第2話

 七月上旬の期末テストで、少年は各科目で高得点をとり、担任教師の夏目を喜ばせた。いくつかの科目では、完璧な答案で満点がつけられていた。

「今の調子で、頑張り続ければ、君の将来の見通しは明るい。君が望んでいるような研究者にもなれるよ」と、夏目は少年を勇気づけた。

 少年には――科学者になる――という夢があった。が、自分でも、到底叶うまいと心のどこかで感じていた。

 一方で、親友の省吾以外のクラスメイトは――科学の力で世界を救いたい――という夢を聞くと「一人の人間にできるのは限られている。だから、俺は、大それたことは思わず、毎日を楽しんで暮らす」「勉強しても、全員が偉くなれるわけじゃない」「楽しんで生きてこそ、人生だろ」「大それた夢を描くと、失望もそれだけ大きくなる」と、嘲笑した。

 夏休みに入る直前、母親が急性膵炎で倒れた。働き詰めに、働いていた母親だったが、雄大や妹の凛咲の前で、弱音を吐いたためしがなかった。母親は、顔を歪めると「背中が刺されたように痛い」と、訴えかけていた。

 母親の入院中、少年は朝夕の食事の支度や掃除、洗濯などをやりながら、勉強し続けた。幸い軽症だったので、母親は十日間の入院で家に帰ってきた。一家を支えていた母親の病気を機に、少年の意識には微妙な変化が生じていた。

 クラスメイトの指摘する通り、――夢のような将来を想うよりも、目の前の現実を見て、家族のために生きよう――と、少年は目標を変えていた。

 科学者として成功し、世の中の役に立ちたい――と、願うのは、身の丈にあったものではなく、実現可能性も低く感じられていた。さらに、中学卒業と同時に町工場で額に汗を流しながら働くのも、立派な構えではないかと思い直した。

 そこで考えたのは、夏休みの間、家計を助けるために、毎朝早起きし、新聞配達のアルバイトを始めることにした。それは、自分を支えて応援してくれた家族への返礼でもあった。

 家庭訪問の時、担任教師の夏目誠也は、学習できるように「あらゆる協力をする」と、本人と母親に告げたものの、隣で少年は浮かない顔をした。

 母親は、日中は仕事をして家に帰ると、炊事、洗濯、掃除を手際よくこなした。疲れていても、手抜きをしない姿勢を貫いていた。母親の後姿を見て、家計を支えるために、自分も働きたいと望んでいた。しかしながら、少年が調べたところ――労働基準法では義務教育は学業優先を建前にしているので、アルバイトは禁止されている――と気づかされた。

 少年は、十六歳と年齢を偽り、新聞配達を始めると仕事に励んだ。稼いだ分だけ、家計の足しにしようと考えていた。

 新聞販売店には、午前二時に毎日トラックで朝刊が届く。新聞紙にチラシを挟み終わると、配達員が自分の担当エリアの新聞を準備する。雨の日は、機械に通してビニールをかける。三時頃に新聞を持って出発してそれぞれの家に配る。

 店長は「朝の二時に店に来て、チラシを挟む仕事もある。配達員と兼務すると、給料も多く払える」と、すすめた。

 販売店には、夜明け前の周囲が真っ暗な時間に出向くと、すぐに作業に従事した。早朝に販売店から外に出ると、朝の空気は清々しく、母親を助けられると思うと、重い朝刊を抱えながら配達するのも苦にならなかった。

 夜中に起きてきた母親に見つかった時には「体力づくりのために、ジョギングしている」と、少年は口から出まかせを伝えていた。夕刊の配達は人目に付くので、店長に請われたものの断っていた。

 八月の日中の気温は高いが、早朝三時から五時までの涼しい時間帯に眠い目をこすりながら自転車を走らせるのは、努力しがいがあった。

 新聞配達を始めて、一か月が経過したころ、クラスメイトの薄田宏樹の家の前を通りがかった。

 宏樹の家は配達先ではなかったものの、近所の家に新聞を配達している最中に、家の中から人が出てきた。見覚えのある顔だった。少年が気づくと、向こうもこちらを見ていた。それが宏樹の高校生の兄であるのに驚き――どうか向こうが自分の顔を覚えていませんように――と、心の中で繰り返し唱えた。

 あくる日、登校した少年は教室の自席に座っていたが、前日の件を思い出すと心がざわついていた。斜め後ろの席の宏樹の目つきが異様な光を帯びているのが気になった。

 午前中の授業が終わって、生徒たちが席を立とうとしたとき、少年は担任の夏目に、職員室に来るように呼び出された。

「雄大、お前はアルバイトをしているのか? 明らかな校則違反だし、法律上も認められていない」と、顔を強い視線で睨みつけた。

「販売店には電話で確認した。店長は、お前が中学生だとは知らなかったと言っていたぞ」と、夏目は傍らの机に目をやり、少年に視線を戻した。「どうだ? アルバイトしているのか?」

