第壱幕 大悪魔、降誕す-下-

◇未明/場所不明/阿ノ玖多羅皆無単騎少佐


 夢を見た。冷たく鋭い剣に心臓を貫かれ、死ぬ夢を。


「うわぁぁあああ!?」皆無は飛び起きようとして、「――わぷっ!?」


 何やらただならぬ柔らかさを持った物体に鼻先をぶつけ、仰向けに戻った。後頭部にも柔らかな感触。周囲は暗く、青々とした草木の臭いと、虫の声で満ちている。そして、


「あはァッ! すけな幼子よ、ようやく目を覚ましたか」上から声が降ってきた。あでやかな少女の声。忘れるはずもない、あの、両腕を持たない悪魔デビルの声である。


(膝枕されとるッ!?)つまり自分が頭突きしたのは、少女の豊満な――「うわわっ」

 皆無は転がるように起き上がり、いずるようにして少女の悪魔から距離を取る。


「【色不異空しきふいくう空不異色くうふいしき色即是空しきそくぜくう空即是色くうそくぜしき――虚空庫こくうこ】!」虚空へ手を突っ込むが、主力武器たる村田銃が見つからない。が、南部式自動拳銃が指に触れたので、それを引っ張り出し、構えた。同時に周囲をさっと見回す――何処どこぞの山中のようである。


「主人に銃を向けるなど、イケナイ使い魔じゃのぅ」少女が――両腕を持たない悪魔デビルが、悠然と立ち上がった。悪魔デビルまみれのドレスの上からでもなお分かる、その豊満な乳房を誇示するかのように胸を張ってみせる。まるで仁王立ちである――腕もないのに。

 少女の背丈は皆無よりも一回り大きい。一五五サンチほどだろうか。


「それより、よいのか幼子よ?」その少女がずんずんと近づいてきて、皆無の目の前に立つ。震える皆無が構える南部式が――その銃口が乳房に触れるが、恐れる様子など露ほども見せない。少女はいたぶるような笑みを浮かべ、「そなた今、素っ裸じゃぞ?」


「えッ!?」自身を見下ろし、ようやく気付いた。身に着けていたはずの軍衣が、ボロ雑巾のようになっている。特に軍袴ズボンふんどしなどはほとんど跡形もなく、「ひゃぁ!」


「あはァッ、何とも可愛かわいらしいイチモツじゃのぅ! 髪も長いし、まるでおなごじゃ」


「う、五月蠅うるさい五月蠅い五月蠅いッ!」悪魔デビルのあんまりな物言いに、皆無は恐怖も忘れて抗議する。南部式でもつて股間を隠し、左手で虚空から替えの衣類を引っ張り出す。


「声も、少女のようじゃな。時に『ウルサイ』とは何じゃ?」大慌ての皆無が服を着込むその隣では、それまで仏蘭西フランス語をしやべっていた悪魔デビルが、慣れない様子で日本語を口にする。それから急にヱーテルの反応が巻き起こり、「【偉大なる狩人かりうどよ・あまねく動物の言語を解する公爵馬羅鳩バルバトスよ・予にその知識の一環を開示し給れ――翻訳トラダクシヨン】! あぁ、五月の蠅はうるさい、か。何とも不敬な話じゃのぅ)」少女が喋った――流暢な日本語で!


(地脈から知識を吸った!? な、なんてよどみのない魔術! ……って、不敬?)


「蠅といえば、七大魔王セブンスサタン『暴食の鐘是不々ベルゼブブ』陛下であろう」その鐘是不々ベルゼブブは、大昔に新たなる暴食の魔王サタン毘比白ベヒヰモスによって王位をさんだつされたと聞く。少なくとも皆無は、士官学校でそのように学んだ。「そなたはもう、七大魔王セブンスサタンに連なるけんぞくとなったのじゃ。蠅を敬え」


(眷属?)眷属。使い魔。失った心臓。目の前にいる、現実離れした美貌を持つ少女からの、口付け。自身が悪魔デビルのソレに作り替えられる、おぞましい感覚。

「あ、あぁ……」


 思い出した。おぼろだった記憶が、己の死が現実のものとして目の前に立ち塞がる。

 人は悪魔に魂を売り渡すことで、超常の力を得ることができるという。まさに――つい先ほど、己があの鳥頭の大悪魔グランドデビルを瞬殺せしめたように!

 皆無は頭を抱える。(僕はコイツに魂を売り渡してしもぅたんか!? 僕がいつ同意した!?)


「ちゃんと合意の上じゃぞ?」こちらの思考を読んだかのような間の良さで、少女の悪魔デビルが嗤いかけてくる。「そなた、死を望まなかったであろう? 第二の心臓を望んだであろう? その願いを、かなえてやったのじゃ。そなたはもう、予のモノじゃ。そなたとは何故なぜだか抜群にヱーテルの相性が良い。死ぬまでこき使ってやるから、感謝せよ」


「お、鬼ぃッ! 悪魔ぁッ! 糞野郎メフイストフエレスッ!!」皆無が悪魔デビルの代名詞を叫ぶと、

「あはァッ!」少女が楽しそうに嗤った。「予がメフィストなら、そなたはファウストじゃな。幼き博士よ、そなたは命と引き換えに何を望む?」


「ぼ、僕の命を返せ!」


「それはできぬ相談じゃァ。そなたの命はもう、予が喰らい尽くしてしもぅた」


「く、喰らったって――…どういう意味や!?」


「ふむ。やって見せた方が早いか。幼子よ――ここへ」


 少女が命じた。途端、皆無は少女の前にひざまずき、首を垂れる。


「――――ッ!?」あまりの恐怖に、皆無は息もできない。体が、勝手に、動いたのだ!


「そなたの」両腕のない悪魔デビルが、その爪先で以て皆無の心臓をつつく。「その心臓は今、予が動かしてやっておる。故にそなたは予に仕え、誠心誠意働く必要がある。言ったであろう? 地獄への旅路に付き合ってもらう、と」


 何てことだ、何てことだ! まさか悪魔祓師ヱクソシストたる自分が、悪魔デビルの使い魔になるなんて!


