第14話『プロットの中の空白』


 目先の試合がない状況でトレーニングを行うのは、静川も久しぶりだった。

 結局、南がなぜ自分に肩入れするのか、その理由は分からず仕舞いだった。が、彼はトレーナーとしては思った以上に優秀だった。


 静川の知る南のプロフィールは、最終学歴が高卒となっていたが、特待生で入学した彼はその実、授業をほとんどまともに出たことがないらしい。

 その代わりに、有名大学で行われるセミナーには積極的に参加して、栄養学、コーチング学をはじめとするスポーツマネジメントには造詣が深くなったという。すべてはプロ入り後、自分が海外プロモーターとの契約まで漕ぎつけた、その暁に発揮する予定だった知識だと、南は静川に語った。


 長ったらしい自慢話にはうんざりしたが、自分で言うだけあって、南のアドバイスには説得力がある。それは、自室にあるPCでひたすらネット上の知識を検証し、素人考えを突き詰めていた静川には、新鮮な驚きばかりだった。


「基本的には、今まで通りでええんとちゃう?」


 何よりも静川が意外だったのは、南が初日に言ったその言葉だった。


 南に言わせれば、素人なりにここまで結果を出し続けている静川のボクシング方法論は、簡単に否定すべきではない、という事らしい。

 ただし、ウエイトに余裕がある今のうちにフィジカルは徹底的に鍛え上げ、静川が試合でやりたいことや、南がやるべきだと判断したテクニック、それらが完璧にできる状態に仕上げる、という点だけは厳命された。

 

 それから二か月。バンタム級に適応するためのフィジカルトレーニングを行った静川の肉体は、いまや目に見えて変わり始めていた。南の指示したトレーニング内容が適正だったのは言うまでもないが、それ以上に、強さに対するモチベーションを、静川が一切落とさなかった結果だった。


……そして、チャンスは突然訪れた。

 いつものように、静川が南の持つミットにパンチを打ち込んでいると、汗まみれの新海が事務所から出てきた。


「お前ら、手ぇ止めてこっちにこい」


 彼らがリングを降りると、新海はA4用紙を手にしていた。


 これは試合が決まったなと、これまでのパターンから静川はピンとくる。一方、コンビネーション練習に熱の入っていた南は、少し不満げな顔でミットを外していた。


「次の試合決まったぞ。三週間後だ」

「ちょっと早ないですか? 三週間じゃ、用意もくそも……」

「わりぃな、南。ウチはお前が元居た名門ジムじゃねえんだよ。他所様の興行に参加させて頂いてるんだ。ちょっとぐらい条件が悪くたって、文句言っちゃいけねえよ」


 そう言われては、雇われトレーナーの南が口をはさむ余地はない。彼は納得のいかない様子だったが、チケットを売り捌く手間がないぶん、静川には好都合だった。


 問題は、この後である。静川は肝心なことを尋ねた。


「……、相手は?」

「日本ランキング三位、富樫哲也」


 その名前には、静川も聞き覚えがあった。


 バンタム級へ転級するのにあたり、静川もそれなりにこの階級については詳しくなっている。

 日本国内のバンタム級は、先日、日本チャンピオンの王座返上があったため空位となり、ランキングのトップ一、二位が新王者決定戦を控えている状況だった。今回、静川が対戦する富樫哲也は、王座争いにこそ加われなかったが、先に述べた決定戦のその後は、実質的にランキング一位になる事が確定しているトップランカーだ。


 ボクシングでは、すべての選手がチャンピオンの動向に影響を受けている。

 ピラミッドの頂点が軸を動かせば、下の者はそれに合わせて予定を狂わされる。今回の件にしても、もともとは一位の選手がチャンピオンと、そして二位は富樫と対戦する予定で話が進んでいたのだろう。


 ところが、世界ランキングに名を連ねる日本チャンピオンのもとに、突如別の世界ランカーとの試合が舞い込んできたのである。当然、世界ランキング上では下位にあたる日本チャンピオンはこれを快諾し、以下、国内で予定されていたランカー同士の試合に影響が出た、というわけだ。


 しかし、こうしたトラブルは、静川のようなランキング外の底辺ボクサーにとっては、ジャイアント・キリングのチャンスでもある。


「一発目に三位て……。体のいい噛ませ犬やで、ええんか? 静川」

「別に。いつものことだ」


 努めて冷静に静川はそう返したが、南の言う通り、噛ませ犬には違いない。


「これは、チャンスなんだ」


――ボクシングほど、順位と競争率が熾烈な格闘技は、ない。


 キックボクシングや総合格闘技のように、話題性が先行して、ぽっと出の新人がトップランカーやチャンピオンといきなり対戦が組まれることなど、皆無に等しい。

 SNS上のフォロワー数やユーチューブの登録者数ばかりがもてはやされ、『客引きパンダ』としての価値だけで興行に参加できるものでもない。それほど、ボクシングの階級別ランキングはシビアな世界なのである。


