第30話 戯れ
「……すまない。私がもっと早く気がついていれば。彼らも悪気があったわけではないんだ」
紅玉を臥台に座らせると、その隣に藍影も腰を下ろした。
「いえ、みなさま、とてもお優しくて楽しいひとときでした」
紅玉が微笑むと、藍影は肩をすくいあげる。
「楽しいこともあれば、疲れることもある。気になる事があれば言いなさい。彼らを叱りつけておくから」
叱ること前提の言葉に紅玉は苦笑し、すぐに体を硬直させた。褥に置いていた手の上に、藍影の手が重なった。ちらりと横を見上げると藍影が愛しげに目尻を下げている。一笑すれば
更に、今は目尻や頬を朱色が彩っており、まるで恥じらう乙女のようだ。紅玉はばくばくと高鳴る心臓の音を聞きながら、さり気なく手を自分の膝の上へ移動させようとした。
しかし、それは叶わない。
藍影が指を絡めてきた。一本一本の指を丁寧に、関節の皺を、爪の際を、傷を、細部まで観察するかのように。
「あっ、あの」
羞恥から声が裏返る。
「なんだい?」
「手を、その、手が」
「触れたくてね」
「触れても、楽しくなんて……。傷だらけですし」
自分の手は傷だらけだ。生誕を尊ばれた姉兄と違い、紅玉は疎まれた存在だ。
藍影の目に触れないように袖を引っ張り、指先まで隠そうとする。
「これは紅玉が頑張った証だろう?」
藍影は袖を払い除けると、一番大きな傷跡を指先で撫でた。
瞬間、紅玉は「ひっ」と息を詰まらせる。
「とても魅力的だよ」
耳元で囁かれ、そのまま耳朶を食まれる。ぞくぞくする感覚に体が震えてしまう。思わず、助けを求めるかのように藍影の衣を強く握りこんだ。
その仕草に気を良くしたのか、藍影は何度も唇を落としてくる。耳から頬へ、そして首筋まで熱い吐息を感じたところで、はっと我に返ったように藍影の動きが止まった。
慌てて居住まいを正すと、顔を青くさせて紅玉の顔を覗き込む。
「すまない……。ふざけすぎたね」
はらはらと灰色の瞳からは涙が溢れて、頬を滑るのを見た藍影は長い睫毛を伏せて紅玉の手を握り込む。
「違うのです……」
紅玉は嗚咽混じりに首を横に振ると、呼吸を整えて藍影を見上げた。
「その……嬉しくて……」
涙を拭うこともせず、はにかむと更に涙が溢れた。ぽろぽろと大粒の涙を零しながら「嬉しいです」と何度も繰り返す姿に、今度は藍影が慌てふためいた。にやけそうになる顔を引き締めると慰めるように紅玉の背を撫ぜる。
しかし、紅玉の続いての言葉に手を止めた。
「家族に疎まれた私を、こうして暖かく迎え入れてくれたのは藍影様だけです。それだけで、現世に帰っても前を向いて生きて行けます」
現世という言葉が紅玉の口から出たことに、藍影は眉を顰めた。
この数日間、何度も聞いていた言葉だ。どれほど藍影が想いを伝えても、紅玉の意思は変わらない。ここに残って欲しい、好きだと伝えても紅玉は決して頷かない。嬉しいと涙を流すのに。
「以前も言っているが、紅玉はここに残っていいんだ。私と一緒に暮らそう。ここには歌流羅や暁明もいる。きっと、楽しいはずだ」
紅玉は唇をきつく結んでしまった。
心を閉ざすように目も、拳も固く握りしめる姿に藍影は深くため息をつく。
「……どうしたら、君に伝わるんだ」
そう告げると、びくりと紅玉の体が大きく揺れた。おそるおそる藍影の顔を窺い見る目には悲しみの色が浮かび上がり、視線は足元へと落ちていく。
「私は……」
「私といるのは嫌か?」
藍影は紅玉の頬に触れると、そっと顔を持ち上げて視線を合わせる。紅玉が首を横に振っても手は離さず、親指で目尻をなぞり、涙を拭う。
「……泣かせたいわけではないんだ」
「……藍影、様」
「すまない。今日はこれで下がるとしよう。ゆっくり休みなさい」
早口に告げると紅玉の頬から手を離す。紅玉はされるがままに身を委ねていたが、離れてしまうと名残惜しそうにその手を目で追い、最後は藍影を見つめる。
ここに来た当初なら視線を落として、絶対に藍影と目を合わせなかった。全てを拒絶し、身を守るように縮こまっていた紅玉が今では真っ直ぐに藍影と視線を交わしてくれる。
それだけで嫌われているわけではないというのは分かっていた。
紅玉の本心も理解している。生まれた時から否定され続けた紅玉は自分に存在価値がないと思い込んでいる。これ以上を望んではいけないと自制し、また誰に吹き込まれたのか自分が
藍影は微笑だけを返すと紅玉の部屋から出ていく。回廊の途中で足を止めると肩を落として顔を覆った。
「今日も駄目だった……」
誰が見ても落ち込んだ様子の藍影に遊びに来ていた春国の住人達が駆け寄って来る。一羽一羽、一匹一匹に丁寧に接する余裕はなくて「一人にしてくれ」とだけを言い残して、足早で自室へと向かった。
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