【2章】黒の訪問者

「主様、ここにいたんですね」

 私が声をかけると主様はゆるゆると振り向いた。優しく微笑んで、目元がとろんとしてその表情から熱を感じる……あれ、酔ってる? 酔ってますね!

「おお、サヤカ。我になんぞ用か」

「酒くさ……用という用は無いんですけど、暇だったので」

「おお、そうか。我の元へ来るといい。退屈から永遠に解き放ってやろう」

「どうやってですか。全く適当なことばかり言って」

 主様はちょいちょいと手招きを続ける。私は少し戸惑うものの、最近慣れてきた。主様の膝に座る。主様は呼んでおきながら少し邪魔そうにする。

「酒が飲めんな」

 文句まで言ってきた。あなたが膝に座らせるんでしょう、いつも。

 しかし……。今日の私には一つ悩みがあった。いや、今日始まったことではないのだが。最近のこと、そしてこれからのことだ。

 退治屋がやってきた時のあの騒動で、私は主様に好きだと伝えた。事故のような伝え方だったが、確かに気持ちは伝わったはずだ。主様もそれを憎からず思っているのは伝わってくる。だからこそ、時折キスをするのだが、それも触れるだけ。関係がそこから進展しない……進展しないのだ! キスだって滅多にしない。

 私は物欲しげに主様を見やる。主様は機嫌良さそうに笑って、「お前も飲むか」と言う。そうじゃないんだよなぁ!

 気持ちが上手く伝わらない悩みを抱えて、私は立ち上がった。ちょっと、散歩でもしてこよう。ここ紅葉の境内は時間がゆっくりと流れる。いくらでも考える時間がある。主様は「またおいで」と手を振って、酒に手を伸ばした。


 主様と私は両想いなはず……。それとも主様は私のことをペット感覚で好きなのかな? 神だもの、価値観が違うのはありえるわ。と、うんうん唸りながら森へと歩いてきた頃。いつもこの辺りを歩いていて、友達のような存在になりつつある鹿を探したがいない。その代わり知らない男の声がした。

「悩み事かい、お嬢さん」

 その声はあまりにも軽率な響きを持っていた。親切さの裏にある適当さ、とでもいおうか。

「誰です?」

 また新たな迷い人だろうか。それとも既にいる村民か。そう思ったが、その声の主の居場所がどうもおかしい。木の上から聞こえてくるのだ。木登りできるような木でもないのに。

「俺は鴉天狗。お前のことは知っている、コクトミが気にしてたサヤカだろ?」

「コクトミ……?」

「コクトミヌシ。あの神社の主さ。もう名乗ってはいないのだな。今度呼んでやれ、喜ぶか怒るか俺は知らんが」

 大きな羽音がして、木の上から男が飛び降りてきた。うわと思って目を伏せる。目を開けると、目の前に黒髪の男がいた。長髪に鴉の濡れ羽のような艶がある。

「真名を名乗らない者は後ろめたい奴ばかり。俺もな。だから俺は鴉天狗、それだけで呼んでくれないか?」

「鴉天狗さん……」

 鴉天狗は軽く鼻で笑った。嫌な感じのする人だ。

「素直ないい子だ」


「鴉天狗だと!? あいつが来たのか……」

 夕食時、主様に今日会った人のことを話す。主様は愕然とした様子で、とても歓迎とは程遠いようだった。

「それで、何か言われたのか」

「特には……あ、コクトミヌシ……様?」

「…………」

 主様は急に顔を背けてしまった。椿ちゃんがにまにましている。

「……なんですよね? お名前」

 少し不安になってきてしまった。何の反応もしてくれないから。でも、椿ちゃんが主様の顔を覗き込んで、私にグーサインを出してくれた。とりあえず良かったみたいだ。

「何年振りだろうな……名を呼ばれる、というのは……」

「これからどう呼べばいいですか?」

「まだ……まだ、今までのままでいい」

 主様はようやく顔をこちらに向けた。物寂し気な笑顔だった。

「それより、鴉天狗には気をつけろ。あいつはろくでもない奴だ、我と同じくらいにな」

「それは、そんなに悪い人じゃないのでは?」

「とんでもない! 鴉天狗の奴は……思い出すだけでも腸が煮えくりかえる。とにかく、あまり近付くんじゃない」

「はーい……」

 主様は過敏な所があるからなぁ……排他的というか。もう誰かれ構わず排除したりはしないだろうけど。そんなに言うほど悪い人じゃないかもしれないし。私はそんなに気にしていなかった。だから……。

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