第3話 玻璃の向こうにみえるもの
さて、声はどこからしたのだろうか。
入り組んだ街を見下ろせば、対象はすぐに見つかった。十代の少年が明るい髪をふわふわと動かしながら往来を走っている。髪の間から覗く表情は好奇心に満ちており、春子は少し興味がわいた。少年の走る方角を見ると街の人々が集まっているのが見えた。
(お祭りかしら?)
鬼無国でも祭りが開かれる際はこうして賑わっていたのを思い出す。
異国の祭りというものに興味があり、窓を開けると春子は身を乗り出した。目を細めると人だかりの中央に豪奢な馬車が見えた。どうやら、人々が集まっているのはお祭りではなく、その馬車を出迎えるためのようだ。
祭りではないことに残念、と思いつつ春子は馬車を観察することにした。漆黒に彩られたその馬車の隣には憲兵が大きな旗を持って付き添っている。その旗には翼を広げた龍とその背後に二つ剣が交わっている意匠が描かれており、春子は目を丸くさせた。
その意匠は王家の家紋だ。
つまり、馬車の中にいる人物は王族か、それに
(初夜を拒否されたし、私はまだ王家の一員ではないということね)
本来ならば王太子妃である春子にも一言ぐらい相談があってもいいものだ。
なのに、相談はおろか小耳にすら挟むことない。
悩ましげに息をつくと、廊下から複数の足音が聞こえた。特に大きく、
(また今日も私を馬鹿にしにきたのだわ)
足音が扉の前で止まる。春子は急いで表情を改めた。このまま嫌な顔で出迎えてやりたいが、そんなことをすればきっとまた暴言が飛んでくるのは目に見えていた。
「自殺か? そんな見た目だ。悲観的になるのも無理はない」
扉を開けて早々、言い放たれた言葉は春子の身をあんじているようでまったくもって違う。毒に塗れた言葉に内心、苛立ちを覚えたが春子は気づかないふりをしてにっこりと口元に笑みを浮かべてみせた。
「なにやら街が賑やかで、どうしたのか気になったのでございます」
ジェラルドは、ふんっと鼻で大きく笑った。この国の基準では、とてつもなく整っているらしい美貌にはありありと
「
「あいつでございますか?」
「お前の夫になる男だ」
「……夫?」
はて、と春子は小首を傾げた。春子の夫はジェラルドだ。初夜を拒絶されたとしてもその立場は変わらない。
だが、今の言い方では、まるであの馬車に乗る人物が春子の夫だと言っているようだ。
春子の表情が可笑しかったのかジェラルドは、ふは! と吹き出した。
「あの馬車には父が
ひどい言い方だ。片親とはいえ、血を分けた兄弟をそう言うなんて。
「まあ、そう悲観するな」
王族らしからぬ
「兄は、お前に負けず醜い。不細工同士、仲良くできるさ」
春子はその毒を笑顔で受け流した。
——それが励ましているつもりならば、母親のお腹からやり直した方がいいですね。品性というものが感じられません。
と言ってやりたいが口をつぐむ。
無言の笑みで対処し、早くこの部屋から出て行ってと心の中で念じた。言葉や態度に表せば、また罵詈雑言が出てくるので、この対処方法が一番、春子の精神を逆撫でせず済むのだ。
しかし、春子の願いが叶う気配はない。
「さあ、行くぞ」
春子は目を大きく見開いた。ジェラルドの言葉を
行くぞ、というからには、ついてこいという意味だ。
けれど、春子の自由はこの部屋だけと決まっている。この部屋から出ることは一歩も許されていない。初夜失敗の翌日からずっとこの部屋にいるよう命じられ、今日で一月半。急におりた、外出の許可に戸惑いを隠せなかった。
(……いいえ、分かっております。ジェラルド様が先程、おっしゃっていましたもの)
「そのお兄様と顔合わせのためですか?」
「そうだ。父は翌日と言っていたが時間が惜しい。お前を連れて今日中に出ていってもらわねば」
「今日?」
春子は自分の耳を疑った。義父である国王が前にジェラルドの兄は、遠く離れた辺境の地に領土を持っていると言っていたのは覚えている。その地は自然が豊かではあるが、魔獣という恐ろしい生物が出没するそうだ。
その土地から、このお城まで、どれほどの日数がかかるか春子は分からないが一日二日でたどり着ける距離ではないのは確かだろう。疲れている兄を
「鬼無国から持ってきた荷物をまとめておけ。後日、シヴィル領に送っておいてやる」
「……ええ、承知いたしました」
様々な罵倒用語で春子の頭の中は埋め尽くされている。この中の言葉を口に出すことができれば、どれほどすっきりするだろうか。
しかし、口にはけっしてしない。春子は鬼無の姫であり、この婚姻は春子の我が儘がきっかけなのだ。どんな理不尽でも、今は耐え忍ぶべきなのだから。
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