歪な愛

「あいつは俄然張り切って“ご成婚の暁には”——薔薇の花束を届けるとも言っていた。ちょうど今、予定通り花屋から帰って来た所だな。さっき窓から見たが、あいつはお前の好きな青い薔薇を買ったらしい。後で受け取れ」

「そんなの要らない」僕は頭を抱えた。

「好きにしろ。ところで、ハリーがお前に告白した時の台詞は、全部俺が考えたものだ」シャーロックはまたチェシャ猫になる。

「俺の気持ちと受け取ってくれても良いぜ」

「あっそう、反吐が出るよ。どうせ録音も君の指示だったんだろ」僕はやけくそで言った。

「マフィン君がそんなこと思い付くわけないもの。君のことだから、『録音されたものは聞いていないが、何を話していたかは知っている』とか言いそうだな」


 シャーロックは悪びれもせず「その通り」と頷いた。


「ハリーには盗聴機もつけていたからな」


 このクズが。思えば思うほどやり切れなくなる。ここ数週間の僕の苦しみは一体何だったんだろう。


「マフィン君の一挙一動に右往左往する僕は、君からしてみりゃさぞかし滑稽だったろうね」


 僕は彼を睨み付けた。


「全く、君というやつは。マフィン君というおとりを泳がせて、僕という獲物の方から馬鹿みたいに罠に嵌ってくれるのを、ずっとずっと待っていたんだな」


 それも、自分ではほぼ何もせずに。


「本当に、何てやつ……」


 シャーロックは肩を震わせて笑った。


「お前は優しすぎたんだ。秘密諜報員エージェントの癖に」


 ああ、最高に気分が悪い。酷い頭痛に襲われて、僕は椅子に寄りかかった。

 部屋に充満した煙草の煙は、窓が開いているのに出て行こうとしない。いや、出て行けないのかも知れない。この男の許可なくしては。畜生……僕は爪が食い込んで血が滲むほどに拳を握りしめた。


 騙されたとは言え、僕は約束を反故にするつもりはない。そんな二流三流の男じゃない——。けれど、これはあまりにも癪に障る。


「死んだ魚の目をして生きてやろうか」せめて心まではこの男のものになるまい。

「ああ、せいぜいあらがえ」シャーロックは口の端を吊り上げた。


「確かに俺たちには、互いに過去の問題がある。本気で殺し合いもしたからな。だがそれを差し引いても、俺は生涯を共にするならお前しかいないと思った。何故か? お前は俺を前にして、一歩も引かなかった。勝負はいつも互角だった。お前は俺の見る世界を見ることが出来る唯一の人間だ。この下宿での再会も運命のようなものだろう。MI6の仕事は続けても良いが、もう離れることは許さない。俺はお前の行くところは何処へでもついて行く。その逆もまた然り」

「なるほど、君は自分の楽しみのために僕を嵌めたのか。歪な愛だね」この色狂いの死神が。

「だが、そう悪い話ではないはずだ」シャーロックは勝ち誇ったような余裕の笑みで煙を吐いた。

「お前は孤独な悪魔だ。ごく普通の女との暮らし? それで狂気が満たされるか? 世間一般の幸福はお前を消耗させるだけだ」

「うるさい、決めつけるな」

「いや、あえて言う。お前は俺と共に生きる方がずっと良い——幸い、過去を塗り替える時間も策もたっぷりあるしな」


 睨むだけで人を殺せるのなら、僕はもうとっくにこの男を殺している。近付く者全てを石に変えた海の怪女メドゥサのように。

 けれどシャーロックはたじろぎもせず、僕の視線を真正面から受け止めた。彼は短くなった煙草を窓の外に投げ捨てると、いつの間にやら同じリングを嵌めたその指で、僕の頬を撫でながら淫靡に笑った。


「骨の髄まで嵌めてやるから覚悟しろ」

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