第22話『身心脱落』

「――お前アホかい! なんであんな挑発するんや。滝さん、マジになっとったで。明日の試合、いきなり来られたらどないすんねん!」


 計量後に立ち寄った定食屋で、南の感情が爆発した。彼がメディア達の目を気にして、ここまで黙ってくれていたのは静川にも分かっていたが、いきなりの阿呆呼ばわりには面食らう。


 頼んだ蕎麦がくるまでに、まだ幾分時間はありそうだった。


「滝の事はわかってる。あいつは試合前に何があっても、自分のスタンスは崩さない。だから俺も、言いたいことを言った」

「初対面で相手の何がわかるねん。エスパーかお前」

「わかるさ」


 即答する静川からは、見栄や虚勢らしきものは感じ取れない。

 南はコップに残っていた氷をかみ砕いて、それからようやくため息をついた。


 新海は静川の面倒を南に任せてジムに戻っている。あの男にしては、記者会見での暴挙に対する反応が薄かったが、代わりに今度は南がその役を買って出た形だ。

 ただ、静川が南に言った言葉に嘘はない。


 動画で滝の試合を見た時から、ずっと静川が感じていたこと。

 今日実際に会ってみて、それは静川の中で確信に変わった。滝聖人の言動やボクシングスタイル、そして本質までもが『見えた』のだ。


「わかるんだ」


 どうみても、


「まぁ、ええわ。とにかく食べよ」


 話をしている間にやってきた定食が、もどかしそうに湯気をあげていた。


 計量後のボクサーは、時間かけて胃を慣らし、段階的に重い食事をする。静川も事前にゼリー食を取り、体の機嫌を伺いながらの昼食だった。慎重に口内へ運んだかけ蕎麦が、つるりと喉を通り抜けていく。


 食事を作業と割り切っている静川には、味よりも食物が肉体にもたらす影響の方がずっと重要だった。回復加減を間違えればそれだけで致命傷、試合当日のウエイトは重過ぎても、軽過ぎてもいけない。ここから二十時間あまりは、ある意味、試合そのものよりもデリケートな行動が求められる。


「そんな不景気な顔で飯食うなや」

「ほっといてくれ」

、しゃーないけどな」

「わかってるなら、黙っててくれ」

「嘘つけや。お前、本当は全然気にしてないやろ?」


 南は怒っているような笑っているような、よく分からない声色で静川をたしねめた。


 一時間前、記者会見後にホテルを出ようとした静川と南は、一人の記者に呼び止められた。月刊誌のライターと名乗っていたが、真偽のほどは定かではない。何しろ男の風体は馬場と同レベルで薄汚れており、いかにも関わりを避けたいと思わせる類の人物だったのだ。


 彼は、馬場が警察に捕まったと静川に話した。


「自宅前で警察に止められて、覚醒剤所持で現行犯逮捕やて。シャレにならんなぁ」

「あんただって、気にしてるようには見えない」

「いや、結構ショック受けとるで?」


 どうだかな、と静川は思った。


 話しかけてきた中年記者が言うには、近々静川の元にも、警察が事情聴取に訪れるかもしれないという事だった。友人家族でもない静川に聴取もくそもないのだが、馬場の逮捕後、ガサ入れされた彼の部屋から一人のボクサーに関する大量の資料が発見された。


 そのボクサーこそ、静川大樹だったらしい。


「馬場さん、よっぽどお前に入れ込んでたんやな」

「ただのストーカーだろ」

「記者のおっさんも言うとったやろ? 留置所に面会行った時、お前に『勝て』って伝えるよう言われたて。それだけ期待されとるんや」

「期待、ね……。勝てばいいんだろ? やるさ。けど俺だって、ライトフライならもっと楽にそれができた」

「……、お前、まだそんなこと言うてんのか?」


 カツ丼を掻き込んでいた南の箸が、ピタリと止まった。


 女々しいのは分かっていたが、静川とて思うところがないわけではない。

 自らの意図しない三階級アップなど、ゲーム難度がいきなり跳ね上がったようなものである。もちろん普段なら、静川も絶対にこんなことは言わないが、南との関係が愚痴を口にさせてしまう。今までは、誰かに話を聞いてもらうような機会自体がなかったのだ。


 しかし、新しい友人の返答は手厳しかった。


「あんまり、ガッカリさせんなや」

「あんたも俺に、無責任な期待をしてたのか?」

「そうや。当たり前やろ。自分を負かして、自分が強くなるのを手伝ったボクサーに期待して何が悪いねん。それにな、今のお前は適正階級やで。間違いなく」

「JBCの是正処置さえなかったら、俺は今でもライトフライでやれていた」

「IBC? ――、ああ。そういえば、そういう話にしとったな」

「……、どういう意味だ?」


 蕎麦は伸び始めていたが、静川は箸を動かす気にはなれなかった。


 南は静川の知らない何かを知っている。

 真実を知るのは恐ろしい気もしたが、頭に血が登っていた静川には、吐いた唾を飲み込むような真似もできなかった。一方、南は食欲が失せたように、カツ丼を半分も残したまま箸を置いている。


