故、懲らしめる話につながる?」

「口説いた後で、振りでもすれば、令嬢も悔しがると短絡した様子だ」

「君の息子と、玉田家の令嬢とでは身分が違いすぎるから、口説けないだろ」

「結果がどうであろうと、揶揄ってやろうと思ったそうだ」

「あまりにも乱暴すぎる。それに相手が悪い」

「だから、君に相談に来た」

「後になって、相手が玉田財閥の令嬢と分かったので、息子もどんな仕打ちをされるか分からないと言って怯えている」

「だから滅多な手出しをするものじゃない」

「本人は軽い気持ちだったが、こんな事態になるとは……、で、頓馬君ならどうすれば良いと思う?」と、さっきまでのご高説を話している時と違い困惑している。永野君は自分の息子には、心がけを変える効用を説かなかった。

 パパは現実問題の難しさに直面して戸惑うどころか、形勢が逆転したのを喜ぶように「まあ、他ならぬ、君のためだ。何か考えてみよう」と、腕組みしている。

僕はパパの思惑などお見通しなので「くすくす」と笑った。

 二歳児の僕が面白いと興味を示すと、何が面白いと疑問に思う向きもある。疑念を抱くのは妥当な判断だ。大人であろうと、子供であろうと、自分自身を知るとともに他人を深く理解するのは生涯の課題である。自他を理解できるならば、大人も大人としてすべての子供から尊敬されても良い。

 しかし、鏡を見ないと自分の顔立ちや表情が分からないのと同様に、自分がいったいどんな人間なのかは容易には分からない。だから、永野君のような仏教学者でも、パパのような作家気取りに相談を持ち掛ける。大人は偉そうでいて、どこか抜けている。そこが愛嬌でもある。ただし、愛嬌を見せるのは、馬鹿と誤解される状態を恐れてはいけないのが前提だ。

 僕がこのタイミングで永野無明君と、パパと、絵美さんを面白がるのは、ただ単に事件の性質や展開を面白がっているわけではない。実のところ、事件の波紋が大人の心に個々別々の音色を奏でるのが分かるからである。まず、パパは今回の事件にはクールに反応している。永野君がどれだけ狼狽しようと、本心では驚いていない。

 実際、永野君の息子が岩石さんにどう遣り込められようと、自分が抱える問題ではない。関係が希薄な事件には、関心も薄いわけだ。よく知らない相手のために思い悩むのは、動物の本能とは異質のものである。大人たちが徳義のために力を尽くす、親切心のある生き物だとは考えにくい。ただ、この世界に生を受けたため、仕方なく人と付き合い、社交辞令で笑顔をつくり、気の毒だと同情する振りをして涙を見せる。

言わば本質的な優しさなどではなく、演技演出による。このごまかしの巧拙を競い合い、優劣で人を判断する。だから、人から尊敬される者の中には、怪しいものが散見される。パパはこの点で拙劣なので、人から尊敬されない。尊敬されないから、クールに振舞える。人に対してクールだからと突き放して、僕はパパのような善人を嫌う気がしない。

 人間の本質はクールだが、それを隠そうとしない方が正直者だ。

 人として生まれて大人になるまでに、踏んだり、蹴ったり、怒鳴られたり、無視されたとしても平気でいられる覚悟が必要だ。大きな声で罵倒されるのも、嘲笑されるのも肯定的に考えなければならない。それでなければ、インテリやエリートと名の付くものとは付き合えない。

 永野無明君も息子がしでかした一件で、恐れ入っているが仏教学者らしく、泰然自若としてもらいたい。永野君は余裕を見せようとするほど、内心の不安が表出する。旧知の頓馬宅を訪ねたら、人の好いパパが助けてくれると思っているのは明白である。人は自分のような人間には、親切にすると感じる思い上がりが、発端となり行動している。

 まさか、パパに嘲笑されるとは思いもしなかっただろう。僕は永野君に、人が本来クールな存在である内実を学んでもらいたい。そう構えると、世の中は味方し始める。玉田夫妻のような人間に対抗する唯一の手段ではないか。

