メンヘラな女子と出会ったら

「ああぁー……彼女欲しい」

「切実だな」

「そりゃ、大学生なら彼女くらい欲しくもなるだろ?」

「大学生って、そんなものなのか?」

「満場一致でな。可愛かわいい彼女を作って、あわよかなくてもヤらせていただきたい」

「何だよ、その日本語。てか、単に性欲を満たしたいだけじゃねぇか」

 二本の缶コーヒーをローテーブルの上に置いた僕は、床の上であおけになりながら丸出しの欲望を口にする友人を横目に、クッションへと腰を下ろす。

 僕――愛垣あいがき晋助しんすけは、東京の大学に通う一般的な大学二年生。

 出身は埼玉で、大学進学前の三月に都内に引っ越した。

 実家から大学までは電車通学でも行き来できる範囲にあるのだが、両親の援助もあって大学付近のマンションで一人暮らしをさせてもらえている。

 部屋は六階建ての二階にあり、リビングはキッチンと寝室を兼ねているものの十分な広さ。エントランスにはオートロックが付いていて、スーパーやコンビニ、商店街に駅なんかもマンションから割と近い。大学生にしてはぜいたくすぎるくらい、好条件の物件だ。

 僕の通う東京城下大学の立地は東京とはいっても二十三区外に位置し、地方民の大多数が想像する青山や立教のような大都会のイメージには当てはまらない。だが、埼玉の田舎いなか育ちの僕にとってはむしろそれが心地よく、理想の大学生活をおうできていた。

「にしても、晋助はいいよなぁ。こんな立派なマンションで一人暮らしとかよぉ」

 気だるそうに起き上がって缶コーヒーを手に取り、柳生やぎゆう浩文ひろふみ――大学に入学して最初にできた友人は、「不公平だ」とでも言わんばかりに唇をとがらせた。

「初めて部屋に上がった日から今日まで、毎回同じ事を言ってるな」

「それほど羨ましいんだって。大学が近けりゃ、朝もギリギリまで寝てられるしよ。俺なんて登校に二時間もかかるから、一限の日なんて五時起きだぞ? それに何より、女を連れ込むにも丁度いいしなぁっ! 実家住みじゃ女なんて連れ込めねーしよぉ!」

「後半の欲望の方が強いのはよく分かった」

 仮に浩文がこの立地のマンションに住んでいたとしても、性欲が服を着て歩いているようなこいつの誘いには、まず誰一人としてまともな女子は乗ってこないだろう。

 顔はそれなりに整っていて、筋肉質で体格も良い。それでいて気さくで話しやすい性格だというのに、全ての長所が性欲によって相殺されている。

「言っておくけど、僕が部屋に上げた異性は母さんと妹くらいだからな」

「宝の持ち腐れだな。俺が家主なら毎日のように女子大生と教授をキャンパスからお招きするぞ? この部屋の壁だって男女のハレンチな行為を間近で見られる日を待ち望んでいるだろうに、可哀かわいそうな事この上ないぜ」

「そんな欲求不満な壁があってたまるか! ……というか、お前に見境はないのか?」

「教授だろうがレディだろ」

 だからって教授までお招きするな。

「しっかし、本当に晋助はもつたいないよなぁ。せつかくの大学生活なんだし、彼女の二、三人くらい作ればいいのによぉー」

「彼女は二、三人も作るものじゃないだろ」

「……あ。でも、晋助に彼女ができたら、ここにいれる時間が減るよな……? それに先を越されるのはムカつくし……。やっぱ晋助は彼女を作るべきじゃないな!」

「全部お前の都合じゃねぇか……」

「冗談だって。もしも彼女ができたら、その時は盛大に呪ってやるよ」

「そこは祝ってくれよ」

「けど、どうせ彼女なんか作る気ないんだろ?」

 浩文は顎に手を当てて、僕の顔をジッと見つめた。

「……いきなり何だよ。顔にゴミでも付いてるか?」

「俺ほどじゃないけど、晋助も割と顔は良い方だよな」

 真剣なまなしに、思わずゾッとする。

「お前、まさか……」

「勘違いすんな。俺は生粋の女好きだ」

 そんな事で胸を張るな。

「いやさ、ちょっと不思議に思ってよ。晋助って意外と性格良いだろ? 相談にも乗ってくれて、面倒見も良いし。モテる要素はそろってんのに、どうして女を作らないわけ?」

「彼女を作るのが全てってわけでもないだろ? それに、今は大学と家事、あとはバイトなんかもして、その上でようやく貴重な『練習時間』を捻出してるっていうのに、そこから彼女と遊ぶ時間なんて、とてもじゃないけど作れそうにないしな」

「練習ばっかしてても、女がいないと本番はできないぞ……?」

「お前の思考回路は下事情でしか構成されてないのか?」

「世の中の大学生なんてこんなもんだ。……つか、大学生なのにそこまで下事情に興味がないってのも、考えものだと思うぞ?」

 浩文は床に手をついて脱力し、あわれむような視線を僕に向けた。

「今は彼女を欲しいと思ってない、ってだけだよ。性格や趣味が合う『普通の人』に出会えたら、また付き合いたいと思う日が来るかもな」

 女子との関わり自体を避けている僕に、そんな未来がやって来るとは思えないけれど。

「つまり大学内に性格と趣味が合う相手がいないから、誰とも付き合いたくないと?」

「まぁ、そうなるのかな」

「だから理想の彼女を作ろうと『イラストの練習』をしている、ってわけだな」

「偏見が強すぎるだろ!」

 イラストレーターを何だと思っているのだ。

「そんな声を荒げるなって。……んで、最近はどうなんだ? 絵の上達具合はさ」

「……ぼちぼち、だな」

 イラストレーターは、僕が中学一年生の頃から思い描いていた夢である。

 初めてできた恋人からの影響を受け、ゲームや小説に登場するキャラクターを描く職業に憧れを抱き、高校生の頃から本格的にイラストを描き始めた。

 その夢は卒業後に専業イラストレーターとして活動していこうと考えていたくらい本気で向き合っていたものだったが、高校での進路選択の時期に両親から「絵ではなく安定した仕事に就いてほしい」と言われ、結局は大学進学の道を選んでしまった。