「ぼ、僕はダンテやない!」


「アリギヱーリの『神曲』か。良かったのぅ、そなたのベアトリーチェが斯様かような美女で」


 ――美女。確かに、まごうことなき絶世の美少女であった。

 すらりと通った鼻筋、悪戯いたずら好きの子猫のような愛らしい口元、キリリと研ぎ澄まされた眉目。切り刻まれたドレスの隙間から見えるふとももは、肉感的でありながらもよく引き締まっている。白磁のように白い肌も、腰まであるウェーブがかった豊かな金髪ブロンドも今でこそ血で汚れているが、洗えばさぞ美しいに違いない。それら美しい部位の中でもひと際目を引くのが、二重まぶたの大きな目――その、燃えるように輝く、深紅の瞳である。

 状況を見るに、どうやら少女は追われているらしい。さらに少女には、両腕がない。そんな状況をして、この少女の目は、瞳は、絶望に染まるでもなく笑っているのである。己の意志力の弱さを自覚する皆無は、月光の下で輝くその瞳に吸い込まれそうになる。


(――アカン!)皆無は慌てて頭を振る。(コイツは、悪魔デビルや。悪魔デビルは、敵や!)


『悪魔』というと、先ほどの鳥頭や、魔女の夜会サバトに登場するような山羊頭などの異形を想像するものだが、少女は極めて人間――西洋人に近い容姿をしている。人間らしからぬ点といえば、血のように赤い二本の角と、ややとがった耳、そして鋭い八重歯。


「自己紹介としやみたいところじゃが――」その少女が、犬歯を剥き出しにしながら空を見上げる。「残念、来客じゃァ」


「――えッ!?」皆無も慌てて空を見た。と同時、

「ギャギャギャギャギャッ!」翼を持った石像の異形が降ってきた。


石像鬼ガーゴヰル――丁種悪魔デビル!)皆無は体を固くする。甲乙丙丁の最下位といえども、相手は悪魔デビル。単騎少佐たる自分が、相応の損害を覚悟して挑むべき相手である。(こんな山奥にまで! 【神戸港結界こうべこうけつかい】はどないしたんや!? ――いや、今はコイツに集中!)


 手元に村田銃がないのがこころもとないが、皆無は脳内詠唱の【ふくろう夜目よめ】で視界を確保し、

「【AMENアーメン】ッ!」洗練された所作で以て、石像鬼ガーゴヰルの頭部を正確に狙撃する。が、放たれた天使弾ヱンジエルバレツトは、敵悪魔デビルにかすり傷を負わせるにとどまる。(くそったれ! 村田さえあれば)


「あぁ、あの長銃かァ」また、皆無の思考を読んだかのような間の良さで、少女が言った。「【収納空間アヰテムボツクス】――回収しておいてやった。感謝するのじゃぞ」


 果たして虚空から愛銃――試製参拾伍さんじゆうご年式村田自動小銃改が立ち現われ、皆無の手元にすっぽりと収まる。皆無は南部式を捨てて村田銃を素早く構え、「【AMENアーメン】ッ!」


 光とともに村田銃から放たれた弾丸――能天使弾パワーズバレツトが、石像鬼ガーゴヰルの頭部にひびを入れる。が、それでもなお、粉砕させるにはほど遠い。


(構わへん!)大きくった敵の頭部に狙いを定め、「【AMENアーメン】ッ!」


 更に、六度の射撃。放たれた光の弾丸は、驚嘆すべき射撃精度で以て敵頭部の同じ場所を狙撃せしめ、ついには石像鬼ガーゴヰルの頭部を粉砕せしめる。


「あはァッ! 人の子らの武力もにはできぬのぅ!」少女の歓声。

 当然である。仏蘭西に学び日本で完成した神術と技術の結晶、中級三歌サンクラス能天使弾パワーズバレツト。父は大天使弾アークヱンジエルバレツトをして『アレ一発で家が建つ』と評したが、能天使弾パワーズバレツトは一発で屋敷が建つ。


(――って、アレ? コイツ今、同族デビルを祓うのに協力した?)


「同族ではないぞ」またしても、皆無の思考を読んだかのような、少女の声。皆無がぎょっとすると、少女がわらって、「読んでおらんぞ? そなた、顔に出やすいのじゃァ」


「んなッ!?」これでも最年少少佐として、三莫迦ぶか相手には『頼れる神秘的ミステリヰアスな上官』として売っている皆無である。皆無が抗議しようと口を開けると、

「クックックッ、年ごろじゃのぅ」少女がするように嗤った。「そなたの言い分を聞いてやってもよいが――ざァんねん、今度は団体さんじゃぞ」


「えっ!?」脳内高速詠唱の索敵術式【文殊もんじゆけいがん】によると、(石像鬼ガーゴヰルの反応――五!)


 腰の弾薬盒だんやくごうをまさぐる手が空を切り、皆無は青くなる。中級三歌サンクラスを、弾薬盒ごと失くしてしまったのだ。

虚空庫こくうこ】の中には丁種悪魔デビルに抗し得る下級三歌スピリツトクラス権天使弾プリンシパリテイバレツトが八発入りで五個弾倉分入っているが、石像鬼ガーゴヰル丁種悪魔デビルの中でもゐの一番の堅さを誇る。丁種なのは『人語を解さないから』という分類上の都合であり、実際の脅威度は丙種相当。悪魔祓師ヱクソシストの中隊か大隊で以て弾幕を張れば抗し得るだろうが、己一人しかいない現状では、より上位の中級三歌サンクラス・バレツトがなければなぶごろしにされかねない。


(ど、どうすれば――)悩む間にも、南方から敵の反応がぐんぐんと近づいてくる。

「簡単なことじゃァ」腕なし悪魔デビルが嗤った。「弾丸に、ヱーテルを込めよ」


「はぁッ!!」皆無はのん気な様子の悪魔デビルにらみつける。

 無論、皆無とてそのやり方は知っている。が、下級の弾丸にヱーテルを込めたくらいで、その威力はたかが知れている。下級スピリツト中級サンの間には、天と地ほどの威力差があるのだ。


