⑤ slip

職場につくと非常階段でオフィスまで上がった。

しばらくエレベーターは使いたくない。


重い足取りで階段をぐるぐる登る。

夢の恐怖に現実が侵されていく。

覚めない夢の螺旋に飲み込まれていく。



幸か不幸か息をつく間もない1日だった。

気を失う暇も居眠りする余裕もない。

上司に恫喝されることもなかった。


目まぐるしくも平和に1日が終わるかと思われた。

「おい吉岡ぁ」


「はいっ」


「お前明日出勤しろ」


「え、明日土曜ですよ」


「知ってるよ、だからわざわざ言ってんだよ」


「午後から、緊急で役員会議入ったから部屋のセッティングと片付けしろ。空いた時間はこれデータに起こしといてくれ。細かいことはメール見ろ」


そういうと上司は何かの資料の束をデスクにドンと置く。


「他に出勤できるやつ居ねえから、頼んだぞ」


唖然としていると上司はそのまま退社していった。


なんとか残業を終えると。オフィスにはもう誰もいない。

受け取った資料の束を睨む。

乱暴にデスクの引き出しにぶちこみ職場を後にした。


しょうもない仕事で休日が潰れた事実。

前も同じことがあった。

もう憤りも感じない、ただ体の力が抜けていく。


壁に寄りかかり虚な目で電車を待つ。

やがて電車が来る。この時間では信じられない程満員だ。

背中でドア際の乗客を押し込みなんとか乗車する。

戸袋から顔を出したドアが、右腕をこすりながら閉まる。


ドアに押し付けられ、窓ガラスが吐息で曇る。

最低の週末に最悪の気分。しばらくこちらのドアは開かない。

次の駅でも人は減らない。圧力と湿気で意識が遠のきそうになる。


乗車から2つ目の駅に停車した。

慣性で人波が揺れる。

中々背後のドアが開く気配がない。


ガタッ


押し付けられたドアが動く気配を見せる。

そんな訳がない、こっちは壁だぞ。

咄嗟に右手でドア際の手すりを強く握った。


ピンポーン、ピンポーン

警告音と共に目の前のドアがガァッと開く。


「うわぁっ!」


体が押し出され線路側の壁が目の前だ。

落ちてたまるかと必死で踏ん張る。


左側の乗客はそのまま外に押し出される。

若い女だ。勢いで体はこちらを向き、空中で目が合う。

目を見開いているが口は一文字に結ばれたままだ。


なんとか軽い怪我で済むだろうか、女を見つめる。

すると女の体は賽銭のように車体と線路の隙間に吸い込まれて行った。


「えっ、」


呆気に取られていると。

左側からそのままもう3人押し出される。

中年の女、ホスト風の男、男子学生。


先程の女と同じく不自然なほど滑らかに車体の下に吸い込まれていった。

隣のドアからも、その先のドアからも何人か乗客が落ちていくのが見えた。皆音もなく車体の下に吸い込まれていく。助けを求める悲鳴も聞こえてこない。 


なんとか自分の体を電車のなかに戻す。

騒ぐ声はなく、背後からはほんのざわめきが聞こえるだけ。

こんな時はどうしたらいいのか、咄嗟に頭が働かない。

分からない。呼吸を忘れる。

重大な事故であることは間違いない。

すぐに騒ぎになって、逆側のドアが開き電車から脱出できる。


プルルルルルルルルルルルルルルルルルルルッ


思いと裏腹に電車は発車の警告音を鳴らす。


「は?、マジかよ」

振り返り逆側のドアを確認しようとする。


「おいっ、ダメだって。人が落ちたんだよ!」


警告音が鳴り止む。

身の毛がよだつ、パニック状態で叫び続ける。


「おいっ!ふざけんなっ!人が落ちたんだよ! おいっ!」


必死の主張も虚しく電車が動き出す。


むごたらしい音が聞こえたかに思えた時、

ゆっくりと目が開く。


走る電車が揺れる。

空席がある程度には空いている車内。自分も座っていた。

周囲を見渡す、誰もこっちを見ていない。

今度は声をあげてはいなかったようだ。

奇妙な安堵感。額の冷や汗を手の甲で拭う。


「ほんっと夢見悪い」


夢でよかったと大きく息を吐く。

電車が駅に停車する。

座席から背中にドアが開く振動が伝わる。


向かいの窓、煤けたコンクリートの壁を見つめていた。


ドンッ


天井から鈍い音がする。


「なんだ?」


ドンッドンッ


鈍く大きな音が続く


キュウウウ、ウ、ウ、ウと何かが滑る音。

目の前の窓の外、若い女が上から下に消えていった。

衝撃と恐怖で声も出ない。

見開かれた目と目があったような気がする。


ドンッ、ドンドンッ、ドン、

鈍い音が続く


中年の女、ホスト風の男、男子学生と次々窓の外を滑り落ちていくと、それに続くように次々人が滑り落ちていく。抵抗する様子もなく。


やがて向かいの窓一面が滑り落ちる人でいっぱいになる。


ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッドンドンッ

キュルルルルルウウ、ウウ、ウ


ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッドンドンッ

キュルルルルルウウ、ウウ、ウ


あまりの恐怖に意識が遠のく。眼球が裏返ったように意識は暗闇に落ちていく。



目が覚める。

走る電車が揺れる。

空席がある程度には空いている車内。自分も座っていた。

周囲を見渡す、誰もこっちを見ていない。


焦燥感。額の冷や汗を手の甲で拭う。


呼吸が乱れる。

電車が駅に停車する。

座席から背中にドアが開く振動が伝わる。

向かいの窓は煤けたコンクリートの壁。


ドンッ

大きく鈍い音がする。


踵を返すように立ち上がり出口からホームに飛び出す。

ホームに膝と手をついたまま、息が切れる。鼻と顎からポタポタと汗が流れる。


ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッドンドンッ

キュルルルルルウウ、ウウ、ウ


ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッドンドンッ

キュルルルルルウウ、ウウ、ウ


背後から不気味な音が続く。振り向く勇気はとてもない。


プルルルルルルルルルルルルルルルルルルルッ


発車の警告音、電車が動き出す気配。

耳を塞ぐ、何も聞きたくなかった。

「ああああああああああああああああああっ」

自分の声で何もかもかき消すように叫んだ。


訪れる静寂。顔をあげ、恐る恐る振り返る。


何もない。黒く煤けた線路側のコンクリートの壁。立ち上がり線路を覗き込む。

何もないただの線路。


黄ばんだ蛍光灯が不規則に点滅する。

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