第三十九話
「何だ、これは」
「
声と共に、
「ひぽ……何だって?」
「鷲馬。
「鷲馬」
輿は呟き、異形の仔馬へ目を戻した。仔馬は前脚の爪で地面を掻き、ぷるぷると震わせながらも脚を伸ばし、立ち上がろうとした。震えていた脚が折れるように崩れ、仔馬の体が地面に倒れた。仔馬の前脚の爪が再び地面を掴んだ。仔馬を遠巻きに見ていた女たちの一人が、頑張れ、と拳を握りしめた。
また異形の仔馬の体が倒れた。諦めず、また立ち上がろうとする仔馬に、
異形の仔馬に怯える母馬に寄り添い、その首を抱いて落ち着かせようとしていた云が、烏珠留単于に気づいた。
「単于」
云は異形の仔馬の許へ走り、烏珠留単于と仔馬の間に割り込んだ。
「判断が早すぎます。この子は産まれたばかりで、まだ体も乾いていない。もう少し様子を――」
「その仔馬は不吉だ」
烏珠留単于の弓が、ぎ、と軋んで音を立てた。
「その仔馬は鷲馬だ。鷲馬は、鷲獅子と牝馬が交わることで生まれる。しかし、そんなことは本来、起こり得ない」
鷲獅子は獰猛な肉食獣で、馬を捕食することもある。捕食する側と捕食される側が交わることは、自然の摂理に反している。それゆえに、鷲馬は在り得ざる獣と呼ばれる。
「鷲馬の誕生は、起こり得ないことが起こる兆しだ。だから、鷲馬が生まれたら、すぐに殺さねばならない。特に、今は大事な戦いの前だ。悪い兆しは、排除せねばならない」
弦音が鳴り、烏珠留単于の弓から矢が放たれた。矢は云の頭上を抜け、周りで成り行きを見守る人々の間を抜け、後産を攫おうと潜んでいた狐の足許を射貫いた。狐は驚いて逃げ出した。烏珠留単于は次の矢を取り、再び弓を構えた。
「そこをどけ、云」
「どきません」
「その仔馬は殺すべきだ。母馬でさえ、そいつには近寄ろうとしない」
「この子は、わたしと同じです。母馬が育てないのなら、わたしが育てます」
云の体の後ろで、また異形の仔馬が倒れた。最後の力を振り絞るように、仔馬は地面に爪を立てた。飛ぶには小さすぎる仔馬の翼が、ぱたぱたと上下に動いた。
馬が地を馳せる音が、烏珠留単于の背中に近づいた。於粟置支侯咸の三男、
「何?」
烏珠留単于は弦を引く手を緩めた。角を振り返り、本当か、と訊ねた。角は烏珠留単于に詳細を報告した。北で
「須卜当さまが、勝たれた」
云は呆然と呟いた。周囲の女たちが歓声を上げた。数人が馬を下りて云へ駆け寄り、あんたの男の大手柄だ、と押し倒さんばかりの勢いで左右から抱きついた。その衝撃が云を我に返らせた。痛い、離れろ、暑苦しい、と目の端に涙を浮かべて笑いながら、云は女たちを振り解こうとした。
云の両目が、不意に大きく見開かれた。
「立った」
湖面のように潤んだ云の瞳が、異形の仔馬の輪郭を映し出した。鋭い爪を具えた前脚で地を掴み、硬い蹄を具えた後脚で地を踏みしめ、仔馬が大地に立っていた。立った、と輿が声を漏らした。立った、と仔馬を囲む人馬の輪が騒めいた。仔馬が一歩、右の前脚を前に進めた。仔馬が進む先には、仔馬を産んだ母馬がいた。仔馬が一歩、前へ進むと、母馬は一歩、後退した。仔馬が更に一歩、前へ進むと、母馬は更に一歩、二歩と後退した。ぴい、と仔馬は母馬へ鳴いた。また数歩、母馬は異形の仔馬から離れた。ぴい、ぴい、と擦り切れそうな声で仔馬は鳴いた。
仔馬の首を、云の腕が抱いた。
「わたしが――」
仔馬の小さな翼に、云の黒髪が触れた。
「わたしが、母だ」
違う、と叫ぶように仔馬は鳴いた。云を振り払おうと身を捩り、前脚の爪で地面を掻きながら、ぴい、ぴい、と助けを求めるように母馬へ鳴いた。母馬は仔馬に近寄らず、一方で云を心配してか離れもせず、その場で数度、足踏みした。
「云」
云の後ろで、再び弓弦が引かれた。
