第36話 宇宙
「・・・」
とりあえずは何の変化もない。
しかし、少しずつ、なんだか頭の中がもやもやとして来た。そして、意識が水中にいるみたいにもわっとした感じになって、思考があいまいになる。お酒の酔いが強くなったのか、薬の作用なのかよく分からなかったが、なんとなく気持ちよく、そのままなんとなくその心地いい水中に沈んでいくような感覚に、私は身を任せる。
「デパスは世界で一番売れている薬なのよ」
そんな私の隣りで何でこんな話になったのか、というか、誰?というよく知らない女の子が、何か話をしている。
「そうなの・・?」
私はもやもやとした頭のまま、ぼーっとその話を聞いている。
「うん、私はもう効かないから飲んでいないけど、昔大分お世話になったわ」
「・・・」
昔というが、その子は今まだ相当若い。確実に十代だ。
「私が飲んでいるのは、ルーラン十二ミリグラム。もっと欲しいんだけど、なかなか出してくれないわ。私抗うつ剤も二種類飲んでるし、けっこう強い奴。安定剤も二種類飲んでるし、やっぱ無理かな。頓服でリスペリドンももらってるしな。眠剤も、規定量ギリギリ出してもらっているし」
その子は、私の反応など関係なく、マイペースにひたすら自分の話を一方的にし続ける。
「私、発達障害もあるから、小学校三年生の頃からコンサータを飲んでたの。あれ、効いたんだけどな。ストラテラは副作用きつくてダメだったな」
「はあ・・、小学生の頃から薬飲んでるんだ・・」
私はその話を聞きながら、なんかすごい子だなと、ぼーっとした頭の片隅で思った。
「そうよ。コンサータも副作用きつくて、学校で何度も倒れそうになったけどね」
そう言って、彼女は笑っている。
「・・・」
倒れそうに・・。そりゃ大変だ・・。私は、驚きながら、しかし、頭がもやっとしていて、それは無感動だった。
「私のお父さんは頭おかしいの」
気づくと、また違う子が私の隣りで話をしていた。さっきの子といつの間に入れ替わったのか、時間感覚と記憶があいまいでよく分からなかった。私の意識はやはり水中にいるみたいにもやっとしていた。
「ほんと頭おかしくて、まったくコミュニケーションがとれないの。基本的な会話のキャッチボールができないのよ。何言ってるのかも全然分からなくて、訳の分からない禅問答みたいな話になっていくのよ。話していると。意思の疎通がまったくできなくて、もう家族とかみんな大変だった。変なこだわりとかも強くて、なんか突然キレ出すし、ほんとイカレてたわ。なのに大学で哲学科の教授なんかやってんのよ。世の中どうかしているわ」
その子は一人でしゃべっているのか、私にしゃべっているのか、とにかく一方的に父親への不満をしゃべり続けている。
「でも、私もその人の子どもなんだよね・・。だから、私は小学三年生の時に自分の人生に絶望したわ」
「・・・」
私が自分の人生に絶望したのはいつだったろうか・・。確か私も小学三年生くらいだったような気がする・・。気が合うな。私は思った。
「ああ、私はこの人なんだなって。だから、私もクラスのみんなに嫌われるんだなって・・。家族からめっちゃ嫌われてたの。あいつ」
「・・・」
私はなんとなくもや~っとした心地よさでその話を聞いていた。
「なんだ、あんまり変化ないな。やっぱり風邪薬なんて飲んだって・・」
そして、私はボーっと、そんなことを思った。が、その瞬間だった。
「うっ」
突然、世界が直角になった。
「あ?」
そして、今まで上だったところと下だったところの境界線のそれがズレていく。ズレが最大になると、今度は今まで上だった方の世界が下に落下し始めた。それはぐんぐん勢いを増していく。
「おおおおっ」
私はその加速に、気を失いそうになる。しかし、それは最高で、快感でもあった。
「ああああっ」
私は落ちていった。しかし、それは同時に上昇でもあった。
「うおおおおっ、なんだこりゃぁぁあああ」
なんか訳が分からなかった。訳が分からなかったが、でも、ものすごい得も言われぬ喜悦感が私の内奥から湧き出すように溢れ出してくる。
「なんだこれぇ~ええええ」
そして、その得も言われぬ喜悦感はどんどん膨らみ大きくなっていく。
「ああああ」
それは言語を超えた、言葉にできない気持ちよさだった。
「ああ、なんて気持ちがいいの」
私は天国にいた。私は天国をふわふわと漂っていた。
「気持ちいい・・」
もう何にもいらなかった。なんにもいらなかった。たとえ、私が十億持っていたとしても、何の躊躇もなく、そんなもの捨てていただろう。そのくらい気持ちよかった。
――――
「あっ」
そして、気づくと、私は宇宙にいた。というか宇宙が私だった。
「ああああ」
それはとてつもなく心地よかった。そして完璧だった。今までの辛い人生なんか滅茶苦茶どうでもよかった。すべてが美しく完全無欠で輝いていた。