「よいからやってみよ」悪魔デビルは嗤っている。「やらねば死んでしまうぞ?」


「糞ッ――」皆無は脳内高速詠唱で虚空から権天使弾プリンシパリテイバレツトの弾倉を取り出し、「【御身の手のうちに・くにと力と栄えあり】!」素早く十字を切る。「【永遠に尽きることなく――AMENアーメン】! ……え、えぇぇえええ!?」


 果たして弾丸は、直視できないほどの光を帯びている。先ほど、少女真里亜に憑りついた悪霊デーモンを祓うために込めたときとは、まるで次元の異なるヱーテル量。


「ヱーテル不足で悪魔形態デビラヰズド・フオームが解けたとはいえ、そなたはすでにヱーテル総量一千万の大悪魔グランドデビルである。そのくらいは当然じゃな」得意げに微笑ほほえむ少女。言語の魔術によるものか、はたまた皆無の頭をのぞいたのか、少女は日本語で話しつつ外来語は英語を使っている。


悪魔の体デビラヰズド・フオーム……? 解けた……?)


 言われてようやく皆無は、自身が十三年間付き合ってきた見慣れた体に戻っていることに思い至る。軍衣がようにズタボロだったのは、つまり――。


「ギャギャギャギャギャッ!!」石像鬼ガーゴヰルの集団が、空から降ってきた。


「くっ――」半信半疑ながらも、皆無は村田銃へ弾倉をそうてんし、「【AMENアーメン】!」

 先頭の一体目掛けて撃った。真っ白な輝きを帯びた弾丸が石像鬼ガーゴヰルの頭部に命中し、その一体が大きく跳ね飛ばされる――


(なんて威力!? まるで主天使弾ドミニオンズバレツト力天使弾ヴアーチユースバレツトでも撃ったみたいや!)


 ――が、頭部を穿うがつには至らない。あれではすぐにも起き上がってくるだろう。


「糞っ――やっぱり駄目やんか! この悪魔!」少女に抗議しながらも、残りの弾丸で敵集団の胴を正確に狙撃する。だが、「これじゃ時間稼ぎにもならん!」


「込め方がなっておらんのじゃ」ふわりと甘い香りがしたかと思うと、腕なし少女が皆無のすぐ隣に立っていた。「ほれ、手本を見せてやる。弾を貸してたもれ」


「はぁ!? 何を言って――」


「また、命じられたいのか?」


「分かったから!」


 皆無が権天使弾プリンシパリテイバレツトの弾倉を取り出すと、少女がそれに口付けする。途端、

「ぅわっちち!?」


 熱を感じた。弾倉に込められた、空気を震わせるほどの桁違いのヱーテルが、皆無のアストラル体をチリチリと焦がしているのである。


「な、何やこれ!?」ぼうぜんとなりながらも、皆無は無意識の所作でもつて村田銃の弾倉を交換する。今まさに起き上がらんとしている石像鬼ガーゴヰルの一体に狙いをつけ、「【AMENアーメン】!」


 ――次の瞬間、真夜中の山中に、昼が訪れた。

 太陽かと見まごうばかりの弾丸が、狙った石像鬼ガーゴヰルを蒸発せしめ、それどころか、周囲にいた他の四体までもをグズグズに溶かしてしまった。


「あ、あはは――すっっっげぇ!!」皆無は我知らず、年相応の子供のように笑う。が、自身が悪魔デビルの力を賛美してしまったことに気付き、「ちゃ、ちやう! 今のなし!」


「さて、予はこのまま腕探しに行きたいのじゃが……この騒ぎを収めるのが先か」


「騒ぎ?」知ろう、と思ったときにはすでに、無詠唱の【文殊もんじゆけいがん】が周囲の状況を知らせてくる。今までは周囲数百メートルが精々だったはずの索敵範囲が、ほぼ神戸一円にまで広がっている――皆無はそのことに戸惑い、さらに、「な、何やコレは!?」


 ――西洋妖魔による、百鬼夜行。

神戸港結界こうべこうけつかい】が機能しておらず、下級悪霊デーモンから丁種悪魔デビルに至る様々な西洋妖魔で、港があふれ返っている。港は第七旅団員たちの奮闘と、拾月じゆうげつ大将が誇る防護結界術によって守られてはいるものの、空を飛ぶ妖魔たちを捕らえ切ることはできなかったらしい。石像鬼ガーゴヰル蝙蝠鬼グレムリン幽鬼レイスといった飛行系妖魔の大群が、ここ――【文殊もんじゆけいがん】によると六甲山系さんの麓――にまで押し寄せてきつつある。


「ちょうど、聖霊セアルを回復させるためのヱーテル核が欲しかったのじゃ――【収納空間アヰテムボツクス】」石像鬼ガーゴヰルたちのヱーテル核が、少女の魔術空間――【虚空庫こくうこ】と同じような術式だろうか――に吸い込まれてゆく。「有意識下での悪魔化デビラヰズの練習がてら、狩るぞ」


悪魔デビルが、悪魔デビルを狩るやって!?)