 ただ大学進学したからといって夢を諦めたわけではなく、高校時代と同様にネットの情報や書籍を参考にして独学で練習に励み、学生をしながら引き続き夢を追っている。

 だが、今の僕は上達に伸び悩み、スランプに陥っていた。

 周りにイラストについて相談できるような相手がいれば少しは違ったのだろうが、あいにくそんな都合の良い相手は知り合いにいない。

 毎日の練習は欠かさずしているものの、僕は現状に限界を感じていた。

「おいおい、表情暗いなぁ。ツイッターのフォロワー、最近は伸びてないのか?」

 ローテーブルの上に置いていた僕のスマホに、浩文は指を差す。僕はスマホを手に取ってアプリを開き、アカウントページを彼に見せた。

「ようやく八千人に届いたけど、そこからは特に変動なしだな」

「それでも、こんだけフォロワーがいるんだもんなぁ。描いてるキャラもクソ可愛いしよぉ……。『マジで晋助が描いたのか?』って毎度疑いたくなるわ」

 イラストを描き始めた頃から、僕はツイッターで「シン」という名義のアカウントを用いて、作品の投稿を続けている。

 最初はなかなか良い評価を得られなかったが、根気強く投稿してきた結果、数回ではあるが「バズり」を経験し、去年ようやくフォロワーが八千人台へと突入したのだ。

「これだけフォロワーいたら、オフパコの誘いとか大量に送られてきそうだよな。実際のとこ、ぶっちゃけどうよ?」

「『イラスト投稿用のアカウントだ』って言ってるよな? ネット上に顔すら公開してないのに、そんな誘いが届くはずないだろ」

「つまんねーの。俺だったら知名度を武器かつ餌にして、手当たり次第に出会いを求めている可愛い女の子のアカウントにダイレクトメッセージをくぞ」

「お前に知名度があったら、しょっちゅう炎上を起こしてそうだな。そもそも、そんなホイホイと出会いを求めている女子とやらのアカウントなんて見つからないだろ」

「チッチッチッ。実はそうでもないのだよ、ワトソン君」

 どこのホームズだよ。

 浩文は得意げに自身のスマホをポケットから取り出し、レクチャーするように僕に画面を向けてきた。

「晋助もイラストを投稿する時に『#』を付ける事あるだろ? 『#拡散希望』とか『#イラストレーターさんとつながりたい』とかさ」

 彼の言う「#」の記号をSNS上で投稿文の初めに用いると、「タグ付け」という機能を使用する事ができる。

 タグ付けでは同じワードが含まれている他者の投稿内容を瞬時に検索にかけられ、逆にそのタグを経由して他者に自身の投稿を認知してもらいやすくもなる。

「これ、見てみろよ。このタグで検索すると、可愛い女の子のアカウントとか出会いを求めてる子のアカウントがめちゃくちゃヒットするんだよ」

 浩文がタグ検索したのは、「#彼氏募集」という投稿だった。

 JK、JD、OL、ギャル系にせい系、そして地雷系と、様々な系統の女子の自撮り画像が、スクロールされる画面に次々と映し出されていく。

「世の中には彼氏募集中の女の子がこんなにもいるってのに、どうして俺の前には彼氏を募集している女の子が現れないのか、甚だ疑問だね」

「お前だからだろ」

「いつにも増して辛辣だな! ……でもよぉ。この手の画像を載せる子って、結構可愛い子多いと思わねぇ?」

 浩文は「ほら」と、再び画面を見せてくる。

「……そうか? どれも加工アプリで顔変えてあるし、本当に可愛いかなんて画像だけじゃ判別できないだろ」

「晋助の言う通り、確かに強めに加工された画像が大半だ。けど、ほとんど加工されてない画像だってちょくちょくあるぞ。例えばこの子! どうよ、可愛いだろ?」

「タイプじゃないな」

「なら、この子はどうだ? 金曜ドラマに出演してる新人女優に似てる子!」

「芸能人はよく知らないし、その人もあんまりだな」

「だったら、この子なんていいんじゃないか? あの琴坂ことさかさんに似てるし!」

「誰だよ、その琴坂さんって」

「火曜の二限で一緒に講義受けてるだろ!?」

「そこらの芸能人以上に知らねぇよ……」

 浩文から振られる女絡みの話題に飽き、僕はスマホ画面から部屋の壁に掛かっている時計へと目をやった。

「そろそろ夕飯の支度でも始めるかな」

 僕はおもむろにその場から立ち上がり、キッチンへと歩き出した。

 このまま会話を続けていたら、深夜にイラスト練習をする時間が減ってしまう。

「今日も自炊するのか?」

「ああ。外食ばかりじゃ食費だけで生活がきつくなるからな。じいちゃんが家庭菜園で作った野菜を今月も仕送りしてくれたから、それを食べるよ」

「本当に良い子だなぁ、晋助君は」

「君付けでこび売りするな。らしくなさすぎて気持ち悪い」

 キッチンに立った僕は冷蔵庫を開けて、残っている食材を確認した。

「どうせ今日も食べていくつもりだろ? 暇なら洗濯物でも畳んでおいてくれ。家事を多少なりとも手伝うんだったら、夕飯をごそうしてやる」

「はぁ、お前が女だったらよかったのにな……」

「僕が女だったら、まずお前を部屋には上げないけどな」

 火曜日の二限は、倫理学の講義を履修している。

 僕と浩文は講義室に入ると肩を並べて座席に座り、雑談をしながら開始のチャイムが鳴るのを待っていた。

 浩文以外の友達がキャンパス内にいないわけではないが、講義や休み時間は彼と行動している事が多い。

 学部が同じだからというのもあるが、なんだかんだ波長が合っているのだろう。でなければ、入学してから毎日のように関わり続けられているはずがない。

「晋助、見てみろよ。今講義室入ってきた子、めちゃめちゃおっぱいデカいぞ! ショルダーバッグでパイがスラッシュされてるしよぉ!」

 縁を切るべきか、たまに本気で悩む時はある。

「講義室で発情するなよ。悪目立ちするから」

「悪い悪い。次からは耳打ちで伝えるわ」

「同じくらい迷惑だからやめてくれ」

 この注意だって、一体何度目になるか分からない。

「ほんと、この大学の女子はレベル高いよなぁー。特に教育学部ッ! あぁー、いいなぁ……。俺も文学じゃなくて、性教育を学びたいぜ……ッ」

「教育な」

 倫理学の講義は全学部生が履修できる科目のため、僕と浩文が所属している文学部以外の学生も多く受講している。

「教育学部って、そんなに可愛かわいい子が多いのか?」

「去年の学祭、覚えてねーの? ミスコンの上位は教育学部の子ばっかだったろ」

「興味なさすぎて、誰がミスコンで優勝したのかも知らないぞ」

「学祭の目玉なのに!?」

 浩文は「信じられない」と言わんばかりにてのひらで机をたたき、僕に顔を近付けた。避けるように顎を引いて、彼の肩をつかみ元の位置まで押し返す。

「でも、ミスターコンの結果だけはしっかり覚えてるぞ。浩文が自己推薦でエントリーして、一票も入らずに惨敗した記憶だけはな」

「それはもう忘れろ!」

 肩を掴んだまま浩文と目線を合わせ、僕は挑発するようにあざわらった。彼は一瞬にしてほおを赤く染め、逃げるように講義室の扉の方へと顔を背ける。

「……お?」

 直後、浩文は何かを見つけたらしく、のぞき込むように体を前のめりにした。彼の声と視線につられ、僕もその方向へと視線を向ける。

「……っ」

 僕はわずかに椅子から腰を浮かし、動揺をあらわにした。

 視界に映ったのは、名前すら知らない一人の女子学生。

 彼女は通路を迷いなく進み、徐々に僕と浩文の座席へと接近してくる。

 どこか見覚えのある異様な雰囲気に、全身がひどくこわった。

 特徴的なデザインをしたトップスとミニスカート、厚底シューズ、トートバッグ、チョーカー、髪飾り――黒を基調に統一されたアイテムの数々。

 服装とは対照的に色白な肌と、その目元には赤いアイシャドウ。

 髪色は一際異彩を放つ灰色がかった白で、ハーフツインにセットされている。

 繊細に作り込まれた人形が歩いているかのように、僕は一瞬錯覚してしまう。

 それほどまでに、彼女のビジュアルは完成されたものだった。

 ただ、そんな彼女との距離が縮まるにつれ、僕の心拍数は徐々に早まっていく。

 服の内側には熱がこもり、冷や汗がツーッと流れたのが感覚で分かった。

「おいおい、マジかよ……? 今日はだいぶ近くの席だな!」

 僕達の数列前の座席に、彼女は腰を下ろす。周囲に友達と思わしき人は見当たらず、様子から察するに一人で講義を受けるようだった。

「いやぁ、これはツイてるなぁ。こんな近くで拝める機会、めつにねーのによ」

「……な、なあ。有名人とかなのか、あの子?」