「そうです」

 少年が答えると、

「俺は、親や周りの人間を欺いて金を稼ごうとするお前の魂胆を知りたい。些細な嘘が、後で取り返しのつかないトラブルを招くケースがある。教師の期待を裏切らないでくれ。一人で決める前に俺に相談しろ」と語りかけた。

「働かないとやっていけなかったのです」と苦しい胸の内を明かした後で「ですが、今後は先生に相談してから判断します」

 少年は応答しながら、この熱心な教師に面倒を見てもらうのも悪くはないと考えていた。

       ※

 母親が退院後、少年は夏休みの自由研究のテーマでは――環境問題への考察――として、農業や漁業の現状を調べた。

 地球温暖化の影響は、温州みかんやりんごの栽培適地を年々、北上させる展開が予測されている。気温の上昇は、各種の農産物の作柄にも悪影響を及ぼしていた。

 水産物も、同様に大きなダメージが懸念されていた。日本近海では海面温度が上昇しており、魚の餌となるプランクトンの減少が指摘されている。

 漁獲地も、温暖な海に生息するサワラは、元来、九州や瀬戸内海で漁獲されていたが、日本海の水温の上昇に伴って漁獲エリアが北方に拡大している。

 地球温暖化の生産者への影響を本やインターネットの統計資料で調べると、少年は直接生産者の声を聞いてみたくなった。少年は、和歌山県の漁港や農家を訪ねてインタビューをした。

 母親は、勉強に対する取り組みには、いつも反対せず「あなたのやりたいようにやりなさい」と、応援してくれた。

 病み上がりなので引きこもり生活が続いていた母親は、気晴らしに自分も同行すると言った。

 家族で旅行するのが決まると、少年が電話で民宿に一泊二日の予約を入れた。

 初日は、農家を訪ねて現状を視察した。農園は小高い丘の上にあり、緑なす森のように見えた。

 みかん農家では、生産地の北上を懸念しつつも、毎年の収穫で手一杯の様子だった。

「異常気象と農作物の収穫に関して調べています。生産者の方の生の声を聞きたいと考えて訪ねてきました。何かお困りではないですか?」

 少年の問いに、農家の中年の主婦は

「生産者の声が、偉い先生方の耳に届けば良いのですが……。簡単ではないでしょう。農業も、子どもたちは跡を継ぐのを嫌がっています。なるように、任せるしかありません」と、残念そうに答えてくれた。

 傍らにいた母親は「ありがとうございます」と、ひたすら頭を下げて様子を見守っていた。「気持ちが良いわね」日頃の苦労から解き放たれたかのごとく、母親は周りを見て呟いた。

「空気が美味しいし、景色もきれい」凛咲が明るい声で母親に話しかけた。

 季節はずれにもかかわらず、甘い匂いが漂っていた。

 温州みかんの収穫期ではなかったものの、ハウス・ミカンが栽培されており、明るくて光沢のある橙色のみかんが実をつけていた。

 ビニール・ハウスの中には、通路の両側にみかんの木が満員電車を思わせる混雑ぶりで生えていた。一つの木にいくつもの緑の葉を茂らせ、鈴なりに橙色の実をつけた木々は、さながら海賊船に積載された無数の宝箱だった。

 凛咲は「みかんが木についているところを初めて見た」と、はしゃいでいた。

 農家の主婦は三人を気遣い「一つどうですか?」と、三人にみかんを手渡した。

 少年が皮をむき、一房のみかんを口に入れると、甘酸っぱい香りとほのかな酸味が広がった。彼は、本の中にあるような学問的な考究ではなく、生活実感を知りたかった。

 インタビューの後で、農家の主婦と並んで写真を撮影してもらった。

 みかん農家の取材の後は、三人は潮岬や串本海中公園などに行って観光気分を楽しみ、民宿には夜遅く帰り着いた。民宿の手料理は焼き魚、刺身、天ぷら、みそ汁など、ありきたりだが家族三人で旅先の雰囲気を楽しむのには十分だった。

 目が覚めた時、民宿の部屋の中は、日の光で明るかった。自宅にいる気がして、布団の中で身体を伸ばした。天井の木目の模様を見て、自分が今、どこに来ているのかを思い出した。

 母親はすでに起きていて、座卓の急須から湯呑にお茶を注いで飲んでいた。座卓の上には、新聞が折り畳んだまま置いてあった。

 食卓に着くと少年は、素朴な疑問を口にした。

「自然環境は激変して、未曾有の危機に直面していると言われているのに、どうして解決策が簡単に見つからない?」

「疑問にも思わなかったわ。世界に比べてみると、一人の人間のサイズは随分、小さいでしょ。そんな小さな人間に、そんな大きな世界が想像できるのかしら?」

「僕の創造力は小さくない。大人になったら、研究したい」

「好奇心は辛抱強く育てないと、大きく育つ前に枯れてしまう。大事に育てて行きなさい」

 少年の心には、一度は冷めかけていた学問への熱情が、再び呼び起こされていた。

「将来は、何か解決策を見つけたい」

「頼もしいね」

 少年と母親が話していると、凛咲はテレビのリモコンを操作し、スイッチを入れた。

 テレビ画面には、モーニング・ショーで痛ましい事件の話題が取り上げられていた。高齢のドライバーが起こした交通事故で、画面に映る車体は、飴細工のごとくねじ曲がっていた。旅先の小型テレビに映る光景は、悲惨な出来事を異次元の事件に見せていた。驚くほど、クールに画面を眺めている自分に――少年は、驚いた。