「じゃから同族ではない。そなたらも人の子ら同士で散々に殺し合っておるではないか」


 それは、そうである。日本が眠れるたる大陸と戦をしたのは記憶に新しく、そうして今度は、北の南下を防ぐべく半島での経済・ちようほう・退魔戦争にいそしんでいる。


「ほれ、ちょうど近場に石ころどもの集団がおる」少女が赤い瞳を輝かせながら、空を見上げている。索敵魔術か、遠視とおみの魔術か、はたまた暗視の魔術か。


「あれを狩れ」


「狩るって、どうやって!?」悪魔デビルの言いなりになるのは気にわない。が、西洋妖魔の排除という目的が合致している以上は、従うのもやぶさかではない。しかし問題は手段である。はるか上空に陣取るやつらに接敵しようにも、「僕、空なんて飛べへん――むぐッ!?」


 言葉は、続かなかった。美しき悪魔デビルに、いきなり口付けされたからである。先ほども味わった、ドロリとした甘いヱーテルが皆無の中に注ぎ込まれてきて――


「ぷはぁッ、やめろや!」悪魔化デビラヰズしたときの痛みと恐怖を思い出し、皆無は少女を退ける。異性と手をつないだこともない皆無であるが、羞恥や色欲などを感じる余裕はない。


「これこれ、抵抗するでない。翼があればあの程度の距離、ひとっ飛びじゃというのに」


「だ、誰が悪魔あくまの体になんてなるもんか! 僕は悪魔祓師ヱクソシストやで!?」


「ふぅむ……強要してへそを曲げられても困るしのぅ。ならば、思うようにやってみよ」


 やってみよ、と言われて皆無は困る。己が使える移動系の術式といえば、

(【てん】)思考したときにはすでに、両足が風をまとっていた――詠唱もなしに。やはり、術の展開速度が驚くほど向上している。皆無は試しに跳躍しようと、

「待て待て、を置いていくでない」少女が体を寄せてくる。

 皆無の体が独りでに動き出し、腕なし少女を抱き上げる。


「か、勝手に人の体を動かすなや!」鼻孔をくすぐる暴力的なまでに良い匂いを、皆無は必死に無視する。村田銃を保持しなおして、「行くで!」


 地面を蹴った。途端、


「うわぁぁああああああッ!?」「あはァッ! 爽快じゃのぅ!」


 皆無は空にいた。精々が脚力を強化する程度のはずの術式で、空高く舞い上がっている。


「ギャギャギャギャギャッ!!」目と鼻の先に、石像鬼ガーゴヰルの集団。


「撃てッ!」「言われなくともッ!」


 再び、百鬼夜行の夜に昼が訪れた。放たれた弾丸が、十数体もの石像鬼ガーゴヰルほふらす。


「あはァッ! よいぞよいぞ、幼子よ! ――【収納空間アヰテムボツクス】ッ!」


 夜空に真っ赤な魔法陣が立ち現われ、石像鬼ガーゴヰルたちのヱーテル核を吸い込んでいく。

 皆無は自由落下し始める石像鬼ガーゴヰルたちのなきがらを足場に、次なる敵集団に向けて跳ぶ。


(何やこの感覚――この、万能感はッ!!)敵集団を蹴散らしながら、皆無は陶酔する。昨日までの自分なら、一体倒すだけでも命懸けだったはずの相手を、引き金を引くたびにダース単位で吹き飛ばせるという快感――悪魔的な快楽。


「くぅッ――」不意に、腕の中で少女が体を縮めた。まるで痛みをこらえるかのように。

 悪魔デビルとはいえ、見た目は美しい少女。腕を切り落とされた傷口が痛むのか――皆無は思わず同情してしまう。少女を抱く腕に力が入る。


「何じゃ、心配してれるか、幼子よ?」魅惑的でわくてきな声が、耳元でささやかれる。


「ちゃ、ちやう! 落ちへんようにや!」


「安心せよ、予は平気じゃ。ただな、腕が痛むのじゃ」


(存在しない腕が……痛む?)


「予にはこのとおり腕がない。じゃが、予の腕となるべき悪魔大印章グランドシジル・オブ・デビルがこの街の何処どこかに隠されておるはずなのじゃ。これが終わったら腕探しに付き合ってもらうぞ、幼子よ」


「さっきから聞いてりゃ幼子幼子って! 僕は立派な大人や!」


 阿ノ玖多羅皆無、十三歳。身長一四〇サンチでいまだ声変わり前。だが、退魔師ならば誰もが羨む単騎少佐位に就く、職業軍人としてのきようが皆無にはある。


「ぷッ――くふふ、自分で『立派な』なんぞと言うておるうちは、小童こわつぱじゃな。股間のナニも随分と可愛かわいらしかったしのぅ」「な、何が可愛らしいや、ボケぇ!」「何がってナニがじゃが。時にそなた、歳は?」「じゅ、十三やけど」「あはァッ、やはり小童ではないか」「そういうお前は幾つやねん!?」「予か? 予は十六。そなたより三つもお姉さんじゃ」「年上やからって、何を偉そうに!」「なるほどそなたの術式は見事じゃが、そろそろ軽業師のように空を飛び回るのにも疲れたであろう? いい加減、予の口付けをれよ」「断る! 僕は悪魔デビルやなくて悪魔祓師ヱクソシストや!」「うむ、どうすればちて呉れるんじゃろうか。餌が足らぬのか?」「だ、誰が堕ちるか!」「まぁ、誘惑こそ悪魔デビルの本懐。必ずやそなたをその気にさせてみせようぞ。ここが腕の見せどころというわけじゃァ。ま、見せるための腕がないのじゃがな! あはァッ」「…………」「のぅ、頼む、堕ちて給れ。悪魔的な生き方も悪くはないぞ」「悪いに決まっとるやろ!」「悪魔化デビラヰズすれば最強の魔術群が扱えるようになる。初級・中級・上級魔術のさらに上。地獄級魔術じゃ」「じ、地獄級……」「街を焼き滅ぼし、森を更地にし、湖を干上がらせることができる。強いぞ。使ってみたくはないか、んん?」「誰がそんな悪魔の所業、したがるもんか!」「地獄級魔術の中には、術者の命を対価に求めるようなものもあるが――」「ヒッ!? 僕を捨て駒にする気なんか!?」「予は外道あくまではないからのぅ」「悪魔やんか!」「んぉ? 言われてみれば悪魔デビルであった。まぁかく、それしか手がなくならぬ限りは、そなたの命を対価になど使わぬから安心せよ」「それしか手がないときには使わせるってことやんか、それ!」