「鷲馬から離れろ。それは、生まれてきてはいけないものだ」
弦を引く右手を、烏珠留単于は目の近くまで引いた。異形の仔馬と、仔馬の首を抱く云の背中を視界の中心に捉えた。云の背中に向けられている矢の鏃の先が、微かに震えた。
「云、そこを――」
「こいつだ」
輿が叫ぶ声を、烏珠留単于は背後に聞いた。
「こいつが――」
輿の声と共に、輿の黒馬が脚を前に進めた。
「――この仔馬が、須卜当を勝たせた」
烏珠留単于の横を過ぎ、異形の仔馬の近くまで、輿の黒馬は進んだ。
「こいつは、悪い兆しではない。勝利の兆しだ。右骨都侯が大勝利を収めたことが、その証拠だ。こいつは、自らの脚で立ち上がり、大地の上を歩いた。おれたちと共に生きる資格が有ることを、こいつは証明した。見ろ」
輿は右手で
「おれは、齢五つにならずして馬に乗り、十にならずして
輿の眼が、僅かに赤みを帯びた。
「――おれの掌から流れ出る、この血は、半分が漢人の血だ。匈奴人の猛き血ではなく、漢人の汚れた血だ。それでも、おれは匈奴の戦士か。漢人の血が流れていても、おれは匈奴の戦士なのか」
「匈奴の戦士だ」
於粟置支侯咸が馬を前へ進めた。
「
天に感謝を、と咸は声を張り上げて空を仰いだ。咸の三男、角が、天に感謝を、と空を仰いだ。異形の仔馬を遠巻きにしていた女たちの一人が、天に感謝を、と空を仰いだ。女たちと共に仔馬を見ていた匈奴の戦士たちの一人が、天に感謝を、と空を仰いだ。空を仰いで謝意を口にする者が、烏珠留単于の周りで相次いだ。咸は烏珠留単于の方へ馬首を巡らした。
「単于、この仔馬を殺してはなりません。この仔馬は、天からの授かりものです。
撐犂狐塗、とは、天の子、という意味の匈奴語で、単于が有する宗教的称号である。匈奴単于国の成立以前に存在していた古代連合王朝の王の称号、
「単于、いや、撐犂狐塗。この仔馬が我らと共に生きることを、お許しください」
撐犂狐塗、と女たちが声を上げた。撐犂狐塗、と男たちも声を上げた。
風が地を擦り、陽が西の地平に没した。星と月が空を巡り、夜が明けた。東の地平から射す光に半面を照らされながら、烏珠留単于は四千騎を率いて出発した。南へ馬を走らせながら、馬上で
前夜の記憶が、疾走する馬群のように輿の脳裏を過ぎた。軍議の後、不寝番をしていた云と少しだけ話した。帝国から単于国へ云が帰還してから、初めて二人だけで話した。相変わらず、云は輿を兄と呼び、その都度、輿は叔父と訂正した。母、
兄上、わたしは綺麗?
「おれは叔父だ。おまえは綺麗だ」
前夜、云に返した答えを、輿は呟いた。風が鳴り、砂塵が前を遮るように流れた。砂塵が流れ去り、黄旗を翻して進む新軍が南の地平に見えた。
「行くぞ」
後ろに続く百騎に言い、輿は馬の脚を速めた。新軍の方へ走りながら、百騎は輿を先頭に縦陣を組んだ。新軍が匈奴軍の接近に気づいた。太鼓が鳴り、盾を構えた歩兵が走り出てきた。盾が横一列に並び、その後ろに弓弩兵が整列した。盾の上に乗せるようにして弩が構えられた。輿は矢箙から矢を抜き、弓を構えた。新軍の真正面へ直進せず、弧を描くように進路を右へ曲げた。新軍の前を左から右へ横切るような形で、新軍の弓弩の射程内へ突入した。
太陽が中天に達した。烏珠留単于は目の上の汗を指で拭い、改めて地平線へ目を凝らした。新軍が輿に誘引され、匈奴軍の包囲の中に入り込む瞬間を、地に伏して待ち続けた。鷲が一羽、太陽を掠めて匈奴軍の上を通りすぎた。鷲の影が彼方へ消え、荒野の岩と岩の間を野兎が走り抜けた。喉に渇きを覚え、烏珠留単于は水筒へ手を伸ばした。獣の胃袋を加工して作られた水筒から、馬乳酒を一口だけ飲んだ。
地に落ちている影が東へ伸びた。荒野の岩と岩の間を