 最小限まで声を抑え、いつになく興奮している浩文に耳元で問う。

「まさか晋助、琴坂さんも知らないのか……? 二年の教育学部の中でもトップクラスの可愛さだし、『ミスコンに出場したら上位枠確定だ』って、かなり有名だろ?」

「琴坂さん……? どこかで聞いた覚えがあるような……」

「そりゃあ琴坂さんレベルの有名人なら、名前くらい聞いた事があっても……いや、待てよ? あ……そうだ、あの子だよ! 昨日、晋助の部屋で俺が話題に出した子!」

「あ、あぁー……」

 言われてすぐに思い出した。

 ネット上に投稿されていた一枚の自撮り画像。浩文の言っていたその子に似ているという女子は、この人の事だったのか。

「間近で見ると、本当に似てるよなぁ」

 浩文は昨夜のようにポケットからスマホを取り出してツイッターを開き、僕に例の画像を見せようとスマホを傾ける。

「お前、この投稿に『いいね』してたのか……」

「可愛かったから、ついな」

 浩文は「てへへ……」とおちやに頭をき、鼻の下を伸ばした。

 気色悪い浩文の反応に眉を寄せつつ、僕は改めて画像を覗く。

 さっき見た琴坂さんの顔を頭に浮かべ、画像の女子と比較した。

「……確かに、顔は似てるな」

「だよなぁ! まぁ実際、この画像の子なんかより、リアルモノホンの琴坂さんの方が断然可愛いけどなッ!」

「おい、声がデカいって……っ!」

 視界の隅に彼女の姿を残し、自身の鼻先に人差し指を立てる。そのまま数秒間、僕は彼女の様子をうかがいながら、今日までの講義の風景を思い返した。

「……あのさ。琴坂さんって、この講義に今まで出席してたか?」

「あん? どういう意味だ?」

「周りの人に対して興味がない僕でも、あんな目立った服と髪色をした女子が講義室内にいたら、さすがに認知できてたと思うんだけど……」

「あー、そっか。倫理学の講義を白髪で受けるのって、何気に今日が初めてか」

「……? 今日が初めて……?」

「あの子、その日の気分で髪色を決めてるらしいぞ。基本は白髪で過ごしてて、黒髪の気分の日はスプレーで染めてるんだと」

「……なるほど」

 黒髪でしか今まで登校していなかったのなら、認知できていなくても無理はない。

 それはそうと、わざわざ黒染めスプレーまで使って髪色を気分によって変えているなんて、ファッションに無頓着な僕からしたら到底考えられないな……。

「すげぇよなー。日本人だから黒髪が似合うのは当然っちゃ当然だけど、あそこまで派手な髪色でも似合っちゃうなんて」

 浩文は胸の前で腕を組み、琴坂さんに目を向けながら感心したようにうなずいた。

 服とメイクの雰囲気が髪色にマッチしているのもあるだろうが、元々の顔立ちも相当良いからこそ、人形を思わせるほどの完成度に仕上がっているのだろう。

「なぁ、晋助。本当にツイッターの子と同一人物だったりしねーかなぁ?」

「そんな奇跡みたいな巡り合わせ、あるはずないだろ」

「でもほら、見てみろよ。画像の子も東京住みだし、可能性あるって!」

「お前は東京在住者がどれだけいると思ってるんだ?」

 琴坂さんの住まいが東京だとは限らない。東京の大学に通っているというだけで、近隣の県から通学している可能性だって大いにありえる。

「アカウント名は、『コトネ』……か」

 浩文が目の前に差し出したスマホを手に取り、投稿された画像と文章を一通りぼんやりと眺めた。

 画像に映されたコトネは、黒が基調のセーラー服を着用している。下ろされた黒髪とナチュラルなメイクからは、せいで真面目そうな雰囲気が醸し出されていた。

 投稿文には「#東京在住 #17歳 #JK #裏アカ女子 #彼氏募集 #パパ募集」と、タグ付けがされている。

 その投稿には多くの「いいね」が付けられ、リプ欄には何件ものメッセージが届いていたが、それらは全て明らかに彼女よりも年上の男達からのものだった。

 どことなく犯罪臭を感じると同時に「こんな子でもパパ活をしているのか」と、見た目と行動のギャップについ驚いてしまう。

「投稿文からして高校生だろうし、琴坂さん本人ではないだろうな」

「それもそうだよなぁ。てかさ、琴坂さんってやっぱり友達いないのかねぇ? この講義もいつも一人で受けてるみたいだし」

「へぇ、そうなのか」

「琴坂さんの隣が丁度空いてっし、せつかくなら移動しようぜ! 俺、この機会にお近付きになりてぇわ……っ!」

「僕はここで待ってるから、浩文一人で頑張ってこいよ」

 座席から立ち上がった浩文を、僕は冷たくあしらった。

「ノリ悪いなぁ。晋助は何もしなくていいから、一緒に行こうぜ?」

 何もしなくていいのなら、なおさら一緒に行く必要はない。

「悪いな。次は僕も協力するからさ」

「とか言って、いつもついてきてくれねーくせによぉ!」

「そうだったか?」

 ねた表情を浮かべた浩文に対し、とぼけたように首をかしげる。

「まぁ、今回ばかりは本当に無理だな」

 机の上でほおづえをつき、琴坂さんの背中に目を向けた。すると彼女は不意に後ろを振り返り、僕はうっかり視線を合わせてしまう。

「……? 晋助、体調でも悪いのか?」

 慌てて顔を伏せると、浩文は僕に声をかけてきた。

「いや、それは大丈夫。大丈夫だけど……」

 歩いてくる彼女が視界に入った時、僕の身には確かに異変が起きていた。

 心拍数が早まったのも、冷や汗が流れたのも、原因は一つしか考えられない。

 中学一年生の時に付き合った初めての恋人の存在が、頭の中を覆う。

「苦手なんだよ、ああいうタイプって」

 琴坂さん――地雷系のファッションをした女子大生。

 内に秘めていたトラウマが、胸の奥底からジワジワとあふれ出る。

 彼女には関わるべきでないと、本能が僕に警告しているようだった。

 地雷系ファッションは「メンヘラファッション」と言い換えられる事もあり、それらは「闇(病み)可愛い」をコンセプトとしてコーディネートされている。

 基本的には黒が基調とされていて、白、ピンク、赤、紫のような色と組み合わせている場合が多く見受けられる。

 メイクの最大の特徴は泣き腫らした後のような赤い目元で、アイテムとしては厚底シューズ、奇抜なデザインのピアスやチョーカーなどが取り入れられているようだ。

 近しい存在に「量産型」というものもあるが、明確な区別はされていない。ただ地雷系とは異なり、白やピンクが基調とされている印象がある。

「まさか、晋助があそこまで地雷系を敬遠してたとはなぁ」

 昼休みの食堂にて、浩文は僕の向かい側の席に座って大盛りのカレーを食べながら、二限前のやりとりを思い返してふと口を開いた。

「僕の方こそ、浩文がああいう系統の女子を気に入るとは思わなかったよ。清楚系っていうか、もっと落ち着いた見た目の子がタイプなんだと」

「それもいいけど、地雷系も悪くない。ほら、もしも地雷系の女子と付き合ったら、いちに俺だけを愛してくれそうだしよ。それってめちゃくちゃ幸せじゃね?」

「そう単純な話でもないと思うけどな」

 浩文の浅はかな考えに、僕は顔を引きつらせた。

 安易に関わるべきではないからこそ「地雷」と呼ばれているのだと、浩文はよく理解しておくべきだ。

「てか、浩文は色んな女子に目移りしすぎだろ。好きなタイプとかはなしに、女子だったら誰でもいいのか?」

「誰でもいいわけはないだろ? まぁ、同年代のやつらと比べたら恋愛対象の範囲は多少広い方かもしれないけどよ。下は女子高生から上はシルバー手前までいけるし」

「それを多少とは言わねぇよ!」

「ドエロいボディのとしなら、一切問題ない」

「お前は結婚相手に困らなそうだな……」

 フォークにパスタを巻き付けながら、僕はある意味で浩文に感心した。

「そう言う晋助は、タイプの女とかいねーのかよ? いっつもはぐらかすけど」

「仕方ないだろ。本当に好きなタイプとかないんだから」

「強いてだよ、強いて。あえて言うならこの系統とか、何かしらあるだろ」

「強いて、なぁ……」

「目でもつぶって、自分に正直に思い浮かべてみろ! そうだな、例えば……」

 僕は「ちょっとくらい付き合ってやるか」と、浩文に言われた通り目を瞑る。

「下はショートパンツに、上は大きめのパーカーでラフな着こなし。外に出る時はいつもキャップを被っててー……」

 言われた特徴を、そのまま脳内で組み立てていく。

「髪は肩まで伸ばしてて、色は黒と青緑のインナーカラー。そんでもって、ちょっぴり大人な雰囲気のお姉さん……なんてどう?」

