第42話 レクリエーション室
「・・・」
今日は診察も、患者の集まりもレクレーションもなく、私は一人、昼過ぎののどかな時間を、レクリエーション室で過ごしていた。ここの一角には本棚があり、その前にはソファが置かれ、小さな図書館みたいになっていて、私は気に入ってよくここに来て本を読んでいた。いつも日中は、大概ここには人はおらず静かで、今日も、ここにいるのは私一人だった。
「・・・」
私は、置かれたピンクのソファに座りながら、ふと、レクリエーション室の片隅に置かれた縦型のピアノを見つめる。
「私が・・」
私は不安だった。私が変なことを訊いたから、玲子さんを狂気に走らせてしまったのではないか・・、あれから私はずっと、不安と自責の念を感じていた。美由香は気にすることないと言っていたけど、私は不安だった。
玲子さんは、あのまま集中治療室に入れられてしまって、面会もできなかった。集中治療室と言っても、いわゆる隔離部屋だった。一人、隔離部屋に入れられている玲子さんの姿を想像すると、堪らなく胸が痛んだ。
「玲子さん・・」
私は、昨日玲子さんが弾いていたピアノを見つめ一人呟いた。
ガチャッ
その時、レクリエーション室の扉が開き、誰かが入って来た。私は入口を見る。
「やあ」
直志さんだった。いつもの気さくな笑顔で私に右手を上げる。
だが、私はそんな直志さんの姿を見た瞬間、カーっと全身が熱くなり、顔が赤くなった。それが自分で分かった。美由香が変なことを言うから、思いっきり直志さんを意識してしまっていた。
「どうしたんだい?」
直志さんがそんな私をいぶかしがる。
「えっ、ううん」
言えるわけがない。
「本読んでるの?」
直志さんは私の方にやって来る。
「はい」
「本が好きなんだね」
そして、直志さんも、L字型になっているソファの私の横面のソファに座った。
「は、はい」
直志さんとは、以前にも何度か、ちょっとした話はしたことはあった。でも、今日はなんか、緊張してしまう。
「ごめん、なんか、迷惑だった?」
直志さんが、そんな私の変化を敏感に察して訊く。
「そんなことないです」
私は慌てて、首を激しく横に振る。
「全然そんなことないです」
自分の慌てっぷりに、なんか直志さんに自分の頭の中がばれているのではないかとさらに慌て、不安になる。
「いいんですか。お仕事」
私は、すかさず誤魔化すように直志さんに訊いた。
「うん、ちょっと休憩」
そう言って直志さんは笑った。私もその笑顔につられるように笑った。とても穏やかでやさしい人柄が、それだけで伝わって来る笑顔だった。
「さぼりだけどね」
そう言ってまた直志さんは笑った。私もさらに笑う。その場は、あっという間に、すごく楽しい空気になった。少しぐらいさぼったって、誰も何も言わないだろう。それにここには今二人だけだ。
「・・・」
しかし、やっぱり、心臓がドキドキしてなんか変な感じだった。熱に浮かされたみたいに自分が自分じゃないみたいだった。なんだか地に足がつかず、ふわふわと気持ちが舞い上がっている。私は、変なことを言う美由香を恨んだ。
「あっ、コーヒー飲みます?」
私は、その場を誤魔化すように立ち上がった。レクリエーション室には、誰でもお茶が飲めるように、ポットやティーパックが置いてある。
「うん、ありがとう。なんか気を使わせちゃったね。入院患者さんに」
直志さんが冗談ぽくいう。
「いえ」
そういうことではなかった。私はあただ 、自分を隠そうとしているだけだった。
「どうぞ」
私はインスタントのコーヒーを入れて直志さんに渡した。
「ありがとう」
直志さんにコーヒーを渡すと、自分の分を持って私はまたソファの元の場所に座った。
「君はなんでこんなとこにいるの?」
直志さんが、突然訊いた。
「えっ?」
ふいに訊かれ、私は戸惑う。
「病人に全然見えないよ。どこが悪いの?」
直志さんは、私の顔を覗くようにして見る。
「・・・」
私は戸惑う。ただでさえ舞い上がっているのに、そんな質問をされ、覗き見られると、さらにどうしていいのか混乱してしまう。
「あっ、ごめん、こういうことは訊いちゃいけないんだよね。ごめん」
戸惑う私を察して、直志さんはすぐにあやまった。
「・・・」
「ごめん、僕はデリカシーがなくて」
直志さんは頭の後ろを申し訳なさそうにかく。
「・・・」
やっぱり、自分の病気を人に言うのは恥ずかしかった。私のどこかで、未だに、こんなとこに来ていてなお、まだ自分は病気なんだと、心の病気なんだということを認められない自分がいた。どこかで、不幸で惨めな自分を認められない自分がいた。
「ごめん、ほんとごめん」
黙っている私に直志さんは、不安を感じたのかしきりにあやまる。
「いえ、大丈夫です・・」
「ごめん、ほんとごめん、ほんとデリカシーないんだよな。俺、だから、全然モテないんだよなぁ」
しきりにあやまる直志さんを見ていると私の方が申し訳なくなってくる。
「ほんと大丈夫です。ただ、まだ、言えなくて・・その・・」