 そう考えて面白く思っていると、また人が入ってきた。顔を見ると翠明君である。

「お客さんでしたか」と翠明君は遠慮がちに聞く。

「まあ、いいよ。そこにでも座ればいい」

「今日は頓馬さんを誘いに来たのです」

「どこへ出る? あまり遠出をしたい気分でもない」

「新宿御苑に、野生の狸が出るそうです。見に行きませんか」

「あんなところに、狸が出るわけがない」

「中に看板まで出ているそうですよ」

「行っても、タイミングよく狸を見られるとは限らない。それに、つまらない」

 翠明君は、たった今気づいたかのように「お邪魔します」と永野君に軽く会釈して、ソファーの縁側に近い方に腰かけた。

「狸をほんの一瞬、見学出来たとしてもつまらない」

「勿論、写真を撮るつもりです。それに、狸がよく出没するところは調べていますよ」

「ふーん、どうかな」

「狸は人間を騙すといわれる生き物です。それだけ、利口ですよ。僕は狸から学べると思っています」

「そんな心境に、どうすればなれる?」

 パパは永野君にクールに対応したように、翠明君の冒険心にもクールである。

 今のタイミングまで、黙って話を聞いていた永野君は、パパのクールな応答に自分の相談内容を思い出した様子で

「頓馬君、僕はどうすれば良い?」と返答を促す。

 翠明君は不審そうに輝ける禿頭を眺めた。

 僕は冷蔵庫からヤクルトを取り出そうと考えて台所へ回った。

 台所ではママがにこやかな表情で、カップにコーヒーを注いでお盆の上に載せて

「絵美さん、これをお客さんに出してくれる?」

「それは、ちょっとね」

「どうしたの」とママは驚いて、笑顔から真顔に戻る。

「理由は聞かないで」と、絵美さんは顔を赤らめながら俯いている。

 ママはもう一度交渉する。

「絵美さん、いつもと様子が違うわね。相手は翠明さんですよ。気を使わなくても大丈夫よ」

「それが嫌なのよ」と、また俯いてもじもじしている。

「別に、恥ずかしがらなくても良いのよ」と今度はママも笑いながら、わざとお盆を押し付ける。

 絵美さんは「伯母さんも人が悪い」と、コーヒーカップの載ったお盆を押し返す。その拍子に、コーヒーカップは床の上に転げ落ち、中の液体は容赦なく流れ出した。

「だから、言ったでしょう?」とママが指摘すると、絵美さんは「御免なさい」と、雑巾を取りに行った。

 僕はこの寸劇が少し面白かった。

 夢野君はそんな様子には気づかずに、頓珍漢な受け答えをしている。

「さっき、台所でガシャンと、大きな音がしませんでしたか」

「ああ、あれなら月に一度はやる、うちの恒例行事だよ。最近は、今のような音を耳にする機会が少なくなった」

「へえ、なるほど、そうでしたか」

 このやりとりを聞いて、いつまでもここにいても埒が明かないと思ったのか永野君は禿頭を下げると「僕はこれで失礼するよ」と、簡単な挨拶をした。

パパは「もう帰るのか」と尋ねたが、永野君は「ああ」と生返事の後で、直ぐに外へ出た。

 僕には永野君が失望しているように見えた。気の毒だ。このまま放っておくと、玉田夫妻にどんな反撃をされるか知れたものではない。この原因を作ったのは、玉田令嬢の生意気さと軽侮の念だ。

 翠明君にはもっと心優しい人物の方がふさわしい。

「頓馬さん、さっきの人はお寺の住職ですか」

「惜しいな。住職ではなく、仏教学者だよ」

「見事に輝ける頭の持ち主ですね。学究生活に熱心な人物でしょう?」

「ただ、ご高説は良いとしても、時々、奇妙な説を主張するので困っている」

「頭が良いから、余計な事まで考えるのでしょうね」

「ああ見えて、小心でいい加減なところもあるから、人間は分からない」

「頓馬さんの洞察力もなかなか鋭いですね。しかし今の様子では、頓馬さんを困らせているようには見えませんでしたよ」

「今日ばかりは、僕も大弱りだ。馬鹿息子を持つものじゃないな」

「何があったのです? 少し、聞きたくなりました」

「馬鹿な話だよ。玉田の娘にちょっかいをかけた」

「えーっ、あの坊主頭が、ですか? 近頃の学者は、身の程知らず」

「いや、さっき言った、馬鹿息子が手を出した」

「なるほど、そうか。さすがに、それは驚きました」

「どうだ? 心配になっただろ」

「いいえ、まったく心配していませんよ。かえって面白いです。いくら、手を出されたといっても大丈夫ですよ」

「君がそれだけ、自信を持っているのなら安心できる」

「まったく構いませんよ、むしろ、禿頭さんの息子がちょっかいをかけたのに驚いています」

「ご令嬢があまりにも生意気だから、息子が揶揄ったと話していた」

「上出来です。そう来ないとね。玉田の令嬢を揶揄うなんて愉快痛快じゃないですか」

「このままだと大事になる」

「どうなったって構わないですよ。相手が玉田ですからね」

「意外だな。君の妻になる人だ」

「妻になる相手だから構わないのですよ。玉田なんて、どうなろうと構わないですよ」

「君が構わないと言ってもなあ。やせ我慢をするものじゃない」

「やせ我慢ではないです。僕なら大丈夫ですよ」

「それは良いとしても、父親まで玉田を恐れて僕に知恵を借りに来た」

「だから、あんな風に粛々としていたわけですか」

「永野君は仕返しをもっとも恐れている」

「とにかく、可哀そうなのは永野さん親子の方だ。仮に揶揄するのが、悪事だとしてもあんなに戦々恐々とする必要はない」

「君の話は、いつもの夢野のように呑気だな。悪影響でも受けたのか」

「いえ、これは今の時代の考え方ですよ。頓馬さんは堅苦しく考えすぎる。少しは夢野さんのように気楽に考えて見たらどうです?」

「しかし馬鹿な者は馬鹿だ。コンプライアンスも何もない。いたずらに、女を口説くのは常識的にも可笑しくはないか」

「いたずらは、どんな場合でも常識的ではありませんよ。何とか助けてやったらどうです。功徳にもなるでしょう」

「そうだろうか」

「虐めに遭いそうな人間を放っておくのは、頓馬さんらしくない。そうするのなら、玉田の連中を懲らしめてやる方が面白いでしょう」

「それもそうだ」

「どうです。新宿御苑で狸を見つけに行くのは?」

「本物の狸か」

「ええ、本物の狸です。居酒屋の店の前の信楽焼の狸ではなくて、野生の狸ですよ」

「狸か? もう、化かされた気分だよ」

「ともかく出かけましょう」

「それじゃあ、出かけようか」

「行きましょう。今日の晩飯は僕が奢りますから、お任せください」と促されたので、パパも前向きになって、二人で出かけて行った。

 ママと絵美さんが客の真似をして爆笑していた。

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