「まぁ、そういう系統はどちらかと言えばタイプな方だけど――って……ん?」

 浩文の声に違和感を覚え、僕は不審に思いながら目を開いた。

「あちゃ……バレちった」

「……千登世ちとせ、こんな所で何やってんだよ?」

 目の前にいたのは、行儀悪くカレーをほおっていた浩文――だけではなかった。

 浩文の口をてのひらで押さえ、そこそこ似ている声真をしていた一人の女子学生。

「く……九条くじよう先輩!?」

 口を解放された浩文は勢い良く彼女の方を向き、驚きの声を上げる。

「あ……手にカレー付いちゃった。晋ちゃんめ取る?」

「舐め取るわけないだろ……」

 パスタのトレーに載せていた紙ナプキンを手渡し、僕はあきれて頭をさすった。

「いきなりごめんねぇ。面白そうな話してたから、つい割って入っちゃったよ」

「前にも言ったよな? 大学では話しかけてくるなって」

「えー、どうしてー? 昔は『ちーちゃん』呼びだったのが、いつの間にか呼び捨てになってるし……。もしかして、遅めの反抗期?」

「その呼び方をしてたのなんて、小学生までだったろ。それに、千登世と話したくないのは反抗期だからじゃなくて、他人に注目されるのが嫌だからだよ……」

 僕は普段の生活の中で目立つような事はほとんどなく、目立ちたいとも思わない。それなのに、九条千登世――彼女の存在感は、僕にまで人の視線を集めてしまう。

 千登世は法学部に所属する三年生で、僕は幼稚園から大学まで一つ年上である彼女の背中を追いかけるように同じ進路を辿たどってきた。唯一違うのは大学の学部くらいだ。

 僕と千登世の実家は徒歩五分圏内の距離で、幼稚園から高校までは進路が被るのも不思議ではないのだが、まさか大学まで一緒になるとは想像すらしていなかった。

 親同士が同級生という事もあり、幼い頃から家族ぐるみの付き合いが続いている。としの近さもあって、僕達はまるで本当の姉弟きようだいかのように育てられてきた。

 千登世も大学入学前の春休みから一人暮らしを始めていて、実のところ僕が一人暮らしをできているのは、先駆けとなってくれた彼女のおかげである部分が大きい。

 しかし、似た環境で育ってはきたものの、僕と千登世の立場は真逆同然だった。

 一、二年生の頃は様々なスポーツサークルに参加していたようで、大学での顔はやたらと広く人望も厚い。加えて、去年の学祭ではミスコン三位という結果を残している。

 そんな千登世と話をしていれば、その相手は誰であろうと嫌でも注目されてしまう。だというのに、彼女は僕を学内で見かける度にしつこくちょっかいをかけてくる。

 ミスコンの影響で千登世にはファンも多く、中には少数だが過激派もいるようで、僕と彼女がおさなじみだと知り、嫉妬のあまり涙を流す者もいるほどだ。

「くそぉお……てめえぇ、俺の前で九条先輩と親しげに会話しやがってぇ……」

 その涙の主は、他でもない浩文なのだが。

 今日も今日とて、千登世には見えない位置から充血した瞳にたっぷりと涙をめ、ものすごい形相で僕をにらみ付けていた。

 浩文からの妬みを受けるのは慣れたものだが、見ず知らずの人から憎悪剥き出しの高圧的態度を取られた経験もこれまで何度かある。その時の恐怖は今でも忘れられない。

 千登世が嫌いなわけではないが、キャンパス内では関わりを極力避けたいのが本心だ。

「浩文が泣くから、お前はさっさとどっか行けよ」

「まるで彼氏みたい……っ」

「こいつは女絡みになると面倒だからだ!」

「まぁ、心配せずとも浩文君の彼氏にはなれないよね。アタシみたいな見た目の女の子がタイプって、ついさっき言ってたし」

 黒のキャップ、ショートパンツ、オーバーサイズのパーカー、肩まで伸びた黒髪にアクセントとなる青緑のインナーカラー、ちょっと大人な雰囲気のお姉さん。

 彼女が口にした特徴は、まんま千登世自身を指していた。

「どちらかと言えば好み、ってだけだろ。どちらかと言えば、ってだけだ」

「すごい強調するじゃん。あーあ、ちょっと期待してたのになぁー」

「どういう期待だよ……」

「禁断の愛?」

「禁断ではないだろ。幼馴染ってだけで、本当の姉弟ではないんだし」

 千登世は子供をからかうように、としてニタニタと笑みを浮かべた。

「つか、用がないならどこか行けよ。浩文からの殺気が段々と増してるから」

「あー、ちょい待って。今日はしっかり用があるからさ」

「ラインじゃダメな内容なのか?」

「丁度連絡しようとしてた時に見かけたから、直接伝えちゃおうと思ってね」

「……もしかして、シフトの相談か?」

「おっ! まさしくその通りだよ」

 やっぱりか、と僕は椅子の背もたれに寄りかかる。

「バイトで最近入ってきた新人の子いるでしょ? その子、昨日から高熱を出しちゃったらしくてさ。だから代わりに今日のシフト入ってくれないかなー、ってね?」

 大学の先輩後輩――実はそれだけでなく、僕と千登世はアルバイト先でも先輩後輩の関係にあった。

 慣れない土地でバイト先を探していた僕は、千登世が働いているコンビニが人手不足だという話を聞いて、そのまま働く流れとなったのだ。

 シフトは毎週固定で、僕は十七時から二十二時の木金日、千登世も同じ時間帯の火木日と、週に二回は同じ曜日に出勤している。

 店長の温厚な人柄もあって、職場の雰囲気はかなり良い。コンビニバイト自体を「面倒臭い」とは感じても、「辞めたい」とまでは今まで一度も思った事がなかった。

「わかった。今日のシフトは僕が出るよ」

「いやぁ、悪いね。やっぱり、持つべきものは可愛かわいい弟に限るよ」

 千登世は胸をで下ろし、頬を少し緩めた。

「いいなぁ……。晋助は放課後、九条先輩とデートかぁ……」

 浩文はテーブルに頬をつけ、無気力につぶやく。

「バイトはデートに含まれないだろ」

「同じ時間を二人で共有できるんだろ? それって実質デートじゃんか」

 あながち間違ってはいないような気もするが、納得はできない。

「浩文君も面接受けてみたら? 土曜シフトは安定してないし、大歓迎だよ」

「俺、面接受けます」

「間に受けるな。ただでさえ浩文の家は遠いんだから」

「えー……。毎週土曜、部屋に泊めてくれてもいいんだぞ?」

「嫌に決まってるだろ……」

「夜に一人は寂しいだろ? その寂しさ、俺が紛らわせてやるよ」

「そういう事なら、代わりにお姉ちゃんが行ってあげようか?」

「寂しくないからどっちも来るな」

 毎週泊まりになんて来られたら、貴重なイラストの練習時間が失われてしまう。

 そもそも、土曜日のシフトに千登世は入ってないし。

「それじゃあ、アタシはそろそろ行くとしようかな」

 用件を終えると、千登世は腕時計で時間を確認する。

「ランチ中にお邪魔したね」

「ああ。それじゃあ、また後でな」

 千登世は「楽しみにしてるよ」と別れ際に一言残し、小さくスキップしながら食堂の出入り口へと去っていった。

「なぁ、晋助。お前は母ちゃんと妹以外の女を部屋に入れた事がないって、前々から言ってたよな? 幼馴染なのに、九条先輩も入れた事がないのか?」

「一度もないな。お互いに時間もあんまりないし」

 千登世も僕と同じく、家事と大学とバイトに追われるせわしない日々を送っている。最近は就職活動の準備も始めたらしく、今まで以上に余裕がないようだ。

 それに、千登世は実際のところ僕の部屋に本気で来ようとはしていない。

 彼女は僕のイラストレーターになりたいという夢を応援してくれている数少ない一人であり、僕が何とか時間を作ってイラスト練習に励んでいる現状も知っている。

 本人から聞いたわけではないが、どうやら僕がイラスト練習をする時間を邪魔しないようにと、気を遣ってくれているようだった。妙な面で律儀な性格である。

「あんなれい系と可愛い系を兼ね揃えた完璧お姉さんが近くにいて、晋助はどうして付き合いたいとかならないんだ? 俺なら即お持ち帰りしてエロい展開に持ってくぞ」

「お前に姉がいたとして、恋愛対象として見れるのか?」

「いや、さすがに見れねーけど」

「それと一緒だよ」

「これから五時間か……」

 三限目の講義を終えた僕は一度マンションに戻り、リュックの中身を教材から制服に入れ替えて、アルバイト先のコンビニエンスストアへと向かった。

 マンションからバイト先までは徒歩十五分程度と通勤するには丁度良い距離にあるのだが、大学近隣という事からこの時間帯は城下大生が多く来店する。まぁ、元々の知り合いが少ない僕からすれば、特に気になる問題でもないのだけれど。