南の地平に土煙が見えた。
「来た」
烏珠留単于は呟いた。負けたふりをして北へ駆ける輿と数十騎を、数百騎の新軍騎兵が追いかけていた。数百騎の後ろには、数千人の歩兵と弓弩兵が駆け足で続いていた。弓弩兵の更に後ろには、軍糧を積んだ輜重の列が続いていた。
「来た」
烏珠留単于は立ち上がり、地に伏せていた愛馬を起こした。愛馬に跨り、角笛を口に当てた。息を吸い、空高く角笛を吹いた。離れた場所で地に伏せていた於粟置支侯咸が、烏珠留単于の角笛の音を聞いて跳ね起きた。馬を起こし、馬に乗り、角笛を口に当て、吹き鳴らした。咸の三男、角が同様に角笛を吹き鳴らした。他の戦士たちも角笛を吹き鳴らした。連なるように荒野の各所で角笛が吹き鳴らされ、倒されていた鷲獅子の軍旗が起こされた。我に続けと角笛を鳴らす烏珠留単于を先頭に、匈奴軍は地を轟かせて突撃を開始した。
新軍を指揮していた
「孫将軍」
「慌てるな。やつらが冒頓戦法で来ることは、想定の内だ」
冒頓戦法は、地平線の向こうに兵を隠して敵を包囲する。地平線までの距離は約十二里(約五キロメートル)であり、弓騎兵で構成された匈奴軍ならば千を数える間に走り抜けられる。冒頓戦法の術中に嵌まり込んだ者の多くは、不意に現れた匈奴軍に混乱し、包囲されていることに惑わされて匈奴軍の兵数を誤認し、僅かしか残されていない時間を右往左往して費やし、迎撃態勢を整える前に匈奴軍の突撃を受ける。
無論、孫建はそうではない。
「鉦を打て。兵を呼び戻せ」
時間を無為に費やすことなく、孫建は命じた。鉦が打たれ、三百を数える間に歩兵が呼び戻された。
「輜重から荷を降ろせ。空にした輜重は外へ動かせ。輜重を軍の周りに並べるのだ。輜重を並べて、矢と騎兵を防ぐ壁とせよ」
軍糧が輜重から降ろされた。角笛の音と馬蹄の轟きが三方から迫る中、兵士たちは空の輜重を押して移動させた。
「急げ。しかし、慌てるな。慌てず、急げ。慌てず、急げ」
新軍の前面に輜重が並べられた。輿と数十騎を追いかけていた騎兵が戻り、輜重と輜重の間を抜けて列の奥へ後退した。盾を構えた歩兵が輜重の間を埋めた。はあ、はあ、と肩で息をする歩兵の後ろに弓弩兵が整列した。ふう、ふう、と荒く息を吐きながら、弩の弦を引いて矢を装填した。新軍の将校の一人が輜重に跳び乗り、匈奴め、来るなら来い、返り討ちにしてやる、と吼えた。新軍の側面に輜重が並び、背面にも一つ、二つと並び始めた。
輜重の上の将校の百数十歩前を、輿と数十騎が右から左へ走り抜けた。
「新軍の後背に突撃し、やつらが守りを固めることを妨害する」
輿の手許で弦音が鳴り響いた。きらりと陽を弾いて矢が飛翔し、輜重の上の新軍の将校の肩を射貫いた。将校が輜重の上から転がり落ちた。肩を押さえて倒れながらも、将校は兵士たちに反撃を命じた。新軍の列から矢が放たれた。矢は風に阻まれ、輿に届くことなく地に落ちた。輿は矢箙へ手をやり、残り少ない矢を掴んだ。
「おれたちは、生きて戻れはしないだろう。だが、おれたちの死は匈奴の勝利に繋がる。おれたちの魂は、冒頓単于の許へ召される。匈奴に勝利を。そして、冒頓単于の許で、また会おう」
先頭を駆ける輿の言葉に、数十騎は喊声で応えた。未だ防備が整わない新軍の背面を目指し、馬を走らせた。背面を狙う輿らを遮るべく、新軍の弓騎兵が百騎、輜重の間から輿の正面へ走り出た。駆け抜けろ、と後ろに続く数十騎へ叫び、輿は前を塞ぐ新軍の弓騎兵を射た。新軍の弓騎兵は射返しながら輿と数十騎へ突撃した。一騎、二騎と新軍の弓騎兵が矢を浴びて倒れた。三騎、四騎と匈奴軍の弓騎兵も射倒された。双方の距離が急速に狭まり、地を揺るがして土煙が衝突した。輿を含む十数騎が駆け抜けることに成功した。新軍の弓騎兵が反転し、十数騎を追いかけた。十数騎は後方から矢を浴びた。