 言い争いを続けながらも、皆無は夜空を駆け、丁種悪魔デビルたちを屠り散らす。一集団につき、一発か二発。だが村田の弾倉は八発式のため、ついには弾が尽きてしまう。顔を上げれば、紫電を纏った雷鳥サンダーバードがこちら目掛けて素っ飛んでくるところであった。


「くッ――」皆無はしゆんじゆんするも、虚空から弾倉を取り出し、「頼むッ!」


「仕方のない使い魔じゃのぅ」少女が存外素直に、弾倉に口付けして呉れる。また、弾薬が鋭い光を帯びる。「じゃが、どうやって弾を込める?」


 そう。試製参拾伍さんじゆうご年式村田自動小銃改は世界的にも例の少ない自動式の小銃であるため、引き金を引くだけで排莢と次弾装填が自動で行われる。だから、少女を抱えたままでも撃ち続けることができた。が、弾倉の再装填となると、さすがに片手では行えない。


「教えてやろう。【念力テレキネシス】の魔術を使えばよい」腕の中で少女が言う。


「そんな魔術、使えへんわ!」敵の亡骸を蹴って舞い上がりながら、皆無は叫ぶ。


「使えるとも。予の口付けを受け容れよ。ヱーテルと一緒に術式も流し込んでやろう」


「うぐぐ……」再装填はしたい。が、悪魔デビルのヱーテルは受け取りたくない。「せや!」


 ――少女を、天高く放り上げた。


「ぅひゃぁッ!?」少女の、悪魔デビルらしからぬ年相応の悲鳴。「――お、落ちる!」

 そこから皆無の、洗練され尽くした動作が始まる。皆無は足場もない中、腹筋で以て見事に姿勢を正し、村田銃の銃床を右脇に抱え込む。次に、光り輝く新たな弾倉で以て空の弾倉をはじき、速やかに新たな弾倉をそうてんする――ここまで一秒足らず。

文殊慧眼もんじゆけいがん】によって目標の距離、速度を測り、照準を合わせ、「――【AMENアーメン】!」


 放たれた弾丸が光の尾を引いて雷鳥サンダーバードに殺到するが、


「――ちッ」神速を誇る雷鳥サンダーバードに、弾をけられる。(それなら――)


 皆無の目の前に生命樹セフイロトまんの幻影が立ち現われる。


(【五大の風たるヴァーユ・十二天の一・風の化身たる風天よ】)風天の曼荼羅と、

(【旅人達の守護者・トビトの目を癒せし大天使ラファヱルよ・その行き先を示したまえ】)ラファヱルの『栄光ホド』が、銃口の先で合一される。「――【AMENアーメン】!」


 黄色いヱーテル光を纏った【追尾風撃ラフアヱル・シヨツト】が銃口から飛び出し、雷鳥サンダーバードに向かって飛んでいく。雷鳥サンダーバードが鋭く方向転換するが、東西和洋の風の加護を得た弾丸が物理法則を無視して急激に弾道を変える。弾丸は、縦横無尽に夜空を飛び回る雷鳥サンダーバードの動きをさらにりようする機動性で以て、ついには雷鳥サンダーバードに喰らいつき、神速の鳥を祓魔せしめる。

 皆無は再度、【追尾風撃ラフアヱル・シヨツト】を脳内詠唱で撃つ。皆無の望むまま、今度は弾丸がのろのろと進み始める。皆無はその弾丸を足場にして、「――よっと。大丈夫か?」


 自由落下の真っ最中だった腕なし少女を抱きとめた。


「だ、だだだ大丈夫ではないわ! 者ッ!」さきほどまでの泰然とした様は何処へやら、悪魔デビルは泣き出しそうなほど取り乱している。「予が死ねば、そなたも死ぬのじゃぞ!?」


「あははっ」皆無は意趣返しができて、少し楽しい。「分かっとるわ」


 無論、皆無とてこの少女を墜落死――甲種悪魔デビルが墜落死するのかどうかは定かではないが――させるつもりはなかった。己の心臓を少女が動かしているという話が事実ならば、少女の言うとおり、少女が死ねば自分も死んでしまう可能性が高いのだ。


「このようなちやはやめるのじゃ! おとなしく、予の口付けを受け容れよ!」


「嫌やね」皆無は空を漂う妖魔たちのせんめつ作戦を続行しながら、少女に答える。少女の慌てる様を見たことで、少し調子が戻ってきた。「だいたいお前、自分で戦えばええやろ」


 何しろ相手は、ヱーテル総量五億単位の甲種悪魔デビルなのである。腕の中で縮こまる様子を見るに腕っぷしは強くなさそうだが、さぞ強力な破壊魔術が使えるのであろう。


「それができれば苦労はせぬ」「お前、さっきも魔術使っとったやん」「【翻訳トランスレーシヨン】も【収納空間アヰテムボツクス】も、ヱーテルを外に放出する必要のない魔術じゃからのぅ」「つまり火とか風を出す魔術――攻撃魔術が使えへんってこと?」「左様。放出系で唯一使えるのは、足音と気配を隠す【隠者は霧の中ハーミツト・イン・ザ・フオツグ】じゃな。アレはよう練習した」「足音消すって……ぷぷっ、雑魚っ」「ほほう? よほど心臓を止められたいと見える」「い、今のなし!」


 口論しながらも戦い続け――そして気が付けば、辺りの飛行系妖魔は一掃されていた。他ならぬ自分がしたのだ……悪魔デビルの力を借りて。

 そうしてようやく、皆無は気付く。眼下の――さんの麓が騒がしいことに。妖魔が出ている以上、民間人は第七旅団が配布した結界を張って、屋内に閉じこもっているはずである。なのに山の麓から、多数の男女の怒号が聞こえる。

 銃弾を足場に降りていくと、果たして山道の入り口にいたのは、「――お前ら!?」

「「「しょ、少佐殿ッ!!」」」


 愛すべき三人の莫迦ぶかたちが、一体の石像鬼ガーゴヰルに追い回されていた。


「何でこんなところに――」言いつつ無詠唱の【文殊慧眼もんじゆけいがん】で辺りを探ると、山を封鎖するかのように多数の第零師団だいゼロしだん員――西洋妖魔を専門とする第七旅団以外の師団員も含めて――が展開している。みな、百鬼夜行を相手にするにはこころもとない尉官か下士官。