 富樫陣営が安易に下位ランカーとの試合を組まなかったのは、黙っていてもランキング一位というチャンスが巡ってくる、という前提があったからこそだろう。一位になれば、そのうち王座挑戦権が手に入る。それまでは、どんな手段を使ってでもその地位にしがみつくつもりなのだ。ゆえに、大きなリスクを伴わないボクサーを対戦相手に選ぶことになり、本来ならけして実現しなかったはずの、静川大樹との試合が成立したのである。


「チャンスなんだ……ッ」


 静川の両眼には、ライトフライ級でみせていた、あの餓狼のごとき執念が再燃していた。

 どんな形であろうと構わない。世界チャンピオンになるのだという意志、それだけで彼はすべてを乗り越えてきたのだ。トレーニングも減量も、強敵との試合さえも。


 さしあたって、今夜中に富樫の過去データを洗い出し、分析と対策を進めねばならなかった。これから先の予定を淡々と頭の中で組み立てていた静川の隣で、しかし南はなぜか、ほぞを噛んでいる。


「相手、胡散臭いKOで有名な奴や」

「あんたの知り合いか?」

「面識ないけどな。俺が一年の時に三年やった、無名高校出身のボクサーや。ウチの三年がえらい嫌がっとったわ。実力あるくせに、毎回反則スレスレのクソ試合やるらしい」

「くっくっく。そりゃ、誰かさんと一緒じゃねえか。なぁ?」


 皮肉な笑みを浮かべた新海が、わざわざ静川の前に立って言う。

 だが、南はあっさりと首を横に振った。


「言うたでしょ。実力は、あるんですわ。ボクシングの練習も喧嘩も、三年間マジメに続けとったらしいですよ。結局最後のインハイ前に、教師半殺しにして退学なったて聞いてます」

「滅茶苦茶な野郎だな」


 新海から渡された富樫の資料には、少年院の入所履歴まで記載されている。

 静川もずいぶん多くのボクサーをみてきたが、犯罪歴のある人間を相手にするのは初めてだった。だが南の口ぶりからすれば、おそらく富樫は更生などしていない。


 18戦17勝1敗17KO、数字をみるかぎりでは根っからの倒し屋である。不良上がりのボクサーらしい攻撃性が垣間見えるが、富樫はランカーである。積み上げたKOには、確かなボクシング技術が活かされている、と考えるのが妥当だろう。


 静川の思案をよそに、スマートフォンを鞄から引っ張り出した南は、早速動画サイトで富樫の試合を検索にかけている。自宅に戻る手間が省けた静川も、黙ってその液晶画面を覗き込んだ。


「典型的な……」

「……ストレートパンチャー、やね」


 静川と南の意見は、即座に一致していた。


 確認したのは直近の一試合だけだったが、KO回となった6ラウンドまでの間、富樫はほとんどフック系のパンチを打っていない。ジャブからの組み立てを得意としているようで、しかし手数の多さよりも、パワーに重点を置いた戦い方をするボクサーである。

 そして南の話していた通り、試合中の富樫には、何度も怪しい挙動があった。


 富樫の所属している光栄ジムは、かつて幾人もの世界チャンピオンを有する名門だったが、現在はその勢いを失っている。だからこそ、久しぶりに現れた富樫哲也という才能に賭けているのだ。彼が抱える『多少の問題』には目をつむって。


「勝つしかない」

「せやな。けど問題はスパーや」


 南の指摘は、新海ボクシングジムが抱える根本的な問題の一つである。こればかりは、いくら分析能力に秀でた静川でも、どうしようもない。彼がレベルの高いシャドーを習得せざるをえなかった理由も、実はここにある。


 この事態を予測していたらしい新海は、どこか期待を込めた眼で南を見ている。だが、その視線を察した関西弁男は、またしても首を振っていた。


「あかんて。体格差見てからもの言うて下さいよ、会長」

「まだ何も言ってねえだろ」


 とは言うものの、新海にもなんとなく分かっていたようだ。


 ライトフライ級ですら小柄であった南と、減量から解放された今の静川では、体格差がありすぎてスパーリングが成立しないのである。なんでもありの殴り合いならまだしも、この状態でのボクシングは、ヘタをするとまた南が大ケガをしてしまう。


