第10話 『シャイニング』に見る魔改造適正

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 こんにちは。ようこそお越しいただきました。

 ここはダラダラと映画のイメージを述べていくエッセイです。大抵映画の感想ですらない。


 さて、だらだら映画エッセイ流れ第10弾はスティーブン・キングです。リクエストありがとうございます。

 スティーブン・キングは言わずと知れた小説家。今までのように映画監督ではないけれど、キャリー、It、ペット・セメタリーといったホラーからショーシャンクの空に、グリーンマイル、スタンド・バイ・ミーといったヒューマンドラマまで映画化されて大ヒットした作品は数しれず。


 今回のテーマは数あるスティーブン・キング原作でも『シャイニング』にしました。なお、原作未読です。

 シャイニングに関連する映像作品は3つあってとりあえず全部見た。


1つ目がスタンリー・キューブリック監督の映画『シャイニング』、最も有名。

2つ目がミック・ギャリス監督のドラマ『シャイニング』

3つ目がシャイニングの続編のマイク・フラナガン版の『ドクター・スリープ』


 有名なことではあるのですが、スティーブン・キングはキューブリックのシャイニングに大変ご立腹でした。魔改造されたんだからわからなくもない。日本ではデビ○マンとか色々あるので魔改造の可否、つまりパロディをどれほど許せるかは国民性という名の同調圧力によるのかなと思うのです。

 何故そんなことを思うかと言うとスティーブン・キングのキューブリックに対する憎悪が日本人の想像を超越してるからです。


 キューブリックは1980年にシャイニングを公開した。スティーブン・キングは激おこした。プンスコプンスコしたけれど、映像権を持っていたのがキューブリックなのが後の祭りという話。

 スティーブン・キングはもう『シャイニング』を正しく映画化することはできない。権利的には最早どうしようもない。だからひたすら色んなところでキューブリックを罵倒しまくった。それはもう村でも焼かれたのかという勢いです。

 普通ならそれで終わるのかもしれない。だって権利はキューブリックにあるのだから。けれどもあまりに鬱陶しい。それで今後一切キューブリックの映画の悪口を言わないという約束で、キューブリックはスティーブン・キングに映像化権を再譲渡しました。


 それでスティーブン・キングが1990年に作りなおしたのがミック・ギャリスのシャイニングだ。日本人ならこれで仕舞いだろうけれど、これで終わらないのがスティーブン・キング。キューブリックが生きてる間はなんとか気持ちを押さえていたけれど、キューブリックが亡くなってからまたブツブツと批判を再開した。

 自分で作り直したのに執念が凄い。やっぱり村を焼かれたのかも。

 ここまでが前置きで、ではキューブリックは何をしたかについて話を進めましょう。


1.キューブリックの『シャイニング』

 キューブリックとミック・ギャリス(スティーブン・キング)の『シャイニング』は何が違うのか。


 そもそも想定ジャンルが違う。

 スティーブン・キングはホラー作家でもあるけれど、シャイニングのメインはシャイニングという不思議な力を通じた家族のつながりを描く。ぶっちゃけるとメインはヒューマンドラマだと思う。

 例えばゾンビーノやロンドンゾンビ紀行がホラーでゾンビなのにメインジャンルがコメディなのと同じように、ホラー含みの話でもホラーが中心ではないことがある。

 そしてスティーブン・キングはもともとヒューマンドラマが上手かった。けれどもキューブリックは徹底的にホラーで作ったし、ヒューマンドラマのつもりで書いた。

 けれどもキューブリックはヒューマンドラマ味を見事に排除して、見事なホラー作品を作ったのだ。今から見ると結構モタモタはするけれどもたくさんの『怖い』を詰め合わせた。


 まず、登場人物の顔が怖い。

 一番にジャック・ニコルソンの顔が怖い。ポスターからして顔が怖い。ポスターを見たらもはや、サイコホラーとしか思えない、という先入観が入る。

 そして映画を見ると奥さんも顔が怖い。それはもう神経質そうな、言ってしまえばひょっとしたら全て奥さんの妄想じゃないかと思えそうな不安定さ、つまり恐ろしい空気感を映画全体に浸透させている。

