第3話 二人キャンプ(3)

 一体、水上君はこんな夜に、一人でどこにいるのだろうか?


 いや、一人ではないのだろうか?


 と、そんなことを考えて探していると、柚子は炊事場に人影を見つけた。近づいてみると、その人影は、まさに水上詩乃だった。柚子は、ほっと胸を撫でおろし、軽い足取りで詩乃に近づいた。


「何してるの?」


 柚子は、詩乃の後ろから声をかけた。


 詩乃は左手に人参を持ち、右手にピーラーを握っている。


「ホントに何してるの!?」


 柚子は目を真ん丸にして聞いた。


「あ、新見さん」


 詩乃は声をかけられたことに一瞬驚いて手を止めたが、すぐに気を取り直すと、人参の皮をピーラーで剥き始めた。その早いことと言ったらなかった。シャシャシャっと見る間に人参一本の皮を剥いたかと思うと、その人参をまな板に置き、タン、タンと頭と先を切り落とし、さくさくと、輪切りに切り始める。それも一瞬で終わると、切った人参をビニール袋に入れ、今度は玉ねぎを剥いて、薄切りにする。そしてそれを、人参とは別のビニールに入れる。そのビニールがエチケット袋であることに、柚子は気づいた。


「水上君、料理、苦手なんじゃないの!?」


「得意ってわけじゃないけど――」


 言いながら、詩乃はまな板と包丁を水で洗う。その手際の良さは、柚子からすれば、明らかに、料理が得意な人のそれだった。柚子は、詩乃がカレー作りに興味を示さず、野菜を切るという役割にありながら結局包丁すら握らなかったのは、料理が苦手だからだと思い込んでいたのだった。


「でも、何してるの!? 見つかったら怒られるよ!?」


 柚子は親切で忠告する。


 詩乃は玉ねぎと人参の皮をビニール袋に入れ、それから、まな板と包丁を流しの中に置いた。


「チクらないでね」


「チクらないけど――」


 柚子は、詩乃が何をしているのか本当にさっぱりわからなかった。こんな夜に、野菜を切って、それで一体何があるというのだろう。コンロもなければ、薪もない。火が使えないのだから、何かを作ることはできないのに。


 しかし、柚子の疑問を放っておいて、詩乃はどんどん動いていく。


 人参、タマネギ、そして柚子が来る前に小さく刻んだトマト二個を入れた袋の計三袋、それに玉ねぎと人参の皮を入れた袋を合わせた四つのビニール袋を持ち、暗い森の中に入ってゆく。


「え、どこ行くの?」


 一体何のつもり!?


 驚きと少しの不安を抱えたまま、柚子は思わず、詩乃について森の中に入っていった。詩乃はスポーツタイプの自転車に使うような、ごく小さな発光器をポケットから取り出して、その小さな明かりを頼りに森の中を歩いた。二、三分行くと、ちょっとした空間に出た。さわさわと、川の流れる音がする。そこは、今日の午前中、野鳥観察の時にやってきた場所だった。しかし、柚子はそのことには全く気付かなかった。昼間と夜では、同じ場所でも、全く違って見えていた。柚子は、あまりの暗さのために、自然と詩乃の服の裾をつかんでいた。


 詩乃はそのまま、空間の一角にあるベンチまでやってきた。ベンチの上には、コンロ、小鍋、ガスボンベ、そして黒い手提げ袋があった。詩乃はコンロをベンチの下に置いてガスボンベをセットし、手提げ袋からワンピースバターを四つほど取り出し、金色の包装フィルムを剥がすと鍋の中に放り込んだ。それから、コンロに火をかけた。


「ちょっと、水上君!?」


 鍋の底で、すぐにバターが解け始める。


 詩乃はスプーンでバターを溶かして混ぜ、それから、袋の玉ねぎを鍋に入れた。じゅわっと、バターの甘い匂いと、ほどなく、タマネギの香ばしい香りが立ち上ってきた。人参、トマト、水筒の水、そしてカレーのルーを二欠片投入し、蓋をする。


「いや、お腹空いちゃって」


 何言ってるの、と柚子は目で訴える。お腹が空いたからといって、夜、許可もなしに、こんな森の中で、調理用具を勝手に使って夕食を作り始める生徒がどこの世界にいるのだろうか。しかし、詩乃の空腹の原因が自分にあるかもしれないと考え至ると、柚子は、強く非難もできなかった。


 どうしてあの時、朝からお腹の調子が悪いなんて嘘を言ったのかはわからない。でもたぶん、水上君には水上君なりの考えがあって、あんなことを言ったのだろう。あるいは、あの時までは調子が悪くて、今は良くなって、逆にお腹が空いてきた、とか。でも今日一日、班活動で朝から水上君のことは見ているけど、そんなに調子が悪そうには見えなかった。


「水上君、お腹空いてるの、私のせい、だよね」


「え?」


「え?」


 全く見当違い、というような「え」を受けて、柚子はぽかんとしてしまう。


「せいって言うか、いらないって言ったの自分だし」


「なんでいらないって言ったの? 本当は、お腹空いてた?」


 詩乃は柚子をちらりと見やり、それから腰を上げ、ベンチに座った。柚子も、それに倣って、詩乃の隣に腰を下ろした。


「……」


「……」


 どうして自分は、新見さんとベンチで、隣同士座っているのだろうか。詩乃は、このシチュエーションを、どうにも現実とは思えなかった。新見さんのような可愛くて優しい女の子が、どうして偏屈者の自分なんかの隣に。