「おはようございまーす」

「おはようございます」

 レジカウンターの奥にある事務所に入ると、少し早くに出勤していた千登世がにこやかな笑顔で挨拶してきた。僕もマニュアル通り、彼女に挨拶を返す。

 事務所で制服に腕を通した僕と千登世は、前時間帯の店員から業務の引き継ぎを受けて、いつものようにレジカウンターの中へと入った。

「いやぁ、助かったよー。新人の子、私と店長以外の連絡先を知らなくってさぁ。今日は店長もいないから、一時はどうなる事かと思ったね」

「僕が出られなかったら、どうするつもりだったんだ?」

「その時は同僚に片っ端から電話かなぁ」

「面倒見が良いな。付き合いが長いわけでもないのに」

「困った時はお互い様、でしょ?」

 こういうところが、男女問わず千登世の人気が高い理由なのだろう。

 見た目が良いと同性から反感を買いやすいというのはよく聞く話だが、過去には千登世も悪い事をしていないのに自然と敵を作ってしまう時が何度もあった。だが、一度でも実際に千登世と関われば、彼女の人間性に当てられ皆等しく懐柔されてしまう。

 千登世レベルの完璧女子であれば異性は放っておかないだろうし、現にモテてはいるのだが、それでも彼氏がいた事がないというのだから驚きだ。

 もしも僕が千登世と幼馴染でなければ、浩文が言うように彼女と付き合いたいと思っていたのかもしれない。その場合、そもそもの関わりを持てていなかっただろうが。

「晋ちゃんはしょっちゅうアタシを『面倒見が良い』って褒めてくれるけど、面倒見が良いのは晋ちゃんもだよね」

「断れないだけだよ、頼まれると」

「仮に晋ちゃんが今日のアタシと同じ立場だったら、絶対同じように動いたでしょ?」

「まぁ、そうかもな」

「じゃあ、晋ちゃんもアタシと同じくらい面倒見良いじゃん。シフト代わってくれたお礼に、日本酒買ってあげようか?」

二十歳はたち未満に酒を勧めるなよ」

 誰かが困っていたら手を差し伸べるべきだという感覚は、幼い頃から千登世を見て育ってきたからこそ身に付いたもの。だから彼女は、僕の性格を理解し切っている。

「それはそうと、もう納品って来てるのか?」

 僕は背筋を伸ばしながら、窓の外へと目をやった。

「さっき配送トラックが出ていったから、もう検品できると思うよ」

「だったら、今日は僕が行くよ。レジが混んだら呼んでくれ」

 僕はレジカウンターを抜けて、バックヤードへと移動する。

 扉を開けて中をのぞくと、大量の段ボール箱が複数の台車の上に山積みで置かれていた。他の曜日と比較して、火曜の納品数はかなり多いようだ。

「こりゃ、いつも以上に時間かかりそうだな」

 バックヤードへと入り、納品物に一通り目を通してから、僕はすぐにでも検品を始めようと一番奥に積まれた段ボール箱の前に立った。

 それからしばらくの間、僕は黙々と作業をこなしていく。――が、終わりが見えかけたその時、バックヤードを含む店内中に、突如としてブザー音が響き渡った。

「あと少しだったんだけどな……」

 ブザー音は千登世がレジカウンターから鳴らしたもので、会計待ちの列ができてしまった事を伝えるものだ。

 僕は一旦作業を中断して、足早にフロアへと向かった。

 レジカウンターの様子を目にして、思わず「げ……っ」と声が出る。

 いつの間に、こんなに客が入店していたのだろうか……?

 検品作業に集中しすぎて、入店音を聞き逃していたのかもしれない。

 レジカウンターに駆け付けた時には、片方のレジに長蛇の列ができていた。ペンキの付いた作業着の職人集団と、学校終わりの学生が客の大半を占めている。

 千登世は必死にレジ対応をしていたが、どうやら弁当の温め希望が多く、客の流れが滞っているようだった。

 僕は客の列を割いてレジカウンターの扉を開き、もう片方のレジに立つ。

 千登世と二人で業務にあたると、列は順調に進んでいった。

 客の顔をいちいち見ている暇はない。

 僕も千登世も、客の動きとカウンターに載せられる商品にだけ意識を注いでいた。

 弁当におにぎり、カップ麺にパン、あとは酒やつまみ、それとタバコ。

 ――だからだろう。

 目の前に「それ」のみが置かれた時、僕の集中力はプツンッと切れた。

「……コン、ドーム…………?」

 思春期真っ盛りの中高生のような反応だったと、自分でも思う。

 僕は顔を上げ、その商品を持ってきた客を瞳に映した。

「……っ」

 目の前に立っていたのは、セーラー服に身を包んだ女子高生。

 気まずさで顔までは見られないが、彼女は何ら躊躇ためらわずに、それはもう堂々と、一箱のコンドームをカウンターに載せていた。

 女子高生の背後には人影が一つとしてなく、彼女が長蛇の列の最後の客だったのだとふと気が付く。

「……ねぇ」

 硬直して数秒、目の前の女子高生が僕に声をかけた。

「早くして、会計」

 高校生と思えないほど、彼女の声は妙に落ち着いている。……いや、少し違う。「落ち着いている」というよりも、どことなく生気のない、冷え切った声音をしていた。

「も、申し訳ございません……っ」

 僕は慌てて頭を下げ、バーコードリーダーで商品をスキャンする。

「えっと、紙袋はご利用になりますか……?」

「紙袋はいい。レジ袋を一枚」

「えっ……と、お会計、六百円になります……」

 女子高生が財布の中身をあさり始めると同時にレジ袋を取り出して、コンドームの箱をその中へと落とす。

「こ、こちら……商品になります」

 差し出された右手の中指と人差し指に、僕はレジ袋の持ち手を掛けた。

 その時、彼女の手に大きな違和感を覚える。

 彼女の指先には、ばんそうこうが貼り巡らされていた。

 それも、料理で失敗したなんてレベルの量ではない。

 まるで爪を隠すかのように、指先のほとんどが絆創膏で覆われていたのだ。

「…………」

 胸の奥がやたらとざわめき、何かが僕の脳裏に訴えかけてくる。

 僕は恐る恐る顔を上げて、目の前の女子高生の顔をうかがった。

「…………あ」

 声が漏れた。

 制服姿の女子の顔に、僕は見覚えがあった。

 友達とか、知人とかいう関係ではない。もっとそれ以上に、関係性は薄い。「関係性はない」と言っても過言じゃない。ていうか、話した事すら一度もない。

 ただそれでも、確かに記憶に残っていたのだ。

「琴坂……さん?」

 彼女の苗字みようじがパッと頭に浮かび、思わず声に出してしまう。

 人の視線をき付ける、灰色がかった薄暗い白髪。

 今日の二限の講義で、僕と浩文の前の席に座っていた人物。

 作り物のような白い肌に、引き立てられた目元の赤いアイシャドウ。

 ……間違いない。本人だ。

 全身を地雷系の服装とメイクで統一していた女子学生。

 僕の声を彼女は聞き取ってしまったらしく、「どうして私の名前を知ってるの?」とでも言いたげに、僕の瞳をまじまじと見つめていた。

 そんな彼女を前に、僕は混乱する。

 琴坂はなぜ、女子高生の制服を着ているのか――と。

 頭の中がグルグルと回り、一つ一つ記憶を遡っていく。

 そしてすぐ、僕はその答えに辿たどり着いた。

 昨日今日の出来事――浩文との会話の一部が、フラッシュバックする。

 琴坂が今着ているセーラー服は、数時間前にも一度見ている。

 画像に映っていた女子の髪色は黒だったが、何度思い返しても彼女と重なる。

「……『コトネ』……パパ活の――――」

 そこまで言って、僕は口を押さえた。

 大学内で名の知れている同学年の女子と、ツイッターでパパ活相手を募集している女子が、同一人物だった。僕には一切関係のない、たったそれだけの話。

 それなのに、僕は何を口走ろうとしていたんだ?

