第18話 お風呂

 ああ、お風呂に入りたいわ」

 私は共有スペースの端に置いてあるソファに座り、体を思いっきりだらけさせながら呟いた。この病院に来て三日目、私はもう二日もお風呂に入っていない。

「お風呂は週に二回だ」

 隣りの美由香が言った。

「えっ、そうなの」

 なんか少ない気がした。

「刑務所より少ないんだぜ」

「・・・」

「ほんと怠慢だよな。めんどくせぇんだぜ。結局」

 ちょうどそこへ歩いてくる看護婦に、わざと聞こえるように大きな声で美由香は言う。

「そうなの」

「ああ、管理監督がめんどくさいんだろ」

 美由香は看護婦を睨むように見る。看護婦も睨み返すように美由香を見る。

「でも、じゃあ」

「ああ、確か今日じゃないか」


「えっ、美由香は行かないの」

 夕方、いざお風呂の時間になると、美由香は首を横に振った。

「ああ、あたしはいいや」

 入浴する日が少ないと不満を口にしていた割に、その貴重な入浴日に行かないという美由香が理解できなかった。

「めんどくさい」

 最後に美由香はそう言ってテレビの方に行ってしまった。

「・・・」

 玲子さんも真紀もどこへ行ってしまったのか見当たらない。仕方なく、私は一人で行くことにした。

 お風呂は棟の四階にあった。看護ステーションで許可をもらい、エレベーターで四階に降りる。

「・・・」

 この階はこの奥に行くと、あの閉鎖病棟があるというところだった。私はそう思うと怖くなった。私は慌てて浴場の方へ歩いた。

「あっ、ここだ」

 案外とかんたんにそこは見つかった。大きく女湯と書かれた濃い目のショッキングピンクの暖簾がかかっている。

「銭湯か・・」

 私は思わずツッコんでしまう。

 脱衣所で服を脱ぎ、ガラガラと風呂場への開き戸を開けると、湯煙の向こうの洗い場に誰か先客が一人だけいるのが見えた。案外他の患者が少ないことに驚きつつ、私はまず入って左手の壁に並ぶ、洗い場の一つに座り、湯舟に入るための礼儀として、お湯を桶に汲んで肩からかけた。

「おいっ、もっと静かにかけろ」

 勢いよくかけ過ぎて、飛沫が飛んでしまったのか、洗い場にいたおばちゃんの怒声が響いた。

「あ、すみません」

 私はその方を向いて、慌ててあやまる。

「わっ」

 私はおばちゃんを見て驚く。頭を洗うそのおばちゃんの背中で、巨大な錦鯉が天へと昇っていた。

「・・・」

 私はビビる。おばちゃんのその背中一面には、立派な刺青が入っていた。しかもちょうど他の患者や、美由香が必ずいると言っていた見守りの看護婦さんもいない。

「何見てんだ」

「あ、すみません」

 ふいに振り返ったおばちゃんにビビって、私は慌てて転びそうになりながら飛び込むように浴槽に入り、そこに身を沈めた。

「ふぅ~」

 いきなり怖い思いもしたが、しかし、やはり湯舟は気持ちよかった。それに、案外と広く、ここも改装したばかりなのか、きれいでどこかの小さな温泉か銭湯のようだった。

「ああ、気持ちいい」

 やっぱり、お風呂は気持ちいい。私にとって入浴は最高の精神安定剤だった。あまりに気持ちよ過ぎて、このまま体ごとお湯に溶けて永遠に浸かっていたい気分だった。


 ――「なんで私はこんななんだろう・・」

 高校にも行けなくなり、家に引きこもりながら昼夜逆転して眠れぬ深夜。過食に疲れ果て、私は一人風呂に入った。

 すべての人間が街ごと眠りにつき、完全な静寂が風呂場の外側を包み込んでいる。それは冷たい闇。

「・・・」

 私はその中でたった一人存在している。この広大な宇宙にたった一人生き残ってしまったみたいな、堪らない寂しさが私を突き上げる。

「私はなんでこんななんだろう」

 ふいに涙が溢れて来た。

「なんで私はこんなダメな人間なんだろう」

 私は泣いた。涙が次々溢れて来た。誰ともうまくやっていけない。何もうまくやれない。学校でも家でも、どこに行ってもうまく生きていくことができない。

「ううっ、私はなんてダメな人間なんだろう」

 出てくる言葉は自分を呪う言葉ばかりだった。

「なんでこんななんだろう」

 堪らない悲しみが心の奥底から溢れて止まらない。

「なんでこんななんだろう・・、私は・・、うううっ」

 私は一人、世の中の誰もが寝静まった冷たい夜の下。一人風呂場で号泣した――。


 家から離れ、まったく見知らぬ精神病院のお風呂に浸かっていると、あの時泣いた自分が、なんだか今は遠い過去のような気がした。

 たっぷりとお湯に浸かり、さてそろそろ湯舟から上がって、体を洗おうかという時、体を洗い終えたさっき私に怒鳴った刺青のおばさんが湯船に入ってきた。私は怖かったし、ちょうどいいので入れ替わり湯舟から出ようと立ち上がりかけた。だが、なぜかおばさんは私の近くにやって来る。そして、そのおばさんが話しかけてきた。

