6 今回の聖女を、お前はどう見る?


 私室の隣にある執務室で、今年の冬のため備蓄量に関する各村からの報告書に目を通していたヴェルフレムはノックの音に手を止めた。


「お茶をお持ちいたしました」


 銀の盆にティーセットを載せてやってきたジェキンスが、香りのよいハーブティーをそそいだカップを恭しく執務机に置く。


 魔霊であるヴェルフレムは、睡眠も食事も必要としないが、味や香りを楽しむことはできる。すっきりと爽やかな香りのハーブティーは執務の合間の気分転換にちょうどよい。


「いかがでございますか。今年の備蓄は。他領から仕入れなければならぬものはあるでしょうか?」


 カップを傾け、香りを楽しんでいると、机の上の報告書に目をとめたジェキンスが尋ねてくる。


「最終的な判断は、麦の刈り入れが終わってからになるが、聖都へ貢納する量を差し引いても、小麦も他の作物も十分だろう。だが、塩は仕入れておかねばならんな。塩漬け肉を作るには、少々心もとない」


「かしこまりました。手配しておきます」


 ジェキンスが頷く。海に面していないラルスレード領では、さすがに塩は採れない。


 三百年前、この地方は氷の魔霊・レシェルレーナが支配する雪と氷に閉ざされた僻地へきちだった。


 ほんのいくつかの寒村しかなかったこの地が、辺境領としての体裁をなすことができたのは、聖アレナシスによってヴェルフレムがこの地にほうぜられ、レシェルレーナの版図を奪って以降のことだ。


「ヴェルフレム様。ロナル村の村長より報告が届いております。今年はロナル村が氷狐ひょうこによる雪害の標的となっているようです」


 ジェキンスが盆の上に置いていた封書を差し出す。ヴェルフレムはカップを皿に戻すと、素早く手紙に目を走らせた。


 手紙には丹精込めて育ててきた作物が、このままでは雪に埋もれてしまいます。どうかヴェルフレム様の御力でレシェルレーナの脅威をお払いください、と助力を請う言葉が切々と綴られていた。


 冬の寒さが厳しいラルスレード領では、秋に種をいて春に収穫を行う冬小麦を育てることはできない。そのため、春に種を蒔き、秋に収穫を行う春小麦が育てられている。


 収穫期のいまはこれからやって来る長い冬への支度もせねばならぬため、農民達も忙しい時期だ。


「レシェルレーナめ。よりによって、まだ刈り入れ前の村を狙うとは」


 毎年のように、本格的に冬が始まる前にラルスレード領の北辺のどこかの村が、レシェルレーナが放つに氷狐よって、雪や氷の被害に見舞われる。


 支配地域を奪ったものの、レシェルレーナ自身を駆逐くちくしたわけではない。ヴェルフレムの力をもってすれば、レシェルレーナを倒すことも不可能ではないかもしれないが、ヴェルフレム自身も無傷では済まないだろう。何より、強力な魔霊が消えれば、自然の調和が乱れる可能性もある。