「す、すみません……ッ! 何でもありませ――ンッッ!?」

 襟元をつかまれ、琴坂にグッと引き寄せられる。彼女の顔と僕の顔までの間がたった数センチにまで縮まり、ふわふわとした甘い香りが鼻孔をくすぐった。

 突然の出来事に頭が若干のパニックを起こしているが、それでも今が危機的状況である事くらいは容易に理解できていた。

 琴坂が放つ異様な緊張感に押し潰された僕は、現実から意識を逃すように歯を食いしばり、限界まで強く目をつぶった。

「どこで、その名前を?」

「えっ……あ、いや……」

 視界をゆっくりと広げ、彼女と再び目を合わす。

 怒声を浴びせられるくらいは覚悟していたのだが、そんな僕の想像に反し、琴坂の声音はさっきと大して変わっていなかった。

 しかし、状況にまれた僕は完全に取り乱してしまい、言葉が詰まってなかなか出てこない。彼女はそれを感じ取ったのか、質問を切り替える。

「バイト、終わる時間は?」

「に、二十二時……です……」

 かすかに声を震わせながら、琴坂にだけ聞こえるくらいのボリュームで、途切れ途切れに何とか返答する。

「……終わる頃、駐車場に来る」

 彼女は制服の襟元から、ぱっと手を離した。

 琴坂は僕がパパ活の件を知っているのに驚きはしていたが、あくまで平常心のままのようだった。そんな彼女は僕の顔を確認するように今一度見て、

「またね」

 と、うっすら口角を上げてわざとらしく微笑ほほえみ、コンビニを後にした。

 緊張感から解放され、僕はバタンッと尻餅をつく。

「晋ちゃん、大丈夫!? 今のお客さんとトラブルでもあったの……!?」

 千登世はやりとりの一部を見ていたらしく、琴坂が去ると慌てて僕のそばに駆け寄ってきた。だが、今は問いかけに返答するのはおろか、腰すらもまともに上がらない。

 僕はその場でうつむいて、両のてのひらで顔全体を覆った。

 どうやら今日は、とんでもない厄日らしい。

 琴坂がコンビニを去った後、さっきまでの混み具合は幻覚なのではないかと疑ってしまうほどに、客足が一気にとお退いた。

 僕は千登世の肩を借りて立ち上がり、タバコ棚に寄りかかって呼吸を整える。すると心は徐々に平静を取り戻し、ものの数分でかなりマシな状態にまで回復した。

 千登世は事務所でしっかりと休憩をするよう促してくれたが、僕は「大丈夫」の一点張りを続け、検品作業をしにバックヤードへと戻った。

 それからは特に問題も起きず、時間は少しずつ過ぎていく。

 業務を一通り終えた頃には、勤務終了まで残り一時間を切っていた。

 その間も僕は気持ちが落ち着かず、終了時刻まではまだあるというのに、レジカウンターから店前の駐車場の確認を幾度となく繰り返していた。

 バイト終わり、琴坂が駐車場に現れる。

 強制的に交わされた対面の約束。

 目的はおそらく、パパ活の口止め。

 面倒事には巻き込まれたくないと、切実な思いが段々と募っていった。

 この残された一時間弱は、まるで生きた心地がしなかった。

 大きなストレスが精神面にのしかかり、胃がキリキリと悲鳴を上げる。

 時間がつごとに緊張感は増していき、時計が二十二時を指し示す頃には僕は心身ともに疲弊し切っていた。

 事務所に戻る直前で見た駐車場には、琴坂の姿はいまだどこにもない。

 夜勤シフトの同僚と入れ替わってからも、僕は制服を脱いで帰り支度を進めながら防犯用モニターで駐車場の様子を窺っていた。

「……約束の時間になっても来ないのかよ」

「ん? 晋ちゃん、今何か言った?」

「いや、別に……」

「今日、ずっと落ち着かなかったよね。行列をさばいた辺りから」

「……まあ」

「あの最後のお客さんと、何かあったの……? 顔はよく見てなかったけど、確か女子高生っぽかったよね?」

 心底心配そうに千登世は僕の顔をのぞき込むが、これ以上心配はかけまいと笑顔を繕って「本当に大丈夫だから」と言葉を返す。

 タイムカードを切った後、僕はマンションへと帰るように見せかけて千登世の目をくぐり、コンビニの駐車場で琴坂を待つ事にした。

 帰ってしまうという選択肢ももちろんあったが、琴坂が遅れてやって来て入れ違いになるのは避けたい。勤務場所が知られている以上、今逃げても意味はないだろう。

 それに、勤務時間中にあれだけのストレスを抱えていたのだ。問題は別日に持ち越さず、どうせなら今日で話は全て終わりにしてしまいたい。

 駐車場で「早く来い」と「ずっと来るな」の二つの思いを入り混ぜながら、彼女がコンビニに来るのを静かに待った。

 東京都内ではあってもここら一帯は特別栄えているわけではなく、街灯や建物のあかりは十分にあるが、繁華街のようなきらびやかさはじんとしてない。

 どことなく地元に似た雰囲気を感じ、パーキングブロックに腰を下ろしてぼんやりと周囲の景色を眺めていると、不思議と気持ちが落ち着いた。

 すると突然、視界がパッと真っ白に染まる。

 コンビニの灯りでも、街灯の灯りでも、はたまた建物の灯りでもない。それは僕に意図的に向けられた、自転車のLEDライトの灯りだった。

 僕は目を細めて、光源の奥をまっすぐに見つめる。

「どうも」

 そこにいたのは、自転車のサドルにまたがった一人の女子――待ち合わせ時間から十分以上遅れて、琴坂がようやく姿を現した。

 申し訳なさそうにするわけでも、ヘラヘラと笑っているわけでもなく、彼女は無表情を保ったまま右手を上げ、端的な挨拶を僕にする。

「……どーも」

 そんな琴坂の態度にうんざりとしながら、僕も同じように右手を上げた。

 彼女は大学で見た時と同じ黒を基調とした地雷系ファッションに身を包んで、前カゴの付いた実用的ママチャリに乗っている。地雷系と自転車の相性はあまりにもミスマッチで、どこからどう見ても違和感があった。