「宇宙ってこうなってるんだ・・」
私は宇宙の創生から現在までを理解していた。宇宙の光が複雑多岐な幾何学に形を変えながら万華鏡のように回転し輝いていた。
「あはははっ」
私は一人大声で笑っていた。今までの嫌なことのすべてがどうでもよかった。今まで悩んでいたことのすべてがどうでもよかった。
「嫌うなら嫌え」
私は叫んだ。今まで恐れていたこと、不安に思っていたことが、心の根こそぎどうでもよかった。
「いじめるならいじめろ」
「おっ、いいぞ」
隣りでそんな私に、美由香が合いの手を入れる。
同級生たちに嫌われたって、滅茶苦茶どうでもよかった。人から変な目で見られてもそんなこと滅茶苦茶どうでもよかった。嫌うなら嫌え。私は今完璧で無敵だった。世界は完全な形でバラ色に輝いていた。
―――
「・・・」
どれだけの時間が経ったのだろうか。時間という概念、感覚がそこでは存在していなかった。ふと見ると、目の前に扉があった。そして、それがゆっくりと開く。その向こうは完全な暗黒で、その先に何があるのかまったく分からなかった。
「・・・」
しかし、その先には、人間の世界を超えた世界があるということだけはなぜか分かった。
「・・・」
私は、一歩また一歩と、ゆっくりとその扉に向かって歩み出す。その扉の向こう。その世界は・・、
「・・・」
多分、ある特殊な人、偉大な存在によって選ばれた人、心を極限まで先鋭化した人、そこを通る資格のある人間だけが通れる世界。そして、私にはそれがない。それを私は知っていた。
「・・・」
私はその扉の中の暗黒との境界線に立ちどまる。
「・・・」
多分、私はこの先に行っては行けない。そういう何かが私をとめていた。
「・・・」
この先に行ったら・・。この先に行ったら・・。私は・・。
――幼い頃、母に連れられて行ったお祭りの屋台で買ってもらった蛍光に光る棒。それをぐにゃりと曲げて、腕に巻く。それはとてもきれいで、腕に巻いているだけでなんだかとても楽しかった。でも、お祭りの終わった次の日の朝には、もうその光は薄れ、光らなくなっていた。お祭りの終わった寂しさ・・、それが幼心に堪らなく悲しくて、私は一人ベッドの上で泣いた――
「・・・」
朝目覚めると、というか今が朝かどうかもよく分からなかったが、私は、どぶ川の河原に大の字で、これ以上ない豪快な仰向けでぶっ倒れていた。そんな私に昼間のサンサンとした太陽が照りつけている。
「んんん・・?」
訳が分からなかった。頭がコンクリートを流し込まれたみたいに回らなかった。自分が今置かれている状況、記憶、状態、というか、自分が何者かすら一瞬分からなかった。
「うううっ」
体が、本当に鉛のように重い。自分の体じゃないみたいだった。
「・・・」
ふと何やら顔の近くに気配を感じ、私は顔を横に向ける。
「・・・」
見ると私の顔のすぐ横で一匹のアマガエルが、そのポーカーフェイスで、じっと私を見つめていた。
「・・・」
私とアマガエルはしばし見つめ合う。
「・・・」
なんだこれ・・。この状況がまったく訳が分からなかった。
「うううっ」
私はゆっくりと起き上がった。口の周りがなんだかすっぱい。頭もなんだかベトベトしている。
「なんだ・・?」
それが寝ゲロと言われるものだということは、だいぶ後になって知る。
「ううううっ」
頭がガンガンする。そして、強烈な吐き気がした。私はすぐ横のドブ川まで這って行くと、そこに思いっきり胃の中のものを全部吐き出した。久しぶりに吐く感覚だったが、慣れていたせいでまったく苦もなくそれはできた。意外なところで過食嘔吐のそんな経験がいきた。
しかし、強烈な気持ち悪さは残ったまま、私を猛烈に苦しめる。
「うううああああっ」
吐いていしまうと、私はまた大の字にその場に倒れた。気持ち悪くて心身ともにこれ以上ないくらい最悪な状態だった。強烈な二日酔いと車酔いと、食中毒が同時に来たみたいに気持ち悪かった。
「うううっ」
横になっていても気持ち悪かった。
「みんなはどこへ行ったのだろう・・」
私は、苦しみの中で、ふと思った。気持ち悪くて、頭を持ち上げるのもしんどかったが、周囲を見ようと頭を持ち上げた。
「えっ」
その時、私は突然見知らぬ人間に腕を摑まれた。
「真知子ちゃんね」
「何?」
私はその声の方を見る。なんだか威圧感のある女性が、倒れる私の顔を覗き込むようにして立っていた。太陽の光からの逆光で顔はよく見えない。
「・・・」
一般の人ではない。何か特殊な人。そんな雰囲気が漂っている。それがなんとなく分かった。
「誰?」
私は、気持ち悪さを抱えながら、まだはっきりしない頭でその人に怯えた。
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