反転と回転の倫理

彼方灯火

第1話 異

 布団の中で目を覚ますと、午前六時二十分だった。


 彼女にしては、いつもより幾分早い目覚めだった。夜遅くに眠って、朝遅くに起きるというのが彼女の生活習慣になりつつあったから、そのルールに抵触する行為といって良い。別に、日々の繰り返しの中で勝手に決まるルールに少し抵触したくらいで、どうということもない。明日になればまたもとに戻る可能性が高い、と彼女は考えた。


 伸びをして、欠伸をする。


 順番を間違えたかと思ったが、やってしまったあとだから、もう仕方がなかった。


 いつもの癖で、誰もいないのに、おはよう、と彼女は一人で挨拶をする。自分の口から放たれた声は、当然自分の耳にも入る。だから、自分に向かって挨拶をしたと解釈できる。けれど、声に出さなくても、自分で自分におはようと言うことはできる。この、内面世界において自分に語りかけることができるということは、実のところ、自己という存在を肯定する最良な根拠になる。


 などということを、起きたばかりの頭で考える。もっとも、彼女の頭はいつも何かしらのことを考えている。それは誰の頭でも同じことかもしれないが、彼女の頭は特にその傾向が強い。布団に入ってもなかなか寝つけないのは、ぐるぐるといつまでも考え込んでしまうからだ。ちなみに、昨日の夜は、トイレットペーパーに刻まれた模様の通りに竹輪を切ったら、どのような状態になるのかといった、難度の高い問題と格闘していた。特に何の結論も出ない内に眠ってしまったが。


「あああ、今日も、一日が始まってしまった」彼女は布団の外へ出ると、独り言を呟きながら身支度を始めた。「始まりとは何で、終わりとは何だろうか」


 寝間着からワンピースへと着替え、視力が悪いから眼鏡をかける。そのまま洗濯物を持って階下へと向かった。洗面所に入り、たった今かけたばかりの眼鏡を外して顔を洗う。うがいは二回。歯はご飯を食べてから磨けば良いので、今はまだ磨かない。それでは口の中の雑菌を飲み込むことになるという指摘を受けるかもしれないが、彼女は自分自身が雑菌のようなものではないか、と考えている。きっと、スケールを宇宙全体に据えればそのように見えるだろう。


「急がないと、急がないと」


 特別急ぐ必要もないのに、朝といえば急ぐイメージだから、そんな呪文を唱えながらリビングに向かう。


 リビングは真っ暗だ。シャッターを持ち上げて、室内に陽光を取り込む。それで一度に明るくなる。太陽の強烈な光が、眼鏡の奥の目を焼いた。じじじという音が聞こえた気がする。けれど、今は秋で、別に太陽が特別勢力を増しているというわけでもない。彼女が魚のように直射日光に弱いだけだ。


「いたたたた……」


 別にそれほど痛くもないのに、彼女は一人でそんなジェスチャーをする。


 この家には、彼女のほかに誰も住んでいない。ときどき、リスとか、ヤマアラシとか、タヌキとか、ネコとかが、我が物顔で家の中に入ってくることがあるが、彼らは家族でも何でもない。だからといってまったくの他人かといえば、そういうわけでもなかった。事実として、彼女は彼らの内の何匹かとは知り合いだ。向こうがどういうふうに思っているのかは分からないが、少なくとも彼女はそのように認識していた。ちなみに、認識していた、というのは、今、まさに、認識するという行為の真っ最中だ、ということを意味しない。彼女がそのことに気づいたのは、中学校で英語の勉強を始めてすぐのこと。そうして、それを機に英語の勉強はやめてしまった。それ以上学ばなくても、行き着く先が見えてしまったからだ。


 キッチンに入って、トーストを焼く。冷蔵庫から取り出した牛乳をカップに注ぎ、そのまま一口飲む。


 牛乳の味がした。


 ふと思いつき、フライパンを火にかけて、暫くしてからその表面に牛乳を零してみる。すると、じゅじゅじゅという音とともに牛乳は瞬く間に蒸発し、液体ではない何かがそこに残った。


「なるほど。これは単なる水分ではない、ということだな」


 そう言って、彼女は一人で納得する。


 何事も、試してみなければ分からない、と彼女は考えている。


 しかし、一つだけ、どうしても試せないことがある。


 それは、死ぬこと。


 どうにかして一度以上死ぬことができないだろうかという問題は、彼女が昔から心に抱いているものだった。それが解決されれば、色々なことが分かるようになるだろう、という予感があるのだ。でも、今のところ、それが解決される目処は立っていない。


 その場で朝食を食べて、予告通り歯磨きをした。誰に予告したわけでもないが、自分で自分にした予告に従った、という感覚が彼女の中にある。


 朝食が終われば、次は玄関先の道路の掃除をする。彼女は箒と塵取りを持って、玄関の外に出る。


 一歩。


 そこで、彼女の足は止まる。


 見慣れた景色が、そこになかった。


 眼鏡の奥で、ぱちぱち、と瞬きを繰り返す。


「なんということでしょう……」


 思わず、声が零れた。


 玄関の先にあるはずの駐車場も、その先にあるはずの道路も、そのさらに先にあるはずの住宅も、今はない。


 暗い空。


 涼しい風。


 いつの間にか、玄関は別世界への入り口と化していたようだ。

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