「着ていた制服はどうしたんだ?」

 本人を目の前にしやべれるか不安だったが、心の準備がある程度は整っていたからか、意外にもすんなりと声を出せた。

「一度家に帰って、着替えてきた」

「僕に会うからって、わざわざ着替えてきたのか?」

「まさか。帰るのが夜遅くになって、制服を着ていたら危ないからだよ」

「危ないって……通り魔の心配でもしてるのか?」

「警察に声をかけられたくない。面倒だし」

 琴坂は自転車を降りてタイヤを転がしながら、僕の近くに寄ってきた。

「ところで君、名前は?」

 そういえば、まだ名乗っていなかったな……。

うそを言っても無駄だから、正直に答えて。君の名前は控えてある」

「いきなり怖いな。一体いつ控えたんだよ……?」

「コンビニの名札にみようが書いてあった。それに、君の名前は元々知ってる」

「僕の名前を……?」

 付け加えられた一言に、僕は首をかしげた。

 琴坂に直接名前を教えた覚えは勿論、関わりすら今まで一度もない。

 どこで名前を知られたのかと、少しばかりの不信感を抱いた。

「だって君、毎週火曜に倫理学を受講してる人でしょ?」

「そ、そうだけど……」

 まさか同じ講義を受けているのを気付かれていたとは。にしても、倫理学は全学部対象の講義で受講者も多いというのに、よくもまぁここまで地味な学生を覚えていたな……。

 だが、それだけでは琴坂が僕の名前を知っている理由になっていない。いくら顔を知られていたとしても、名前までも知られるようなタイミングは今までなかったはずだ。

「浩文って人の話し声で、君の名前を知った」

 ……あいつかぁ。

 僕は目元に手を当てて、今までの講義前の雑談を振り返った。

 今日は琴坂が近くの席に座っていたのもあって比較的いつもより声を抑えて会話をしていたが、基本的に浩文の声はかなり大きく、それでいてよく通る。

 こんな形で名前を覚えられてしまうとは、想像すらしていなかった。

「すでに知ってるなら、僕が改めて名乗る必要なくないか?」

「念には念を、ね」

 変なところで用心深いな。

「……愛垣晋助。これで満足か?」

「学部と学年、それと年齢も教えて」

「どうしてそこまで……」

「早く」

 琴坂は表情を崩さないまま、質問の答えを催促する。

 答える義理は本来ないのだが、琴坂の態度を見るに下手にはぐらかせば話が長引き、逆に面倒になってしまいそうだ。

「文学部の二年で、としは十九」

「うん、知ってる」

「知ってるって何でだよ!?」

「さっきと同じ理由」

 浩文の馬鹿デカい声のせいで、僕の個人情報はいつの間にか一部筒抜けとなっていたらしい。あいつには一刻も早く厳重注意をする必要がありそうだ。

「それじゃあ、次の質問」

「まだ続くのか……? それだって、元々知ってる情報を僕の口から改めて言わせて、念のために確認するのが目的だろ?」

「違う」

 琴坂は若干食い気味に、はっきりと僕の発言を否定した。

「ここから先は何も知らない。知らないから、教えてほしい」

 どうやらここから、話は本題に入っていくようだ。

「それで、僕はお前に何を教えればいいんだよ?」

 琴坂は下を向いて少しの間を空け、再び僕と視線を合わせる。

 僕は唾液をごくりの飲んで、彼女の口が開く瞬間を待ち構えた。

「趣味と出身、あとは一人暮らしかどうかを教えて」

「は、はぁ……?」

 予想とは違った系統の質問に、僕は眉間にしわを寄せる。

 琴坂が話す前にめがあったから、てっきりすごい重要な質問をされるのかと思っていたのだが、そうでもなかったみたいだ。だが、それにしても――

「いや……いやいや、ちょっと待ってくれ! 名前やら大学に関する質問は確認のためだからまだいいとして、その質問に答える意味が分からないぞ!?」

「まあまあ。これから深く長い仲になる可能性もあるんだから」

「何だよ、そりゃあ……」

 できれば琴坂との関係は、今日限りで完璧に断ち切っておきたいのだが。

 そもそもこいつは、なぜこんな質問をしてくるんだ? それに今の彼女の立場なら、僕の素性なんかよりももっと優先して話さなくてはならない問題があるだろう。

「お前、口止めが目的で僕と待ち合わせをしたんだよな?」

「……口止め?」

「だから……琴坂は普段、パパ活をして金を稼いでるんだろ? それを知った僕が他の誰かに広めないように、くぎを刺しに来たんじゃないのかよ?」

「そんなつもり、最初からない」

 彼女は澄ました表情で、そう断言した。

「私のパパ活は、君がやっているコンビニでのバイトと同じようなもの。友達もいないし、他人からの評判だって興味ない。口止めする必要なんて、どこにあるの?」

うわさが広まったら、大学生活にも支障が出るかもしれないんだぞ……?」

「その時はその時で、どうでもいい。今だって家にいたくないからって理由で、なんとなく登校を続けてるだけだから」

「だいぶ肝が据わってるんだな……」

「脅しが通じるなら、良からぬ命令でもするつもりでいたの? 『バラされたくなければ服を脱いで土下座しろ』みたいな、同人誌さながらの条件を提示するつもりだった?」

「出さねぇよ、そんな鬼畜系エロ漫画家が考えそうな条件は!」

「随分と良心的だね」

「これが普通だろ……」

「いや、優しいと思うよ。……十分ね」

 まるで特定の誰かと比較するかのように、彼女は小さく声を発した。

「だったら、君が私を『脅す』なら、何を交換条件に提示するの?」

「どういう意図での質問だよ、それ……」

 星の少ない夜空を見上げ、僕は一瞬だけ思考する。

「『バラされたくなかったら、二度とパパ活なんてするな』……かな」

 僕の返答に琴坂は目を見開き、あつに取られていた。

「そんなに絶句するか? 普通」

「……男の人って、もっとハレンチな要求ばかりしてくるものだと思ってた」

「偏見たっぷりだな!」

 だがそれは、琴坂の立場で考えてみれば仕方がない事なのかもしれない。

 日常的にパパ活なんてしていたら、下心丸出しの男と関わる機会も多くなるだろう。頻繁に「そういう」要求をされ続けていたら、男に対して偏見を抱くのも無理はない。

「覚えとけ。少なからず、僕はそんな外道な要求はしない」

「それは……随分と良心的の二乗だね」

 独特な言い回しだな。

「けど、それとこれとは別。趣味と出身、あと一人暮らしかどうかを早く教えて」

 琴坂は脱線した会話を強引に引き戻す。

 質問に答えない限り、話は先に進まないらしい。

「趣味は絵を……イラストを描く事だ」

「へぇ、イラストね」

「文句あるのか?」

「ううん。良い趣味だな、って」

 イラストを描くのが趣味だと言うと小馬鹿にされる時もあるが、琴坂は僕の趣味を好意的に捉えてくれたらしく、小さく数回うなずいた。

「……んで、出身は埼玉。今は一人暮らしをしてる」

「ここから近いの?」

「まぁ、それなりに」

 琴坂は唇に指を当てて首をひねり、思案の表情を浮かべた。

「……なら」

 再び自転車のサドルに跨がり、琴坂は荷台をポンポンと軽くたたく。

「こんな場所で立ち話もなんだし、早速向かおう」

「向かうって、どこかの居酒屋とかか?」

「お店だと高く付く。だから、家に行くの」

「い、家……? それって、一体どっちのだ?」

もちろん、君の」

「ダメに決まってるだろ!」

 今日知り合ったばかりの女を、そうやすやすと自分の部屋に上げたくなんかない。だからといって、琴坂の家にも行きたくなんかはないが。

「連れていってくれないの?」

「そりゃそうだろ」

「それなら、別にそれでも構わない。見た感じバイトは徒歩通勤みたいだし、自転車でならいくら走って逃げられても見失わずに後を追える」

「どうしてバイト終わりに自転車から逃げなくちゃいけないんだよ!」

「仕方ないよ。私に声をかけちゃったんだから」

 今までの琴坂の言動からして、連れていかなければ本当にマンションまで追いかけてきてしまいそうだ。

「それで、荷台には乗ってくれないの? 待ってるんだけど」

 徒歩で自転車から逃げ切るか、大人しく琴坂と一緒に帰宅するか。

 どちらの選択を取るのが自分にとってマシな結果になるか、数秒考える。

「……警察に話しかけられたくないんじゃないのか? 二人乗りしてるところなんて見られたら、まず間違いなく職質されるぞ?」

「その時は全力で振り切って、けばいい」

「もはや走り屋の思考回路だな……」

 どちらにせよマンションまでついてくるつもりでいるのなら、一緒に帰った方がまだマシだろう。

 僕は琴坂の自転車に一歩近付き、荷台と彼女の背中を順ににらみ付ける。

 地雷系ファッションをした女子の後ろに乗るのは、それなりに抵抗があった。

「……なぁ。ハンドルは僕が握るから、お前が荷台に乗ったらどうだ?」

「丁重にお断り。スカートにシワが付きそうだし。……それとも、背後から抱きしめられて胸の圧迫感を堪能しながら官能運転をしたいなんて、淡い欲望が芽生えちゃった?」

「おかしな造語を作るな! 何だよ、官能運転って!」

 僕は頭を激しくきながら「あー、もう!」と荒々しく声を上げ、半分ヤケクソになって自転車の荷台にまたがった。

「方向指示、よろしくね。それと、危ないからもっと密着してくれない? 後ろから強めにホールドしてくれて構わないから」

「お、おう……」

 琴坂のきやしやな腹部に腕を回して、きっちりと固定する。

「尾骨付近に汚らわしい感触と、変なぬくもりを感じる」

「気のせいだ。さっさと進んでくれ。……ここからだと夜勤の人達に見られる」

 ペダルが踏み込まれ、東京の閑静な田舎いなか道を走り出す。

「……そういえば」

 自転車をぎ出してすぐ、僕は一つ重要な事を思い出した。

「僕、お前の下の名前すら知らないんだけど」

「コトネ」

「お前、本名でパパ活してるのか……?」

「冗談。あれは源氏名みたいなもの」

「なら、冗談なんて言わずにさっさと教えろよ」

 半ば強制ではあるが、彼女は初めて自分の部屋に上げる女の客人になる。

 彼女の素性は知らないが、名前くらいは最低限知っておくべきだろう。

 琴坂はペダルを漕ぎながら、口を開いて静かに答える。

 風の音に掻き消されかけたが、僕はどうにかその名前を聞き取った。

 ――琴坂静音ことさかしずね

 それが、彼女の本当の名前だそうだ。

 二人乗りで事故を起こす事もなければ警察に見つかる事もなく、僕と琴坂は無事にマンションまで辿たどり着いた。自転車を駐輪場に置いた後、僕は彼女を連れて部屋まで向かう。