 主人公のダニーの表情も基本的に恐怖に強張り固まっている。


 つまりキューブリック版では登場人物は序盤以降は徹頭徹尾恐怖してるか狂気に陥っている。

 恐怖表現には様々なパターンはあるけれど、最初からじわじわと恐怖で盛り上げ続けてていくパターンのホラー映画として、なかなかうまくハマっている。


 それから謎の双子とかあふれる血スプラッシュとかミステリアスな庭園迷宮とか、斧を持って襲いかかってくるジャック・ニコルソンとか、そんな恐ろしい映像に溢れている。ジャック・ニコルソンが書いた大量の同じ文章とかね、シンプルに心に刺さる恐怖と狂気の演出に溢れているわけです。

 そしてなんとこれらの記憶に残る全てがスティーブン・キングのシャイニングには存在しないキューブリックのオリジナル要素である。


 そもそもキューブリックは時計じかけのオレンジや2001年宇宙の旅とかアートセンス含みでギリギリを攻めてくる監督で、この映画も様々な映像効果が散りばめられている。

 白い雪の中、緑の庭園、白い壁を割って入ってくる斧。色彩も構図もコントラストとシンメトリーが効いている。そしてそれらの演出は恐怖を煽るためだけに尖っている。つまり美しく異常を描くのに長けた監督で、つか、そもそもヒューマンドラマをじわじわ描くには向かない。


 ようするにスティーブン・キングは映像権を売る相手を間違えたのだ。

 スティーブン・キングが一番描きたかったのは恐らくダニーの特殊能力と家族の姿と家族愛で、それはキューブリックのシャイニングからはすっかり抜け落ちている。


2.ミック・ギャリスの『シャイニング』

 そこで本来スティーブン・キングが描きたかったミック・ギャリス版を見てみよう(以下、ネタバレ注意)。


 この話はアル中だけども互助会で治療し家族を立て直そうととしている小説家崩れの父親が、家族円満のために頑張ろうとする話。それでオーバールックホテルに冬季閉鎖中の管理人の職につく。そこは雪が深くて互助会に行くことも大変な状況だ。

 それでダニー(子ども)はシャイニングという超能力を持っている(ダニーが時折見る幻覚で、そもそもキューブリック版では説明がほとんどなかった。つまりキューブリックにとってスティーブン・キングの描きたかったものは無関心)。ダニーはシャイニングを使って別の自分と話したり、テレパシーでハロラン(黒人使用人)と話ができたりする。


 それで悪霊たるホテルはダニーの能力を狙っていて、父親のジャックを少しずつ狂わせていく、んだけど、キューブリックみたいにいきなり狂うというか冒頭から恐ろしいキューブリック版のジャック・ニコルソンとは全然違ってだな、じわじわとだんだん異常になってゆく。そんなジャックからダニーを守ろうと母親は奔走する。


 以上にわかるように家族内の構造が全く違うんだ。


 キューブリック版ではみるまに悪化の一途を辿る父親、ひたすら怯えて恐怖に陥る顔から狂気的な母親、叫んでパニックになるダニーという構図。その中で何が真実かよくわからなくなり視聴者を不安に陥れる積み上がる演出。

 一方のミック・ギャリス版では葛藤しつつもホテルのせいで狂気に陥っていく父親と、ひたすら子どもを守ろうとする母親、子供らしい行動と取りながら怪異から逃げようとする子どもという家族の構図。その中でホテルの力がだんだんと強まり、それでもなんとか対抗して家族を守ろうとする演出。


