アウグストゥスの巫女 ―再訪―

星 霄華

序章

第0話・序

「……?」

 崖の先にある、古代から変わらず町と人々を見守り続けてきた建物から出てきた少女の白い髪とつば付き帽子を、爽やかな風が揺らした。

 そこに誰かの微笑を感じた少女が空を振り仰いでみれば、風をまとった淡い姿のものたちが楽しそうにしながら駆けていた。彼らの笑い声も身体をくねらせる仕草を生み、潮を含んで空を吹き渡る。

「……」

 少女は気になって、そちらへ足を向けた。

 少女がついてきていることに気づいたのか、風――――風を吹かせるものたちの一体は振り返ると、おいでよとでも言うかのように少女に笑いかけてきた。他のものたちもまた、ちらりと同胞と少女に目を向け、仕方ない子だというふうに苦笑する。

 世界を巡る大自然の力の欠片と言っていい、普通の生命とも神とも異なる存在――精霊。彼らはその中で、風に属する類のものたちなのだろう。建物群に出入りする大勢の人間たちの声に惹かれて、様子を見にきたのかもしれない。

 少女は足を止め、困り顔で彼らが向かおうとする先を見た。

 誘ってもらえるのは嬉しい。しかし風の精霊たちが少女を誘ったのは、敷地の中で一番大きな建物の道の向こうだ。誰もいない検問所らしき建物とのあいだには魔法道具の縄が張り巡らせてあり、関係者以外の侵入を拒んでいる。触れた途端に痛い思いをして、警備員に見つかってしまうのがおちだ。そんなところへ、真面目で大人しい少女が踏みこめるはずもない。

 そう、残念に思いながら少女が風の精霊に断ろうとした矢先だった。

「……?」

 袖を引っ張られたので振り返ってみると、半透明の身の小人が彼女を見上げていた。目は猫の目のような縦に割けた赤い宝石、身体は水晶。まとう気配から、大地に由来する精霊だと知れる。それも、かなり強い。見た目は可愛らしくても、この辺りの有力者なのかもしれない。

 土の精霊は、少女の服の袖を掴んだまま、縄の向こうを指差して首を傾げた。

<行きたい?>

 土の精霊はそう、少女に問いかけてくる。しかし、その声は少女の耳の鼓膜を震わせたものではなく、脳裏に刻みつけられたもの。意志だけが少女のもとに届く。大抵の精霊は人に感情を伝えるだけだが、力ある精霊は人に語りかけることができるのだ。

 少女は赤い目を瞬かせた。

「ええまあ、行きたいですけど、でも人間は行っちゃいけない……って、あの?」

 土の精霊に説明していた少女は、突然袖を引っ張られて慌てた。

 が、土の精霊はまったく聞いてくれない。何しろ精霊なのである。人の道理など、彼らには塵も同然だ。

<ちょうど、いい。尊いもの、いる>

「尊いもの……? ルディラティオでも聞いたことがありますけど、それは誰ですか?」

<わからない。でも尊い>

「……」

 要領を得ない答えである。

 ‘尊いもの’というのは、今までにも精霊たちから何度か聞いたことがある。ここ最近になって姿を見せるようになったという、とても尊い存在。しかし少女が日頃会う精霊は実際に会ったことがないので、どのような存在なのかよく知らないのだと言っていた。

 少女は答えを諦めた。精霊は人間と違って、嘘を言わないのだ。それに価値観も違う。本当に素性を知らないし、尊いものだと納得してそれ以上の意味を考えていないのだろう。

 それにしても、‘尊いもの’なんて。あまりにもこの建物に似合った形容に、少女はなんだかおかしくなった。

 しかし、そんなふうに思っていられたのは少しだけだった。崖の縁まで引っ張られ、少女は絶句することになる。

 何故なら、土の精霊は腕を振るうや崖に水晶を次々と生み出し、魔法の縄と人目を避ける形の通路を造ったからだ。そればかりか、ここを渡れば行けるよ、と言いたいのか自慢そうに小さな胸を張る。

「ちょっ、ちょっと、駄目ですよ。職員じゃない人間があっちへ勝手に行っては、怒られます……!」

 唖然としていた少女ははっと我に返り、慌てた。これはまずい。見つかったら絶対に怒られる。

 だが精霊は少女の焦りを無視し、また彼女を引っ張るのだ。水晶の通路の下は岩が浮かぶ波打ち際で手すりもないから、下手に暴れることもできない。透き通る床下に見える崖や真っ白な岩の数々を見ただけで、彼女は抵抗する意思を失った。