輿の肩の横を、頭の上を、ひゅん、ひゅん、と矢が過ぎた。どす、という衝撃を二度、輿は脚で感じた。振り返ると、味方の姿は一騎も見えず、敵ばかりが後ろに続いていた。矢が二本、黒馬の体に突き立ち、流れ出た血が黒馬の後脚を濡らしていた。
前夜の出来事を、また輿は思い出した。母の故郷を訪ねたことを云に聞かされた。母が胡琴で弾いていた曲が、母の故郷の歌であることを教えられた。狼が出たという声が聞こえた。声の許へ馬を走らせる云から、綺麗かと訊かれた。綺麗だと輿は答えた。云は微笑し、大きく手を振りながら輿へ叫んだ。
兄上も、とても綺麗だよ。
「おれは――」
矢が風を切る音が、輿の耳の横を通りすぎた。輿は顔を前へ向けた。まだ輜重が並べられていない場所が見えた。そこへ突撃するために黒馬を急転回させた。矢箙から矢を抜き取り、弓を構えた。輜重を押していた新軍の兵士たちが、突進してくる輿に気づいた。もう匈奴が来たと叫び、恐れ慄いて逃げ散ろうとした。弓弩兵が一人、逃げようとした兵士たちの横を抜けて前へ駆け出た。輿の進路上に立ち、矢が装填された弩を構えた。弓弩兵の指が、弩の引き金を引いた。
がつん、と弩の部品が動き、弩から矢が放たれた。矢は風を裂いて輿の眉間へ飛んだ。輿の弓から矢が放たれた。矢は弩から放たれた矢に当たり、諸共に弾け飛んだ。
次の矢を、輿は矢箙から引き抜いた。弦音が鳴り、輿の弓から弓弩兵へ矢が飛んだ。弦音が鳴る直前、歩兵が一人、盾を構えて前へ走り出た。弓弩兵の前へ跳躍し、輿の弓から放たれた矢を盾で受けた。ずさ、と左肩で土を擦りながら歩兵の体が地面に落ちた。弓弩兵の手が弩を投げ捨て、歩兵の右手の矛を掴んだ。歩兵の手から矛を捥ぎ取り、歩兵の体を跳び越えた。矛を前へ突き出し、喊声を上げて輿へ突進した。
輿は矢箙へ手を伸ばした。連絡用の鏑矢が一本だけ、矢箙の内に残されていた。鏑矢を掴み、弓を構えた。弓弩兵との距離は、既に十数歩まで近づいていた。輿は鏑矢を放とうとした。
次の瞬間、弓弩兵が体を低くし、足から前へ滑り込んだ。
輿の弓から鏑矢が放たれた。鏑矢は音高く鳴りながら、弓弩兵の頭の僅かに上を通りすぎた。弓弩兵は前へ滑り込みながら、矛の石突を地面に押し当て、矛の穂先を黒馬の方へ跳ね上げた。
傷つきながらも疾走していた黒馬の胸に、矛の刃が深く突き刺さり、心臓を貫いた。
黒馬の重さで矛の柄が折れた。弓弩兵は横に転がり、倒れる黒馬に押し潰されることを避けた。黒馬が転倒し、輿は地面に投げ出された。先程の歩兵が喊声を上げて輿に突進した。佩剣を抜き、倒れている輿へ突き下ろした。輿は径路刀を抜き、突き下ろされた剣を横に弾いて地を突かせた。足を振り上げ、歩兵を蹴り倒した。起き上がろうとした歩兵に組みつき、組み敷いた。歩兵の顎の下へ、径路刀を突き入れようとした。歩兵は輿の手を掴み、径路刀を押し返そうとした。径路刀の刃が小刻みに震えながら、少しずつ歩兵の喉へ近づいた。径路刀の尖端が皮膚に触れた時、輿の横顔に弓弩兵の拳が叩き込まれた。輿は歩兵の上から転げ落ちた。弓弩兵は腰の直刀を抜き、倒れている輿へ振り上げた。
「待て」
直刀を制止する声が、辺りに響いた。
「その男を殺すな」
馬蹄の響きが輿と弓弩兵に近づいた。立国将軍孫建の補佐官、竇融が馬を走らせながら弓弩兵に叫んだ。
「その男は、王昭君の子だ。殺してはならない」
直後、烏珠留単于に率いられた匈奴軍が、一里(約四百メートル)の距離まで新軍に迫った。
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