「誰かおらんのすか? 別にバンタムやなくても、リーチ長めで、うまいヤツ」

「誰も相手なんかしてくれねえよ。ま、自業自得ってやつだな」

「――、大丈夫だ」


 二人の心配を断ち切ったのは、ほかでもない静川自身だった。


 またこれだよ、と、新海は半ば諦めた様子で瞼を伏せた。

 静川は誰にも従わない、忠告も受け付けない。無理矢理トレーナーを付けたところで、人間の質がそうそう簡単に変わるはずもなかったのだ。なんでもかんでも、静川はたった一人でやろうとする。


 チームプレイをまるで無視したこの発言に、さすがの南も声が低くなる。


「転級して初戦やぞ? 前回から試合間隔も空いとんねん、スパーもやらんでどないして勝つんや? お前」


 同時に首を傾げた新海と南に、静川は言った。


「一人だけ、心当たりがある」



◆      ◆     ◆



 それは、路地裏でうごめいていた。


 表通りから窓の中を覗いていると、目ざとい連中に警察を呼ばれてしまう。それは厄介なことだった。

 アパートは家賃滞納で追い出されてしまった。もともと、水道電気ガスともに停止状態であったから、ただ寝るところがなくなっただけの話だった。


 親はいない。はじめからいなかった。

 自分と似た境遇の子供をかき集めて、すし詰めにした施設で育った。容姿に優れる者、愛嬌のある者から順に、新しい両親を見つけては巣立っていった。いくつかの、そうした事例を目の当たりにした子供たちは、やがて自らもそうなるべく身なりに気を遣い、またコミュニケーション能力を高めるのが習慣になっていく。彼らは自分で自分を磨く宝石のようだった。


 自分が石ころであると自覚したのは、六歳の誕生日を迎えた翌日だった。


 月ごとにまとめて誕生日を祝う施設のならわしに、なぜか自分だけが呼ばれなかったのだ。その日は自分だけが、いつもよりも早めの就寝を言いつけられており、年下の者たちはこの隙に誕生月の食事会を楽しんでいたらしい。

 あとから園長に尋ねたところ、あなたは愛想がないから、そうした行事を好まないと思った。などと、意味不明な理論が返ってきた。


 そういうものなのだと思った。


 すでに同じ年頃の者は一人もおらず、遊びの時間も勉強の時間も孤独だった。日頃から喋る必要がなかったために、発声能力は伸び悩んだが、気にしなかった。

 ただ、毎日が暇だった。


 施設を出た後は日雇いの仕事で食いつなぐ毎日が続いたが、やることがある分、前よりマシだった。何度か騙されて給料の支払いが滞ったり、同じ仕事をしているのに自分だけが待遇に差をつけられたりしたが、施設で学んだ通り、そういうものなのだと思った。


 十五歳になったある日、不思議な出来事が起こった。

 いつものように生活費を財布に充填したコンビニからの帰り道、同じ現場で働いていた男に声をかけられたのだ。そいつは自分よりも良い給料を得ていたが、それ以上の小金が欲しい様子だった。金を巻き上げるために暴力を使用する輩はこれまでも何度か出会っていたが、その男は違った。


 魔法のように男の手が消えて、鼻っ柱がへし折られていた。


 感動した。


 痛みはあったが、それ以上に嬉しかったのだ。瞬間的に思い出したのは、施設でいつも読んでいたシンデレラという本だった。持たざる者の前に魔法使いが現れ、最高のチャンスを与える物語には、幾度となく興奮を覚えたものだ。男は、本物の魔法使いだった。


 二発目のパンチは、わざともらった。このチャンスをけして逃してはいけないと思ったからだ。その一発で鼻はひどく折れ曲がったが、そのかわり、覚えたての魔法で男を半殺しにした。


 あとは早かった。その魔法が『ジャブ』という名前だと知り、思う存分使いまくる日々が続いた。……、あまりに楽しみ過ぎて、ジムを追い出されるまで。

 

 だが、魔法は覚えた。チャンスは掴んだのだ。必ずまた、あの世界に戻れるはずと信じているから、こうしてジムの外からサンドバッグを眺める日々を過ごしている。


 誰かが、路地に入ってきた。


「……探したぞ、野々見沢」


 知らない男だった。会ったことは、たぶんない。


「ついてこい」


 知らない人に、ついていってはいけない。施設ではそう習った。


「――――、



……しかし、どうやらこいつは良いヤツらしい。



                         『プロットの中の空白』 終

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