「JBCは監査機関やない、プロボクシングの競技を統括しとるだけや。試合後の控室で倒れただけで、転級措置まで喰らうわけないやろ。お前をバンタムに階級アップさせたんは、会長の指示や」

「えっ?」

「野々見沢に負けた時……ちゃうな、試合は勝ちになったんか。まぁええわ。とにかくあの時に腹括ったらしい。ジム経営も生活態度もマジで最低なおっさんやけど、ボクシングを見る目はあるわ。バンタムに転級したお前は、以前とは比べ物にならんほど強くなった。ミット持っとる俺が言うんやから、間違いない」


 頭の中が、真っ白になった。


 転級を指示したのは新海だった? 

 あれほど金に執着し、静川との距離を測り続けていたあの新海が、なぜそんな事をしたのだろうか。内容で圧倒された野々見沢戦が新海に何を思わせたのか、静川には想像すらできなかった。

 静川に商品価値を見出せなくなったのなら、わざわざ勝てる見込みの薄いバンタムへ送り込むよりも、クビにした方が手っ取り早いはず。


 一体、何故? と、静川が口に出す前に、彼は南に胸倉を掴まれていた。


「まだ分からへんのか? 期待されとるんじゃ、ぼけ」


 またその言葉。意味は理解しているはずなのに、自分に向けられた途端、異世界言語のようになる。まるで野々見沢のジャブだ。知っているはずのものが、使う者次第では意味不明な解釈を生む。


「馬場さんも会長も俺も夏芽ちゃんも、みんなお前に期待しとんねん。お前はプロなんやから、そう思われるのは当たり前なんや」


 そう言われても、静川はひたすら混乱するばかりだ。そしてそれが、南には耐えがたく、またかんさわるようだった。


。世界チャンピオンを目指してるんなら、尚更やぞ。お前自身の実力だけやない、周囲の期待が、お前をチャンスに導いてくれるんや」


 ようやく手を放した南は、思い出したようにカツ丼を平らげた。彼は静川の食べ終わりを待たずに立ち上がる。


「今日、お前の奢りな」

「なんでそうなる?」

「文句あるなら試合に勝てや。勝ったら、今度は俺が奢ったる」


 勝手な理屈を並べ立て、南泰平は八重歯を見せて笑った。静川の蕎麦はすっかり伸びていたが、別に構いはしなかった。丼は、まだ暖かい。


 期待や責任、そういったものでボクサーの拳が重くなると、誰かが言っていた。


「わかったよ」


 静川は、プロボクサーなのだ。


「次はあんたに奢らせる」


 だから拳の先にだけ、未来がある。



◆      ◆     ◆



……馬場は、どこまで真実を突き止めていたのだろうか。


 自室でノートパソコンのディプレイを眺めていた木津研二は、ふとそんなことを思った。

 ネット上にアップされている滝の試合映像をチェックするのは、ここ一月ほどで習慣化していた。もう何度も同じ試合を見た気もするが、毎回新しい気付きがあるために、木津は細かなプラン修正を強いられている。


 作業が一区切りを迎えて、ミネラルウォーターを飲んだ瞬間、頭に浮かんできたのは馬場の事だった。


 覚醒剤所持で、逮捕。

 奴らしいといえば、奴らしい。馬場が金銭に困っていた理由もそれだったのだ。薬に知識のない木津にはジャンキー生活の維持コストなど見当もつかない。だが、他人のスキャンダルを嗅ぎまわらなければならないほど、馬場が追い詰められていたのはたしかである。


 よくもそこまで他人に興味が持てるものだ、と、木津は感心してしまう。誰も彼も、人に無責任な期待を押し付けるのが好きらしい。あの南ですらそうだというのだから、木津も驚きを隠せなかった。


 木津は他人のことなど知りたくもない。

 誰かに期待することもない。

 自分の人生の責任は、自分だけが負うものであればいいと考えてきた。少なくとも、これまではそうだった。


 世の中には、知らずにいた方が良いことがあまりにも多すぎる。

 机の引き出しを開けると、小学校の卒業文集がある。最近はページが重すぎて、めくるのが困難になってきたが、それでも木津は、定期的に読むようにしていた。

 そうしなければ、犯した過ちの大きさに、木津の心は耐えられなかっただろう。


 静川に勝負を持ちかけた木津は、彼に『あるもの』を賭けさせた。


 それはボクシングの世界チャンピオンになる、という夢を諦めることだった。代わりに木津は、自分が負けたらカードゲームのプロプレイヤーになることを諦める、という条件を提示した。