「お前、新入りか?」

 出ようとしていた私のすぐ隣りに、おばさんはそのまま座る。私は湯舟から上がるタイミングを逸した。

「え?は、はい」

 なぜ分かったんだ。

「あたしは、ここ結構長いんだ。だから分かるんだよ」

「はあ・・」

「感だよ。感」

「はあ・・」

 案外気さくでいい人っぽくて私は少し安心した。だが、やはり、その彫り物にはビビる。

「・・・」

 私はすぐ横の腕にまでびっしりと広がるおばさんのその立派な彫り物を見る。やはり、この立派さはあっち系の方だ。この人は多分、薬物中毒かな。私は勝手に想像した。薬物やアルコールの依存症者はヤクザ関係が多いと、美由香が言っていた。

「あたしは、鬱病になっちまってさ」

 すると、おばさんがふいに言った。

「えっ!」 

 私は驚く。こんなタイプの人でも鬱になるのか。私は驚いて、ついそれを声に出してしまった。

「そんなに驚くこたぁねぇだろう」

 そう言って、おばさんは怒るように私を見る。

「す、すみません」

「あたしだって鬱になるんだよ」

 そして、私の背中をバシ~ンと思いっきり平手ではった。

「いったぁ~」

 私は湯船から飛び上がりそうにった。力の加減ができないのか、まったく手加減なしだった。だが、入れ墨の威力にビビる私は、痛みに耐え、必死で笑顔を作った。ああ、早く湯船から出たい。私は思った。

「お前は?」

「え?私は・・、あの・・、過食症とか・・?」

 最後の方は、疑問形になり、かなり小声になっていた。やっぱり、自分が摂食障害だということは、人に言うのが恥ずかしかった。

「過食症?ああ、食べ過ぎか」

「え、ええ、まあ」

 大雑把に言えばそうだが・・。しかし、おばさんの勢いに否定もできない。

「お前若いんだから、少しぐらい食べ過ぎたって大丈夫だろう」

「えっ」

「あたしの若い頃は、そんなの気にしないで食いまくったぜ」

「そ、そうですか・・」

 何かが違う気がしたが、豪快にそう言われると、なんだかそんな気もして来る。

「あたしなんか若い時は毎晩朝方まで飲み歩いて、滅茶苦茶眠いのにでも腹減って、早朝に、寝ながらうどん食ってた時もあったぞ。はっ、はっ、はっ、はっ」

 そう言って、おばさんは豪快に笑った。

「若い時は食って食って食いまくればいいんだよ。はっ、はっ、はっ、はっ」 

「はあ・・」

 そう断言されるとなんだか本当にそんな気もして来た。私はいったい何に悩んでいたのだろう。真剣に分からなくなってきた。今からすぐにこの病院から出て、元気よく学校に通える気までしてきた。

 それにしても・・。

「熱い」

 さすがにのぼせてきた。私は湯舟から出たくて、堪らず立ち上がろうとした。

「あたしの若い頃なんてのは・・」

 だが、そのタイミングでおばさんはまた話しを始める。

「ううっ」

 私は再び上がるタイミングを逸した。

「あたしの子どもの頃はな、家が貧乏でな、しかも、おやじが飲んだくれて暴れるしよう、大変だったんだよ。おまけに・・」

 おばさんの話はそこから延々続く。というか、そこから、おばさんの一代記が始まった。

「・・・」

 私は熱くてたまらず湯舟から一刻も早く出たいのだが、しかし、入れ墨が怖くて、話しの途中で湯舟を出ることができない。

「うううっ」

 もう、体がのぼせて、意識が朦朧としてきた。しかし、おばさんの話は、終わる気配がない。それどころか、物心ついた頃から始まった一代記は、まだ中学時代に入ったばかりだった・・。


「お、おいっ、大丈夫か?」

 美由香が、のぼせて真っ赤になった、ふらふらと廊下を歩く私を見て驚いている。

「う、うん・・」

 しかし、私の頭は完全にのぼせて、蒸し上がった蒸し饅頭みたいにほわほわしていて、何も考えられなかった。

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