 青くなっているあいだに少女は通路を抜け、立ち入ってはならない場所へ足を踏み入れることになってしまった。幸か不幸か、精霊に手を引かれる子供に気づく者は誰もおらず、制止の声もない。やってはいけないことをやってしまった少女は、思考停止状態だ。

 そうしているうちに、風の精霊たちが誘ってくれた場所が見えてきた。

 青空や紺碧の海を背景に、列柱や彫像、花壇に植えられた色とりどりの花々に飾られたそこでは、様々な姿や形をし、大自然の要素をまとったものたちが好き勝手に遊んでいた。あるものは踊り、あるものはひびが入った彫像の上で飛び跳ね、またあるものは中空に腰かけて同胞たちを見下ろしている。

 人間の手によって建てられ、今も人間が活用している建物の片隅だというのに、そこに人間が立ち入る余地はまったくなかった。完璧なる人外の世界と言っていい。少女は、まるで絵物語の世界に紛れこんでしまったような錯覚さえした。

<皆。珍しいの、連れてきた>

 土の精霊がそう、仲間たちに呼びかけた。異質な来訪者に気づいた精霊たちは、興味津々といった表情で少女のほうを見る。

 少女はその中の、柱に背もたれて腰を下ろし、人ならざるものの宴を楽しそうに見ていた青年に目を奪われた。

 彼だけが人間、それもとび抜けた容姿をしていたからだけではない。見たことがあるからだ。そう、ついさっき、見たばかりだ。

 何故彼がここにいるのか。こうして、生きているとしか思えない姿で。精霊とも魔法使いともつかない、不思議な気配をまとって。

 少女が呆然と彼を見つめている一方。青年もまた、目を大きく見開き、少女と同じか以上の驚愕で顔色を染めていた。

 やがて青年は、足早に少女のもとへ歩いてきた。半ば思考停止している少女はそれを、ただ見ているしかできなかった。

「……君、僕のことが見えるの?」

「え? は、はい」

 見惚れていた彼女は、こくこくと何度も頷いた。この人を見失うなんて絶対に無理だ。どんな人ごみの中でも、容易く見つけだせるに違いない。

「……君は人間なの?」

「はい、私は人間です。……でも、どうして貴方は生きてるんですか?」

 当たり前のことを尋ねられ、即答した少女はそう問い返した。

 何故なら、この青年は死んでいるはずなのだ。だから少女は先ほど、彼の彫像を見ることができたのである。なのに、どうしてこの人はこんなにも生き生きとしているのだろうか。

「…………さあ、どうしてだろうね」

「……」

 淡く、儚く。今にも消えそうな微笑みを浮かべて、青年は少女の問いに答えた。疲れているような、残念に思っているような。あるいは、そこにあったのは諦観だったのかもしれない。

 聞いてはいけないことを聞いてしまったのだと理解し、少女は後悔した。

「……ごめんなさい」

「ううん、謝らなくていいよ。僕がここにいるのを不思議に思うのは、当然のことだから」

 そう緩く首を振ると、彼はどこか無理をしたふうに笑んだ。

「この博物館へ来たのなら知っているかもしれないけど、僕はティベリウス。ねえ、君。名前は?」

「……アルビナータ・クレメンティ」

 耳に心地よい声に尋ねられるまま、彼女――アルビナータは小さな声で名乗った。

 いつもなら答えず逃げだすところだがそうしなかったのは、彼――ティベリウスが、そしてこの場があまりにも非現実的で、思考がよく働かなかったからだ。ただ、まさか生きたこの人に会えるなんて、としか思えない。夢の中にいるような心地だった。

 ティベリウスは少し目を丸くしてクレメンティ、と姓を舌で転がすと、柔らかに、どこか泣きだしそうな目で笑みを深めた。

「すごい偶然だね。君が来たほうに建つ像は、クレメンティアっていう女神を象っているんだ。慈悲と寛容を司る女神なんだよ。僕の家の、守護女神でもあるんだ」

 と、ティベリウスはアルビナータの背後を指さす。つられてアルビナータは振り返り、苛烈な日差しを浴びる朽ちた女神像を見つめた。

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