 戦力外の若手たちを、日本妖魔が潜む山の監視に当たらせるという配置らしい。


「あはァッ、幼子よ」地面に下ろすと同時、悪魔デビルが言った。「――命令じゃ。撃て」


「――…ッ!?」皆無の全身から、冷や汗が噴き出す。

 今までは、ヱーテル核を集めたいこの悪魔デビルと、神戸を守りたい自分の間に不思議な共闘関係があった。だがここで、第三の要素が加わった――悪魔デビルの捕食対象たる、か弱き人間である。皆無の腕が独りでに持ち上がる。村田の銃口が、三莫迦ぶかたちに向けられる。


(こ、ここであいつらを殺してしまうくらいなら、この悪魔デビルと刺し違えてでも――)皆無は壮絶な覚悟を固めようとする。がしかし、体が言うことを聞いて呉れない。必死の抵抗もむなしく指先に力が入っていき――…遂には引き金が引かれてしまった。果たして光り輝く弾丸が莫迦ぶかたちに殺到し、莫迦ぶかたちの肉体を爆散せしめ――(嗚呼ああッ……)


 ――――……なかった。


(あ、アレッ!?)


 代わりに、石像鬼ガーゴヰルが跡形もなく蒸発する。少女が、三莫迦ぶかではなく石像鬼ガーゴヰルを狙ったのだ。少女はすたすたと三莫迦ぶかたちのそばまで歩き、石像鬼ガーゴヰルのヱーテル核を回収する。


「少佐殿、ありがとうございばずぅ~ッ!」紅一点の伊ノ上少尉が、顔をくしゃくしゃにして礼を言ってくる。「ところで少佐殿、このれいな異人さんは一体――ぎゃッ!?」


 伊ノ上少尉の体が、跳ね飛ばされた――腕なし少女の強烈な蹴りによって!


(やっぱりコイツは敵――ッ!?)皆無が南部式を少女に向けたそのとき、

「――グルルルルルルァッ!! バウゥッ!!」


 体高二メートルはあろうかという巨大なおおかみが、茂みの中から現れた! 狼は突進していく――今の今まで、伊ノ上少尉がいた空間を!


(えッ、伊ノ上を助けた!?)皆無はますます混乱する。(一体どういう――いや、今は狼が先や!)皆無は村田銃を虚空こくうに収納し、狼へ肉薄しながら両手で鋭く智拳印を結ぶ。「【オン・バサラ・シャンテイ・ソワカ――入眠にゆうみんッ!】」


 皆無が息を吹き掛けるや、狼はその場で眠り込む。


「何ぞ大きな犬っころじゃのぅ」悪魔デビルの少女がやってくる。少尉には目もれない。


(ってことは、やっぱり伊ノ上を攻撃するつもりやなかったってことか?)


 実際、少尉は痛そうに尻をさすってはいるものの、は負っていない。逆に、この巨大な狼による猛烈な突進をまともにらったら、骨折どころでは済まなかっただろう。


「ふむ。こやつ極東妖魔のたぐいか? に立ち向かってくるのなら仕方ない。幼子よ――」


「待て! 待って呉れ!」自身の体が操られる気配を感じ、皆無は懇願する。「コイツを殺したらアカン! 六甲山条約違反になってまう!」


「ロッコーサン条約ぅ?」少女が小首を傾げてみせる。


「六甲山系にはたくさんの日本妖魔がんどるんやけど、そいつらをべる人狼一族・おおかみ家と日本国は講和条約を結んどんねん」三莫迦ぶかたちが山道封鎖のしめ縄結界を張る様子を見守りながら、皆無は悪魔デビルに解説する。「狼を殺したら、条約に亀裂が入ってまう」


 この地を統べる為政者たちと日本妖魔の争いの歴史は、長い。が、百数十年前の開国にあたり、海と山の二正面からの脅威に立ち向かうのは困難と判断した幕府と摂津せつつ国各藩主たちは、六甲山系の妖魔たちと和議を結ぶことを決めた。そこから百数十年。あめ――本領ナワバリあん罪人イケニヱの供給――と、むち――誰あろう皆無の父・正覚の圧倒的武力による威圧――によって、神戸と六甲山系妖魔たちはそれなりに仲良くやってきたのだ。


「じゃが、こやつ今、明確な攻撃意思を持って突進してきたぞ?」


 とはいえ大神家の手綱も万能ではない。反乱分子や道理をわきまえない若造妖魔が港の混乱に乗じて騒ぎを起こすのはよくあることなので、こうして封鎖を行っているわけである。


「コイツははぐれ者やろ。人間にだって犯罪者はおるし――」


「――グルルルルルルァッ!!」「バゥワゥゥウゥッ!!」「ワオ ンッ!!」


 皆無の言葉を遮るかのように、山奥から、まるで波のような狼の大群が押し寄せてきた!