 静川は乗り気ではなかったが、木津は半ば強引にこの勝負を彼に飲ませた。


 最初から最後まで徹頭徹尾、木津研二という人間のエゴが招いた事態だった。しかし当時の木津は、病を患った静川に新しい夢を見てほしかったのだと、自分の行いを肯定してしまった。

 実際は、心のどこかにある、自分の好きになった女子の気持ちを奪った、静川に対する嫉妬や、夢を諦めない彼への羨望がそうさせたのだ。


 だから、自分が目指してもいない夢を賭けることも、自分の得意なカードゲームを勝負の方法に選んだことにも、木津はブレーキをかけなかった。


 勝負は当たり前のように、動揺した静川の負けだった。


 震える手で、木津は卒業文集のページをめくった。

 静川の書いた美しい文字を見るたびに、心臓が止まりそうになる。この瞬間だけは、どんなパンチよりも恐怖を覚えた。


 繰り返すが、世の中には知らずにいた方が良いことが、あまりにも多すぎる。


 愚かな木津は、知らなかったのだ。

 本当に夢や希望を失った人間が、どうなってしまうのか。


 静川は早朝の学校で、用務員に発見された。

 三階にあった教室の、よりにもよって『彼女の机』を踏み台にして、窓から飛び降りたのだ。うまく花壇に落ちたのに、頭はしっかりと割れていたらしい。

 厄介事を嫌う大人たちの計らいによって、淡々と事後処理は施され、静川の死は迅速に子供達の記憶から消えていった。


 しかし本当のところは、誰もが彼の事を忘れたがっていたのだろう。

 病気を発症する以前の静川は活発で、どちらかといえば敵を作りやすい性格だったと、木津も思う。だが、どんな人間であれ、子供時代の同じ学校、同じ学年の、同じクラスから自殺者が出たとなれば、記憶を消してしまいたくなるのも無理はない。


 特に木津が申し訳なく思ったのは、例の女子のことだった。自分の机の上に残った静川の靴跡を見て、彼女はまもなく不登校になってしまう。あのピアノも、二度と放課後に聞くことはなかった。


 ノートパソコンの電源を落とした木津は、そのまま文集を閉じようとして、だがうまくできなかった。静川の鉛筆文字は、木津に目を逸らすことを許さなかった。


 ボクシングで、世界チャンピオンになります。


 もう、木津研二の人生にはこれしかない。

 唯一無二の友人も、好きだった女子も、彼らの未来も、すべて失ってしまった。

 ならば、せめて木津が静川から奪ったこの夢だけは、彼に返してやりたかった。彼と過ごしたあの放課後も、一緒に聞いたピアノの音も、もう静川には届けてやれないのだから。


 文集を閉じるのは諦めて、木津はベッドへ倒れこむ。


 視界の端に映るのは空のケージ。飼っていたハムスターは、静川が亡くなったあの日、公園に逃がした。

 

 野垂れ死ぬ可能性は理解していたが、木津は動物の命に責任を取り続ける自信をなくしたのだ。もはや、命のそばにいることさえ、怖かった。


 時計を見ると、就寝予定時刻を五分ほど過ぎていた。まだ眠気はなかったが、試合時間にコンディションのピークを合わせるためには、休息しなくてはならない。そっと目を閉じると、瞼の裏にはリングが映った。

 誰もいない会場と空っぽのリングに、あの日のピアノが流れ始める。


 何のために、ボクシングをしているのだろう?

  静川にチャンピオンベルトを返すのは、木津の義務である。だがその義務感を支えているものの正体は、ずっと謎だった。


 そして今日、ついに木津は南から教えられたのだ。


 プロのリングで戦う意味を、木津は自分なりに考えた。

 ロープに囲まれたこの正方形の異世界で、己の肉体と精神、そして相手を撲殺するための技術で、完全武装した二人のボクサーが殴り合う。安全地帯から傍観する人々の賞賛と、時には嘲笑を浴びながら、憎くもない相手を殴るのだ。何のために?


 木津は、自分がこのリングで納得を探しているのだ、と結論付けた。

 それが何のための納得なのか、答えはまだ出ていない。だから出るまで戦う。悪魔にすべてを差し出して、後に残ったその拳に、感じるものが何もなくなるその日まで。


 会見場で会った滝聖人の姿を、木津はこの先一生忘れることはないだろう。滝の乾いたあの笑顔に、木津は自分自身が迎える破滅の未来を見た気がした。


 ピアノの音が、聞き慣れた打撃音にかすれていく。体を包んでいるはずの布団から、汗にまみれた合皮と、ワセリンの臭いがしはじめた。


「……、お前も一緒なんだろ? 滝」



 俺達は才能がないから、人間をやめるしかなかった。



 合否はまもなく公開される。

 リングの上で、だ。


◆      ◆     ◆


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