 正直なところテンプレートなホラーを描くのに最適な配置がキューブリック版で、極限状態のヒューマンドラマを描こうとしたのがミック・ギャリス版だと思う。


 そしてエンディングも違う。

 キューブリック版は母親とダニーは迷路庭園に逃げ込んでジャック・ニコルソンは凍死する(ハロランも斧で一撃死する)、その結果呪われたホテルは存続する(呪いの存続)。

 ミック・ギャリス版ではジャックは最後に正気を取り戻し、母親とダニーを逃してボイラーを爆発させてホテルごと焼死する(呪いの終わり→解放)。


 そう考えると結構な魔改造だから普通は怒りそうな気がしてきた。……寧ろ村を焼く予定が焼かれなかったのか。


 そもそも論として、キューブリックが想定した2時間程度の映画の尺ではスティーヴン・キングの表現したいヒューマンドラマにするには要素が多すぎて描ききれなかったはずだ(ミック・ギャリス版は5時間弱)。だから正直なところ、キューブリックが切り詰めに切り詰めて再構成し直し、ホラー演出に徹したのは正直アリだと思う。そしてホラー映画としては後の様々な映画にたくさんの影響を及ぼすほどの名作になった。

 多分映像権を売るというのは、そういうことなのだ。


 そしてスティーブン・キングは自分の作品とテーマが全然違うので、キューブリックのシャイニングが全然気に入らなかった。自分の映画を糞改造された気分に陥ったんだろうと思われる。デビ○マンのように。

 けれども興行的にはキューブリック版が上回っていたし語られるのもキューブリック版ばかりだった。


 ぷんすこ!


3.マイク・フラナガンの『ドクター・スリーブ』

 そして最後がマイク・フラナガンのドクター・スリーブ。


 この監督はわりと古典的な話を普通な感じで描く監督さんで、結構作品を見てはいるのだけど、正直キューブリックほどの鮮鋭感とか芸術感はないイメージ。


 それでこの映画はキューブリックとミック・ギャリスの丁度中間を走っている。恐らくスティーブン・キングが一番キューブリックに反感を感じているのがエンディングで、スティーブン・キング版のエンディング(ハロランも生きている)でスタートして、シャイニングの力を持つダニーと新たなヒロインとの力の繋がり(旧作のダニーとハロランの関係)を踏襲しつつ、キューブリックのクリエイトした双子やら血まみれ(営業的に受けた要素)やらを採用した上で家族のために自ら犠牲となった父親の影を追い越す話だ。


 そんなこんなでスティーブン・キングは「これは小説ドクター・スリープの見事な映画版であり、スタンリー・キューブリックの映画シャイニングの素晴らしい続編だ」と述べている。


 この言葉に物凄く違和感がある。スティーブン・キングはキューブリックが亡くなってからもこき下ろしていたのに一体突然何が会ったのか。


 そこがドクター・スリープの一番の恐怖である。

 おそらく文句をいいながら、キューブリックの作品を1作品としては認めていたのかも知れない、とはちょっと思えないレベルの罵倒だったのだけど、ひょっとしたら自分のを作って溜飲が下がり、今度こそ名作として自作品を夜に出すためにキューブリックがリヨウできると認識しだしたのかも知れないし、あまりにも自分の原作とかけ離れたものが自分の作品として高い評価を受けていることの矛盾に耐えられなくなったのかもしれないが、そこのところはよくわからない。


 肝心のドクター・スリープが面白いかどうか、だけど、スティーブン・キングの原作とキューブリック版とミック・ギャリス版をハイブリットしたという点では物凄く面白くはあるけれど、そもそもその辺を裏読みしてから見ずに単独の映画として見る分にははまあ、普通なような、気がする。


4.魔改造適正

 魔改造というのはやはり日本のお家芸的なものがあるけれど、諸外国ではなかなか受け入れられないものなのかもしれない。その分日本では創作物の権利性の認識が相対的に低いとも言える。権利とは厳然と存在するもので、許せないのなら権利譲渡をしてはいけない。

 魔改造というか原作レイプが常態化している日本に来たら、誇り高き彼らはきっと憤死することだろう。


 ハリウッドにも二次創作に寛容な監督もいるにはいるんだよね。ジョージ・ルーカス監督はスターウォーズの二次創作に寛容だった。だからたくさんの二次創作が生まれ、ディズニーがルーカスフィルムを買収した時にスピンオフを正史と非正史にわけるのに随分苦労したと聞く。

 それからマーベルは最近マルチバースといって複数世界のミクスチャを始めている。だからひょっとしたら二次創作的なものはこれから増えるのかもしれない。


 当エッセイは常にリクエストを募集しております(見てなければリクエストに添えないすみません。)。

 See You Again★

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