「ああ、そうか、そうだよね。うん、・・・、じゃあ、また言える時に・・」
「はい・・」
せっかく直志さんが明るく話題を振ってくれているのに、それにちゃんと受け答えできない自分が情けなかった。
「僕はこの仕事していてさ、他の病棟なんかにも行くから、色んな患者さんたちを見てるんだ。だから、君が何でここにいるのか分からなくてね。なんか普通の子にしか見えなくて」
「・・・」
「他の患者さんはけっこうすごい人もたくさんいるからさ」
「・・・」
直志さんは、何とかこの沈鬱になってしまった空気を戻そうと必死にしゃべる。しかし、しゃべればしゃべるほどに空気は変な方向に行ってしまう。
「直志さんは、ずっとこの仕事をしているんですか?」
私はこの気まずい空気を変えたくて、なんとなくの思いつきで訊いた。
「う~ん、まあ二年ぐらいかな」
直志さんが少し考えてから答える。
「そうなんですか」
「色んな仕事転々としてきて、なんか知らないけど、この仕事だけはなんか続いているんだ」
「へぇ~」
「なかなか一つの仕事が続かないダメ人間だったんだけどね」
「フリーターなんですか」
「僕は大学生だよ。大分年食っちゃったけど」
直志さんはそう言って笑った。
「あっ、そうなんですか」
私はちょっと驚く。
「清掃の仕事が本業って訳じゃないんだ。これはアルバイトだよ」
「そうだったんですか」
「ずっとふらふらしていてね。今は人生のやり直しをしているんだ。僕ももう二十五だよ」
自嘲気味に笑いながら、直志さんは頭の後ろをかく。
「ここで働きながら大学に行っているんですか」
「そう、昼間はここで働いて、夜に大学の夜学に通っているんだ」
「そうなんだ・・」
すごいと思った。自分で働きながら、大学に通うなんて。
「すごいです」
「すごくないよ」
「すごいですよ。私には出来ないもん」
私には出来ない。学校に行くことすらができていないのだ。
「いや、ただのモラトリアムだよ。大人になれないのさ。未だに、この年になってもさ。はははっ」
「・・・」
「同級生たちはみんな大人になっていくのに、結婚して子どもまでいる奴がいるっていうのにさ」
「・・・」
私も、同級生に置いていかれている感じがしていた。
「俺だけまだ全然その入り口にすら立ってないっていうか」
「なんか分かります。私もなんか置いてかれてるっていうか・・。こんなとこいるし・・」
「そうなの?」
直志さんが少し驚いて私を見る。
「はい」
「気が合うね」
冗談ぽく直志さんが言って、私たちは笑った。
「私なんて学校にすら行けてないし、こんなとこに入院してるし・・」
何でこんな方向に話がいってしまったのか分からなかったが、私はなんか自分の話をしていた。
「・・・」
直志さんは黙って私の話を聞いていた。
「それに私ブスだし、なんか変だし・・、普通に生きられなくて・・」
「君は変じゃないよ。ブスでもない」
直志さんはその私の言葉に突然反応し、すかさず言った。
「えっ」
「それに、君はかわいい。とてもかわいいよ」
「えっ」
私は直志さんを見る。いつも冗談を言う陽気な直志さんの顔はいつになく真剣だった。
「えっ、そ、そんなことない。私は・・」
私は、一気に頭が沸騰して訳が分からなくなる。
「君はかわいいよ」
「私・・」
そんなこと、今まで誰にだって言われたことがなかった。誰にだって・・。
「君はとても、かわいいよ」
――中学一年の夏休みの前くらいだった。同級生の男の子たちが、私をチラチラと見ながら、笑っていた。時折、「顔がなぁ」と言うのが聞こえた。その時、私は男の子に愛される女の子じゃないのだと知った――
直志さんが、お世辞で言ってる感じではないのが分かった。逆にすごく好意的で・・、そして・・、何か特別な感情が籠っていた・・。
「そんなことない」
でも、私は叫んでいた。
「そんなことないっ」
直志さんは驚いて、目を丸くしながら私を見ている。
「私は・・」
私は、感情が沸騰して、もうなんだか訳が分からなくて――、そして、その場にいたたまれなくて――、私は勢いよく立ち上がるとレクリエーション室から逃げるようにして走り去った。
「・・・」
直志さんは驚いて、呆然としたままそんな私を見送っていた。
「うううっ」
私は部屋に帰り。ベッドに顔を潜り込ませ、泣いた。
「なんで私はこうなんだろう。なんで私は・・」
自分がとってしまった態度に、恥ずかしくて死んでしまいたかった。絶対に、私のことを変な奴だと思ったに違いない。
そして、直志さんを傷つけてしまった。そのことが私をザクザクと強烈に苛んだ。
「うううっ」
かわいいと言ってくれたことを素直によろこんだらいいじゃないか。でも、私にはそれができない、不安定で臆病な私がいて、私はそのことに堪らなく心がかき乱されてしまう。自分がかわいいわけがない。絶対に私なんかかわいくない。その確信こそが私であり、現実だった。
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