「きゃっ」「うおっ、何やコイツら!?」「ひ、ひえぇぇ~ッ! 助けて少佐殿!」


 狼たちはしめ縄の前に立ちはだかる見えない壁に激突し、それ以上は進めない。が、早くもそのしめ縄が千切れそうになっている。莫迦ぶかたちが必死にヱーテルを供給しているが、いつまで持つか……【文殊慧眼もんじゆけいがん】によると他の地点もおおむね同じような状況で、第零師団だいゼロしだんの若手たちが必死に結界を維持している。


「おやぁ? 随分とはぐれ者が多いようじゃが」


「な、何でや!?」皆無は頭を抱える。

 さんの至るところから、狼たちのとおえが聞こえてくる。人々の恐怖をあおいななき声。


「【赤き蛇・神の悪意サマヱルが植えしどうつた・アダムのりん――万物解析アナラヰズ】」少女の赤い瞳が一層赤く輝く。

「嗚呼――アレが原因じゃな。あやつめ、しぶといのぅ」


「え?」少女が顎で示す方――空を見上げると、宵闇よりもなお暗い漆黒の霧が空を覆っていた。あの霧には見覚えがある。「――所羅門七十二柱ソロモンズ・デビル庵弩羅栖アンドラスッ!!」


「アレはもう、受肉マテリアラヰズもままならぬ様子じゃが……不和侯爵の名は伊達だてではないな」


 不和。なかたがい。庵弩羅栖アンドラスは狼を使役する。霧から発せられる負のヱーテル波。


「あの霧が原因で、狼たちが暴走しとるってことか!?」


「左様。そうして人の子らの恐怖アストラルを集め、力に変える算段じゃろう」


 言われて意識してみれば、摩耶山の麓にある数々の集落からどす黒い光――人々の恐怖心を乗せたヱーテルがあの霧の中心に集まりつつある様子が、【文殊慧眼もんじゆけいがん】越しに見える。

 狼たちの遠吠えはますます大きくなる。ヱーテル枯渇で気絶する師団員たちが出始める。

 このままではいずれ結界が崩され、狼の大群が師団員たちを喰い散らかし、麓の人々を襲い、神戸をみ込むだろう……そうなれば、人間と和・洋妖魔によるどもえの地獄が始まる。そうして得た恐怖アストラルによって庵弩羅栖アンドラスが復活すれば、今度こそ神戸が滅ぶ。


(そんな、どうすれば……)頼りになる父は、いない。古参はみな港に掛かりっきりで、ここには退魔師未満のヒヨッコたちしかいない。皆無は左手を撫ぜる。勝てるのか。自分が、伝説の甲種悪魔デビルに?(僕が、僕がやるしか――)


「今度こそ、庵弩羅栖アンドラスを殺せ」少女の笑み。だが、目が笑っていない。「よいな?」


 ……絶望的な戦いが、始まる。



◇同日五時五分マルゴーマルゴー/摩耶山上空/阿ノ玖多羅皆無単騎少佐


 皆無は【追尾風撃ラフアヱル・シヨツト】を付与した弾丸を足場に、空を舞う。


「いい加減、観念して予の口付けをれよ」腕の中で少女が言う。


「断る! ――【光明こうみよう】」省略詠唱で空を照らし上げてみれば、視界の先には全てを呑み込む暗いくらい霧の塊。皆無はその巨大な霧に向けて手をかざし、「【浄火じようか】ッ!」烏枢沙摩明王うすさまみようおうの炎はしかし、霧に触れるや否や、文字通り霧散してしまう。「【偉大なる烏枢沙摩明王うすさまみようおうよ・烈火で不浄を清浄と化せ・オン・クロダノウ・ウンジャク――浄火じようか】ッ!!」


 今度は完全詠唱し、たっぷりとヱーテルを使ったうえで炎を放った。


「ゴァァアアアァァアアアアアアアアアッ!!」霧から亡者のごとき声がする。

 視界を覆い尽くすほどの巨大な火の玉はしかし、黒い霧に呑み込まれてしまった。


くそぉッ! 【浄火じようか】ッ!! 【浄火じようか】ッ!! 【浄火じようか】ッ!!」遮二無二炎を放つが、霧の中から伸びてきた黒い触手につかまれた途端、炎は霧散していく。(アレがヱーテルを吸って!?)


 霧から触手が伸びてきて、弾丸に触れる。途端、弾丸は力を失い、落下していく。何発も打ち上げていたはずの足場が、みるみるうちに減っていく。


「――【AMENアーメン】ッ!!」その触手を、少女のヱーテルが乗った実包で穿うがつ。

 触手が破裂した。が、霧の中から次々と新しい触手が伸びてくるので、焼け石に水だ。

 皆無は脳内高速詠唱で最高火力の術式【神使火撃ミカヱル・シヨツト】を練り上げ、「【AMENアーメン】ッ!!」


 霧の本体目掛けて、撃つ。少女の巨大なヱーテルが込められた権天使弾プリンシパリテイバレツトによる、【神使火撃ミカヱル・シヨツト】。現状、皆無が使える攻撃手段の中でも最大最強の術である。

 だが、それさえも――――……


「あ、嗚呼……あぁぁ……」皆無は、自分の声が絶望に彩られていることを自覚する。

 弾丸が放つ輝きは、霧の中に呑み込まれ――…消えてしまった。

 皆無が苦戦している間にも、刻一刻と時は過ぎていく。鋭敏になった【文殊慧眼もんじゆけいがん】からは、愛する三人の莫迦ぶかたちがヱーテル枯渇で次々と倒れていく様子が伝わってくる。今や伊ノ上少尉がただ一人でしめ縄を握りしめ、吐血しながら目を見開いている。狼たちに喰い殺されるのが先か、丹田破裂で死ぬのが先か。

 無数の触手が皆無に襲い掛かってくる。皆無はそれを村田銃でさばくが、ついには弾が尽き、再装填の瞬間に触手によって村田銃をたたき落されてしまう。


(また、守れへんのか?)残り少ない足場を頼りに逃げ回りながら、皆無は自問する。おさなじみ・真里亜の顔が目に浮かぶ。昔、よく遊んでもらった女の子。そのあどけない顔が十六歳相当の顔になり、もんゆがみ、そして最後には――…腐敗しうじにたかられた顔に変わる。(僕は、また、守れへんのかッ!?)


「守れる」ふと、耳元で声がした。脳をしびれさせる、あらがいがたいほど魅力的でわくてきな声だ。「地獄の魔術ならば、あやつをほふれる。予を受け容れよ、いとしき我が子よ」


「くッ、それでも、それでも僕は――」悪魔祓師ヱクソシストとしての、人間としてのきようが、皆無に悪魔デビルの提案を拒ませる。皆無はどうすればよいか分からない。頭の中はぐちゃぐちゃだ。

 ――そのとき、一本の触手が、まるで剣の如き鋭利さでもつて皆無に襲い掛かってきた!