「新見さん、ちゃんとカレー食べられた?」


「うん。おいしかったよ。みんな、班の人数分ちゃんと取っておいてくれて」


「そっか。それは良かった」


 抑揚のない涼しい声音。ともすると、冷たくも聞こえる。


 やっぱり私、嫌われているのかもしれないと柚子は思った。何しろ、班会議でもこの林間学校の活動の中でも、水上君には、協力してほしい、皆でやろう、意見言ってねとか色々、たぶん水上君は全く望んでいないことを、やらせようとしてきた。だから、いやむしろ、嫌われていない方がおかしいくらいだ。


 そこまで考えて、柚子はふと思う。


 それなのに今日、あんな小さな火傷のために、誰よりも早く駆けつけて、保健室まで連れて行って、手当てまでしてくれた。普通、嫌いな相手だったら、そうまでしないだろう。それなのに水上君は、私を助けてくれた。――水上君は、本当はすごく優しい人なのではないだろうか。


「水上君」


「……」


「今日、ありがとう。おかげでもう、全然痛くないよ」


 左手をパーにして詩乃の前にかざし、にこっと笑いかける。詩乃は、ふいっと柚子から顔を背ける。うっと、柚子は固まる。――あぁやっぱり、すごく嫌われてる。


「須藤先生に見せた?」


「あ、うん。須藤先生、あの後突然部屋来て、がしって手掴むんだよ。びっくりしちゃった」


 柚子が言うと、詩乃は吐息のような小さな声で笑った。


 柚子は、初めて詩乃が笑ったところを見た。詩乃の笑い声も、初めて聞いた。そのことにひとまずは安心する。嫌われているのは確定としても、笑顔を見せてくれるくらいだから、そこまで最悪の嫌われ方はされていないはずだと、柚子はポジティブに推測する。


「私あの時、びっくりしちゃって。本当は、すぐにお礼、言えればよかったんだけど」


「いいよ、そういうのは」


「良くないよ!」


 柚子はそう言った後、そうだ、これがいけないんだと、すぐに後悔した。水上君が何か言う、私がそれに対して強く何かを発言する、すると水上君は、黙ってしまう。そこで会話はいつも、それでおしまいになる。今までは気にならなかったけど、今はすごく、水上君の沈黙には、どんな意味があるのかが気になる。


 カレーの香りがだんだん強く匂ってくる。詩乃は鍋の蓋を開け、スプーンで中を少しかき混ぜる。それから、手提げからキャンディーのように包装された丸チーズを数個、トマトカレーの液体の中に、ぽとぽと落とし、そしてまた、それをスプーンで混ぜ、蓋を閉じた。


「本当に、夜食、作っちゃうんだね……」


「お腹空いたからね」


「ごめんね……」


「勝手にやったことだよ」


 二人は、静かに湯気を吹く鍋蓋を見下ろし、眺める。川のせせらぎ、真っ暗な森の奥から聞こえてくる葉のざわめき、そして沸騰するカレーと、湯気の音。ジー、ジーと鳴く虫の声。


 詩乃は手提げから、五枚入りの食パンの袋を出した。


 突然そんなものを出されて、柚子は驚いてしまう。しかし詩乃は構わず、食パンの袋を開けると、鍋の蓋も取ってコンロの脇に置いた。ふんわりと、カレーの香りと湯気が沸き上がる。


「それ、どうしたの!?」


「買ったんだよ」


「どこで?」


「コンビニで」


 実は詩乃は、夕食後、皆が風呂に入っている間を利用してコンビニまでこの夜食の買い出しをしに行っていた。人参とタマネギ、それにカレーの固形ルーは今日の食材の残りだが、トマトやバター、チーズはコンビニで買ったものである。


 詩乃はコンロの火を止めて、食パンを一枚取り出すと、半分にちぎって、それをカレーにつけて、食べた。ほうっと、詩乃は満足してため息をつく。それから、自分のことをじっと見ている柚子の視線に気づき、訊ねた。


「……食べる?」


「……食べる」


 柚子は、詩乃から食パンを受け取ると、詩乃と同じように、カレーをスプーンで掬ってパンにかけ、まずは一口、それを食べた。夕食で食べたカレーとは全然全く違う味だった。トマトの酸味が、かなり効いている。


「美味しい……」


 ぽつりと、柚子が感想を漏らした。


 規則を完全に逸脱した行為。こんなことは、柚子には初めてだった。その興奮が、余計に柚子をわくわくさせた。規則を破ってわくわくしている自分が、柚子自身にも意外だった。


「本当はヨーグルトとか入るともっとインドっぽいんだけど、ゴミが邪魔になるから諦めたよ」


「こういうカレー、初めて」


「そう?」


 詩乃は、ぺろっと一枚目の食パンを食べ終え、二枚目を袋から出していた。


「なんか、すごいことしてる気分」


 柚子が目を輝かせて、小さな口でカレーを乗せた食パンをかじる。柚子からすれば、これは間違いなく、すごいことだった。こんな不良的な行為は、小中高と来たこれまでの学校生活で、したことがない。男子のロッジに遊びに行ったり、そこで食べるお菓子の買い出しを黙認するのとは、レベルの違う規則破り行為である。


「食べ損ねた夕食を食べてるだけだよ」


「いやいや」


 柚子は笑ってしまった。こんなことをしているのに、あまりにも詩乃は飄々としている。これがまるで、さも当たり前の、許された行為であるかのように。

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