 だが、この地で領主を務めて約三百年。人でない魔霊といえど、郷土愛を抱くには十分すぎる年月だ。


 加えて、レシェルレーナの好きにさせるなど、ヴェルフレムの矜持きょうじが許さない。


『いーじゃん、ヴェルには時間が有り余ってるんだからさ~。ヴェルになら安心して任せられるよ♪』


 不意に、懐かしい声が脳裏によみがえり、ヴェルフレムはカップを傾ける手を止めた。ハーブティーが心の中を映したようにかすかに揺らめく。


 薄く入れたハーブティーみたいな淡い茶色の髪。希望と夢と悪戯心を詰め込んた木の実みたいな同じ色の瞳。


「どうかなさいましたか?」


「いや、何でもない。そうだな、ロナル村には今日の午後にでも向かおう」


「では、馬車の用意をしておきます」


 ジェキンスの声に、ヴェルフレムはかぶりを振って胸の中に湧き上がりかけた感情を追い払う。


 幸いロナル村は馬車で三時間ほどの比較的近い村だ。帰ってくるのは遅くなるが、今日中に往復できるだろう。


「ところで……」


 お茶を供した後、てきぱきと書類の整理を始めたジェキンスに、ヴェルフレムはちらりと視線を向ける。


「今回の聖女を、お前はどう見る?」


「レニシャ様ですか?」


 そういえば、ジェキンスはすでに名前で呼んでいるのだな、とふと気づく。前回の『聖婚』の聖女のことは、かたくなに「聖女様」と呼んでいた気がするのだが。


 と、ジェキンスの口元がふっとほころぶ。


「わたくしは前回と前々回の聖女様しか存じあげませんが……。いままでに来られたことのない性格の御方でいらっしゃいますね」


 くすくすと笑うジェキンスの脳裏では、レニシャのどの言動が思い出されているのやら。昨夜、到着したばかりだというのに、心当たりがありすぎる。


 確かに、三百年の間、『聖婚』を繰り返しているヴェルフレムですら、レニシャのような聖女は初めてだ。


 歴代の聖女と言えば、初期の頃はともかく、ラルスレード領が豊かになってからの『聖婚』の相手は、聖女とは名ばかりの欲得にまみれた者か、もしくは魔霊であるヴェルフレムのことを蛇蝎だかつの如く忌み嫌う者ばかりで……。


 心を通わせてもよいと思える者は、片手の数ほどしかいなかった。


 裏庭に温室を造った聖女は、そんな数少ない者のひとりだった。植物好きで気のおけない茶飲み友達だった百年前の聖女のことを懐かしく思う。


 同時に、もっとちゃんと温室を手入れしておけばよかったという後悔も。彼女が高齢で亡くなってからしばらくは庭師に手入れをさせていたのだが……。ここ十年ほどはすっかり忘れてしまっていた。


「あいつはまだ温室で作業をしているのか?」


「はい。そのようでございます。庭師に作業を手伝うよう、申しつけておりますが……。そろそろお昼どきですから、昼食にお呼びしなくては」


「神官とは会わせぬように気をつけろよ?」


「もちろんでございます」

 顔をしかめて告げたヴェルフレムに、ジェキンスが即座に頷く。


 神官のほうは、これまで何十人も来た神官と同じ、魔霊をさげすみ、光神ルキレウスの威を借る狐だ。己自身では何もしないくせに、『聖婚』の役目をすべて聖女ひとりに押しつけ――。


 昨夜のくちづけを苦く思い返す。


 居丈高いたけだかな神官の言と、盲目的に従おうとするレニシャの態度に腹が立ち、唇を奪い、部屋に連れ込んでやれば、神官も引き下がるを得ないだろうと考えていた。


 聖女も自分がどれほど愚かなことを口にしたのか、その身をもって知るだろう、と。だが。


 いくら神殿で純粋培養で育てられたとはいえ、あそこまで純真無垢だとは、想像の埒外らちがいだった。「このまま寝るなんてできませんっ!」とあおってくるかと思いきや、まさかドレスがしわになるから着替えたい、だったとは。


 神官が昨夜の顛末てんまつを知れば、「だましたな!」と激昂するだろう。ヴェルフレムが絡まれるのは別によいが、あの純真な聖女が望まぬことをいられるのは気の毒だ。


 そもそも……。


 『聖婚』の真実を知る者は、いまはもう、ヴェルフレムを除けば誰ひとりとしていないのだから。


「ジェキンス。聖女の部屋の支度は整ったのか?」


「はい。午前中にモリーが。昼食もそちらに用意しております」


「そうか。では、聖女は俺が呼んでこよう」


 告げてから、自分の言葉に驚く。神官の目さえ誤魔化ごまかしたあとは、必要最低限の接触にするはずだったというのに。


 だが、言をくつがえすより早く、ジェキンスが笑顔で「ではお願いいたします」と礼を言ってしまう。


 仕方なく、ハーブティーを飲み干しヴェルフレムは席を立った。


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