第38話 狐目の子

 中庭の喫煙所のベンチで、私は一人タバコを吸っていた。定期的にニコチンを摂取するのが、ここのところの私の日課になっていた。あれから、もう、完全に体がタバコを覚えてしまっていた。最初あれだけ気持ち悪くなったタバコの煙が今は、なぜか心地いい。自分で、タバコの煙をくゆらせながらそのことが不思議でしょうがなかった。

「・・・」

 この病院に来て、はや一か月が経とうとしていた。なぜ、私はここにいるのか分からなくなるほどに、私の心は安定していた。摂食障害は、環境的に起こりようがないのもあるが、衝動自体を感じなかった。そのことも不思議でしょうがなかった。

 しかし、その一方で、その奥底で依然として、ほんのちょっとしたきっかけで崩れてしまいそうな、漠然とした不安定な私を私は感じていた。そんな私が私を何とも言えず不安にさせる。私はやっぱり病んでいる。そう感じた。

「よっ」

 突然、声をかけられて私は顔を上げる。

「あっ」

 美由香かと思ったその声の主は、あの狐目の子だった。私は緊張し、身構える。私は気が小さくケンカなんてまったくダメだった。

「そんなにビビらなくていいだろ。別に何かするわけじゃねぇんだからさ」

 そう言いながら、狐目の子は私の隣りに座った。

「う、うん・・」

「あたしは、自分で言うのも何だけどそんなに悪い人間じゃないんだぜ」

 その狐のような細い目で私を見る。

「・・・」

 しかし、いきなり怒鳴られた記憶はそうそう消えるものではない。

「あたしはさ、変なこだわりが強いんだ。いつも同じ席じゃないと、なんか落ち着かないっていうかなんていうか・・。医者は発達障害とか何とかって言ってんだけど」

「・・・」 

 そうだったのか。

「小さい時から変なこだわりが強いんだ。それで、あん時は怒鳴っちまったんだ」

 申し訳なさそうに狐目の子は言う。

「それでよくトラブルんだよ。自分でも嫌になっちゃうよ」

 辟易した顔で、狐目の子は言う。

「ごめんな」

「うん・・」

 確かに、狐目の子も話してみるとけっこういい子そうだった。

「あたし、ゆかり。あんたは?」

「私は・・、真知子」

「真知子は、何で?」

「私・・、摂食障害・・」

 やはり、最後の方は声が小さくなる。未だに、病名を言うのはなんか恥ずかしかった。

「そうなんだ」

 しかし、ゆかりは全然気にしている感じも、驚く様子もない。やはり、病院の中では、病気はさして気にされない。

「ゆかりは?」

「あたしは、なんかよく分かんない。発達障害って言われたり、人格障害って言われたり、情動障害って言われたり、色々。医者によって言うことがコロコロ変わるんだ。参っちゃうよ」

「そうなんだ」

「複雑なんだ。あたし」

 そう言って、ゆかりはほわほわとタバコの煙を輪っかにして、空中に吐き出していく。

「・・・」

 私はその煙の輪っかを、どうやってするんだろうと思いながら、空気中に溶けて消えて行くまでを何となしに見つめた。

「あたし、お金貯めてるんだ。二百万」

 ゆかりが言った。

「二百万?」

 私はその金額の多さに驚く。

「うん、それで豊胸手術をするんだ」

 ゆかりは、どこかうれしそうに言う。

「・・・」

 私はゆかりの胸を見る。服の上からでもその胸がまっ平らなのが分かった。

「車を買うか豊胸するか迷ったけど、今は豊胸一択」

「・・・」

 私なら絶対に車だった。

「知ってる?」

「えっ」

「豊胸手術した人って六割が自殺してるんだって。まあ、アメリカの統計だけどね」

「えっ」

 そんなに?

「私はどっちかな。六割か四割か」

 ゆかりは体をゆらゆらと左右に揺らしながら、そんなことを一人呟くように言う。

「私は生き残るのかな」

 ゆかりの体は左右に揺れる。

「・・・」

 やめればいいじゃないかと、そんな正論を言いそうになったが、私は喉元でそれを押しとどめた。多分、ゆかりもそんなことは百も承知だ。

「それで、生き残ったら、あたしは目を整形するんだ。あたしほっそい吊り目だろ。これを丸いやさしい目にするの。誰もが一目見てこの人はやさしい人間だって思うような目。一瞬で好感を持たざる負えないような目」

「・・・」

 先に目を手術した方がいいんじゃないかと私は思ったが、それも言わないでいた。

「あたしってこの細い吊り目のせいで大分損してると思うんだよね。大体いつも第一印象で、きつい女とか、冷たい奴とか思われるんだよ。それで、根拠もなく敵視されて、でも、私こう見えてそんなに気も強くないし、けっこうやさしい人間なんだぜ」

「・・・」

 確かに意外と気さくでやさしい子だった。

「絶対損してんだよ」

 ゆかりは一人憤慨する。

「・・・」

 私も見た目で損している感覚は物心ついた時からあった。


 ――常に否定されて育った。同級生にも、兄にも、私は常に否定されて育ってきた。そのことのすべてが私の見た目にあるのではないかと、漠然と思い始めたのはいつの頃だったろうか。その思いは――、不安は――、私の中でどんどん成長していき、気づけば、もう私にはどうすることもできないほど深く大きくなっていた――


「今の自分に満足できない奴は何やっても満足できないって」

「えっ」

 しばし黙って、タバコの煙をくゆらせていたゆかりがまた口を開いた。

「あたしが整形したいって言ったら、そう言われたよ。昔の彼氏に」

「・・・」

「あたしもそう思う。でも、整形はするんだ」

 ゆかりはやる気満々だった。

「・・・」

 今の自分に満足できない奴は何やっても満足できない・・。私もそう思った。

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