 逆に、凛咲は画面にギョッとすると、即座にチャンネルを替えていた。今度はハリウッド・スターたちの華やかな話題が取り上げられていた。彼らのリッチで夢のある生活や恋愛事情に、凛咲は目を輝かせていた。

 朝食を済ませると、すぐに漁港に出向いた。海に近づくと、潮風の匂いが鼻腔をくすぐるのが感じられた。潮の匂いは、食欲を刺激するとともに、喉の渇きをイメージさせた。港には、近海かつお漁の釣り漁船などの船が並んで停泊し、漁港の賑わいを少年たちの眼前に示していた。

 漁師たちは、忙しそうに港を行き来していた。少年が一人の漁師に声をかけると、面倒くさそうに睨み返した。母親が事情を説明すると、漁師は作業の手を休めて、向き直った。日に焼けた顔には、深いしわを刻んでいた。

 串本漁港では、今年はタコの当たり年で豊漁でありながら、漁師は

「豊漁は有難い反面、労多くして益少なし――という展開も考えられる。それに、豊漁が収入に直結しないケースがある。相場が下がって安く買いたたかれた上に、売れ残ると採算が悪くなる」と、少年には予想外の返答をした。

 物見遊山で見物すると、漁師たちの日常が少年にとっての非日常なので、幻想的な世界に見えていた。漁港付近では、桟橋で釣り糸を垂れる一般の釣り人の姿もあった。釣り人たちは趣味の愉楽で魚を取り、漁師たちは生活のために魚を取っていた。

 農家でも漁港でも、生産量が乱高下せずに、安定的な状況が望ましく、計算も立ちやすくなり、経営が容易になると教えられた。

 少年は旅行をきっかけにして、地球温暖化などの自然環境の変化が生産者にどんな影響を与えるか深く考えた。

 長期休暇を終えて、登校するとクラスメイトたちは、健康的に日焼けしていて、休みの期間の楽しい思い出話に花を咲かせていた。

「久しぶりだね」少年が話しかけると

「海水浴で日焼けした箇所の皮膚がめくれて痛い」と、明日香は白い歯を見せて笑った。

 一時間目の授業が終わったときに、夏目は、少年を職員室に呼ぶと「奨学金制度や教育ローンは知っているか?」と、唐突に尋ねた。

「聞いたことはありますが、内容までは知りません」少年はローンという言葉に反応し、借金を連想した。ただでさえ、苦しい家計にローンの負担は気が引けていた。

「君は、誤解しているが、奨学金制度の中には、返済しなくても良いものがある」と、夏目は目の前に、数種類のパンフレットを広げて見せた。

「どんな条件で、お金をもらえるのですか?」少年は好奇心に目を輝かせて、パンフレットを覗き込んだ。「正直なところ、奨学金が貰えないと、進学は難しいのです。何とかならないですか? 高校進学を諦めて働く方が、家族を助けられそうです」

「君の科学者になる夢はどうなる?」

「夢よりも、目の前の現実の方が……」少年が言いかけると

「雄大のお母さんや妹を想う気持ちは分かった。だけどなあ、君は高校の進学率が、どれぐらいか知っているか? それに、高校に進学すればアルバイトも堂々とできるだろ?」夏目は、目の奥を窺うように、じっと見つめながら尋ねた。

「自分にも、受給資格があるのですか?」

「返金しなくて良いタイプの奨学金は、雄大や明日香のような成績優秀者が対象になっている。一応、審査はあるが、今の成績を維持できていれば大丈夫だよ」

 夏目の説明を聞いて、明日香が自分と同じぐらい優秀な生徒だという事実を知った。

「ただし、明日香の家は裕福だから、奨学金は必要ない。実はなあ、所得基準がある。雄大……、君の家の昨年の年収がどれぐらいか、調べておいてくれ」

 少年は夏目の申し出が嬉しかったものの、母子家庭の厳しさを鋭い目で見抜かれたのに、消え入りたいような恥ずかしさを感じていた。所得が基準よりも高いと、奨学金の受給対象から外されるが、自分には心配ないのが、すぐさま理解できた。

 自宅に帰ると、教師から貰ったパンフレットを母親に見せた。母親が勤め先から受け取っている前年度の源泉徴収票を見ると、所得基準は条件をクリアしていた。

「奨学金には、成績も基準になるけど、僕なら大丈夫」

 母親は奨学金の話を聞くと、辛そうな表情をしていたが顔を上げると、明るい声で

「家のことなら、心配しないで頑張りなさい」と、少年を力づけた。

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