 武器はなく、精神統一もままならず、防護結界を張るにはとても間に合わない。


(い、いやだッ!!)恐怖に塗りつぶされ、皆無は目をつぶる。(パパ――ッ!!)


 ――――――――…………が、待てど暮らせど、痛みはこない。

 恐る恐る目を開き、皆無はきようがくする。「な、ん、で……?」

「あ…はァッ……」少女が、腕のない悪魔デビルが、皆無と触手の間に割って入っていた。少女が、皆無を、かばっていた。宵闇の中でもなお分かる鮮血が、宙に舞う。「せっかく……手に入れた使い…魔を……失うわけには……いかぬから、のぅ」


 少女の体が、皆無の腕からこぼれ落ちる。――ちる。堕ちていく。


「お前――ッ!!」皆無は【てん】の力を反転させ、弾丸を蹴って跳ぶ――下へ、少女のもとへ。宵闇の中、勢い良く落下しながら、皆無は少女へ必死に手を伸ばす。

 見れば少女の方も、手を伸ばそうとしている――腕もないのに。

 果たして皆無は、少女のドレスをつかみ、少女を手繰り寄せることに成功した。


れるッ!!」少女を抱きしめながら、皆無は叫ぶ。「お前の力、悪魔デビルの力を受け容れる! やから、僕にみんなを守らせて呉れ。――僕に、お前を、守らせて呉れッ!!」


「――許す」少女が、弱々しくも力強く、わらった。「予の口付けを、受け容れよ」


 皆無は少女の唇にかぶりつく。ドロリとした甘いヱーテルが皆無の舌を、喉を、胃を温めていく。全身が熱い、熱い、熱い。皆無の体がまばゆいヱーテル光に包まれ、次の瞬間、

「これは……」皆無は自身を見下ろす。真っ黒な毛に覆われた手足、鋭くまがまがしい爪、隆々たる胸筋。今や皆無の体は蝙蝠こうもりの如き翼の羽ばたきで、悠々と空に浮いている。だがそれら悪魔的な部位は半透明――受肉マテリアラヰズ未満の状態である。しかしそれでも、「この力は」


 体内を、すさまじい量のヱーテルが循環している。もはや無意識化で常時発動している【文殊慧眼もんじゆけいがん】が皆無に、自身のヱーテル総量が五千万単位に至っていることを伝えてくる。

 ――実に、日本一の退魔師たる父・正覚の、二倍。


「地獄の魔術を……授ける」途切れとぎれに、少女が言う。「復唱せよ」


「う、うん」


「【三つの暴力・女面鳥ハーピーついばばまれし葉冠・しやくほり】――」


「み、【三つの暴力・女面鳥ハーピーに啄ばまれし葉冠・呵責の濠】――」


 悪魔的な単語が、詠唱が少女の舌の上で踊り、皆無の舌に絡みつく。


「【苦患の森に満ちる涙よ雨となり】」「【苦患の森に満ちる涙よ雨となり】」


 多量のヱーテルでつながったことにより、少女の思考が流れ込んでくる。


「「【煮えたぎる血の河と成せ】」」

 皆無は少女を強く抱きしめながら、その右手の平を霧に――不和侯爵庵弩羅栖アンドラスに向ける。


「「【パペサタン・パペサタン・アレッペ・プルートー】」」


 今や皆無は、少女とともに結びの句を叫ぶ。


「「――――【第七地獄火炎プレゲトン】ッ!!」」


 空が、炎で満たされた。


「ゴァァアアアァアアァァアアアアアアアァアアァァアアアアアアアアアアッ!!」


 黒い霧が、不和侯爵庵弩羅栖アンドラスが、断末魔の叫びを上げる。

 地獄の炎が、全てを焼き尽くす業火が、瞬く間に霧を呑み込む。焼き滅ぼす。

 ……――――後にはただ、何もない空が在る。いや、何もないわけではない。光が在った。薄っすらとした光が、東の方角から立ち上がりつつある。

 夜が、明けたのだ。



同日五時二十分マルゴーフタマルさんの山道/阿ノ玖多羅皆無単騎少佐


文殊慧眼もんじゆけいがん】からは、庵弩羅栖アンドラスの死によって理性を取り戻したおおかみたちの様子と、夜明けによってアストラル界へとかえっていく西洋妖魔の様子が伝えられる。

 神戸は、守られたのだ。


「やった、やったで!」着地しながら、皆無は興奮と喜びを少女にぶつける。


「よ、よぅやったのぅ……そ、それは良いが」その少女が、真っ青な顔をしている。

「は、はよぅ……を治してたもれ」


「うわぁッ!?」皆無は仰天する。朝日の下で見てみれば、少女は肩口から胸元までざっくりと切り裂かれていて、傷口からはとめどなく血があふれ出ている。「【オン・ビセイシャラ・ジャヤ・ソワカ――治癒ヒール】ッ!」


 短縮詠唱で薬王さつの真言密教術を使うと、みるみるうちに傷口が塞がっていく。


「ふむ。なかなかの術式展開能力じゃのぅ!」早々に顔色を取り戻し、少女が嗤う。「そなたに地獄級魔術の数々を仕込むのが、今から楽しみじゃァ」


 あれほどのおおを負いながら、気丈に振る舞っていたのだ――皆無は改めて、少女の精神力に息を呑む。


嗚呼ああ、何とか無事終わったんやな……)そう思った途端、猛烈な疲労と眠気が襲ってきた。皆無はその場に座り込んでしまう。受肉マテリアラヰズ未満だった悪魔デビルの体が、白いヱーテルのちりとなって空に溶けてゆく。(せや――これは、これだけは、聞いとかへんと)


 今にも気を失いそうになりながら、皆無は少女に問う。「……お前、名前は?」


「リリス」少女が嗤った。「そなたの命をろうた女の名じゃァ。忘れるでないぞ、愛しき我が子よ」

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