「五分で着くなんて、かなり近いね」

「それは自転車だからだ。徒歩だと十五分はかかる」

「大学も駅も近いし、内装もれい。家賃は全部親持ち?」

「ああ」

「良い親御さんだね」

「まぁな。……着いたぞ。鍵開けるから、ちょっと待ってろ」

 マンション二階の通路を進み、扉の前で立ち止まる。扉を開錠してから周囲の様子を今一度確認して、僕はかすように琴坂を部屋に通した。

 浩文から聞いた話だと、このマンションには僕以外にも城下大生が数人住んでいるらしい。その人達の部屋がどこにあるかまでは知らないが、琴坂は学内だとそれなりに有名人のようだし、誰かに見られでもしたらと考えれば、警戒心は自然と強まってしまう。

 琴坂が部屋に入ったとほぼ同時に扉を閉め、僕はようやく一安心した。

「男の一人暮らしなんだから、多少汚くても文句言うなよ?」

「玄関を見た感じ、よく片付けられているけどね」

「人並みにはな。散らかってたら、友達すら部屋に上げられないし」

「友達って、女?」

「僕は親と妹以外の女を部屋に入れた事がないんだ。……琴坂を除いてな」

「つまり、私が君の部屋処女を奪ったってわけだね。ごそう様」

「部屋に初めて入った事を、わいに表現するな」

「処女は別に卑猥な単語じゃないと思うけど。ほら、初めて出版された本を『処女作』なんて言ったりもするし」

「そう言われれば、確かに……」

「あと、琴坂じゃなくて『静音』って呼んで。みよう呼びは好きじゃない」

「……静音、な」

 千登世と妹以外の女子を下の名前で呼び捨てするのは、高一以来な気がする。下の名前を呼んだだけだというのに、どこか落ち着かない。

「まぁ、とりあえず上がれよ」

 途端に気恥ずかしさが込み上がり、ほおに熱がこもった。僕はすように素早く靴を脱いで、琴坂――改め静音から顔をらし、慌ただしく廊下に足を踏み入れる。

 そんな僕の心境など知る由もなく、静音は「お邪魔します」と一言述べてから廊下に上がった。

 廊下には洗面所とトイレに繋がる扉がそれぞれあり、クローゼットも備え付けられている。静音は僕の背後にぴったりと付いて、その奥へと進んでいった。

 玄関の向かい側にある扉の先が、この部屋のリビングとなっている。僕は彼女と一度顔を見合わせてから、渋々扉を開いた。

「……広い」

 静音はリビング全体を見渡して、間を置いてからつぶやいた。

「キッチン、調味料と食器が多いね。自炊するの?」

「コンビニ弁当やら外食を毎日ってなると、食費だけで結構な出費になるからな。それに自炊の方が健康的だろうし」

「すごいね。一人暮らしの大学生とは思えないよ」

「そうでもないけどな。自炊するように心がけてはいるけど、時間がない時は冷凍食品とかカップ麺頼りになってるし」

「家事って、やっぱり大変なもの?」

「大変だな。猫の手も借りたいくらいだ」

「試しに猫を飼ってみたら?」

「それは良い考えかもな」

「逆にこなす家事が増えるだけだよ」

「話に乗ってやったのに、マジレスするのかよ!」

 せつかくの優しさを無駄にするな。

「……まぁ、とりあえず適当に座ってくれ。飲み物くらいなら出せるけど、何か飲むか? 麦茶か缶コーヒー、インスタントでもいいならホットコーヒーも用意できるけど」

「ホットのコーヒー二杯」

「二杯もいらないだろ」

「君と、私の分」

「自分の分くらい好きに選ばせろよ」

「違う種類だと用意が手間だと思って」

 どういう気の遣い方だよ。別にホットコーヒーでも構わないけどさ。

 僕はキッチンに入り、お湯を沸かす準備を始める。

「静音はどうして、わざわざ僕の住むマンションにまで一緒に来たんだ?」

「一人暮らしって、分かったから」

「僕が一人暮らしだったら、一体何かあるのか?」

「人を気にせず話せるでしょ。今みたいに」

「……そうだな」

 静音の言葉は何か意味を含んでいるようだったが、それはコーヒーを飲みながら聞いてやろうと、僕は一旦会話を後に回した。

 沸かしたお湯をマグカップに注ぎ、コーヒーの粉末をスプーンで雑に溶かす。完成した後はそれらを盆の上に載せて、リビング中央へと足を運んだ。

「お前……コソコソと何をしてるんだ?」

「別にコソコソはしてない。ただ部屋の中を物色してただけ」

「男の部屋を勝手に物色するな!」

 部屋の端に設置された作業用デスクの上には、デスクトップパソコンに液晶タブレット、もろもろの資料やイラスト集、そして描いてる途中のスケッチブックが広げられている。

「これ、君が描いたイラスト? 上手うまいね、驚いた」

 静音はスケッチブックを上から眺めながら、感心したように感想を述べた。

「まだまだだよ、そんなんじゃ」

 ローテーブルの上に盆を置いて、彼女の言葉を否定する。

「逆に、どこがまだダメだと思うの?」

「そのキャラクターの絵だって、構図が微妙だし……。スケッチブックを見ると分かるけど、僕はてんで風景画が描けないからな」

「ちょっと見てもいい?」

 静音の確認に一つうなずくと、彼女はスケッチブックを手に取った。折り目が付かないよう丁寧にページをめくり、一枚一枚に目を通す。

「描き始める前に、もっと立体物と光の位置関係を意識してみたら? 光の当たり方で影にも濃さの強弱が出るし。あとは建物の描く角度を変えれば、もっと良くなると思う。景色を撮った写真とか、漫画を描く用の背景カタログを参考にすれば、構図も学べる」

 続けて彼女は「一ページ使ってもいい?」と僕に問い、了承すると机に転がっていたシャーペンをつかんで、レクチャーするように絵を描き始めた。

「――こんな感じ。普段はデジタルで描いているんだろうけど、アナログで描くならせめて鉛筆にした方がいいよ。シャーペンだと線での表現がしづらいから」

「……上手いな。ひょっとして、静音も絵を描いたりしてるのか?」

「たまに。ほんの趣味程度」

 ほんの趣味程度ってレベルには、とてもじゃないが思えない。

「普段はどういう系統のを描いてるんだ?」

「君と同じような系統だよ」

 静音はポケットからスマホを取り出し、一枚の画像を表示して僕に見せてくれた。

 そこに映っていたのは、メガネを掛けた黒髪美少年とヤンキーのような風貌をした金髪イケメンの高校生二人組が、肩を並べて仲良さげに歩いているデジタルイラストだった。

 背景は夕焼けの道路で、建物や信号などの立体物まで丁寧に描かれている。構図にキャラデザ、色彩や影の入りからも、彼女のイラストに対する強いこだわりが伝わってきた。

「お前、どこかで描き方を習ったりしてたのか……?」

「習ってない。でも、親の影響は受けてるかも」

「親御さん、芸術関係の仕事をしてるのか?」

「漫画家。芸術に含まれるのかは分からないけど」

「それ、本当に言ってるのか……!?」

 予想すらしていなかった静音の回答に、僕は興奮混じりの声を上げた。

「数年前までね。特に売れないまま引退して、今は高校の美術教師」

「あ……そうだったのか……」

 自分の将来を思い浮かべて、僕は少々肩を落とした。

 イラストレーターと漫画家は別物だが、絵を描いて金銭を得る点においては共通している。絵で稼ぐ事がどれだけ難しいか、現実の厳しさをヒシヒシと感じさせられた。

「君は、イラストレーターになりたいの?」

「……ああ」

「いいね、夢が持てて。私は諦めたから……羨ましい」

「確か、教育学部だったよな。となると、夢って教師か?」

「よく分かったね。小学校の先生だよ、目指していたのは」

「小学校の先生、か……。でも、折角大学にまで入学したのに、何が理由で夢を諦めたんだよ? ……単位が取れなかったとかか?」

「単位は順調に取れてる。でも、もう決めた事だから」

「……そうなのか」

「けど、君は頑張ってね。……応援してる」

 静音はふっと口角を上げ、小さく微笑ほほえんだ。

 彼女が不意に見せた表情に、僕の胸は一瞬ドキッと反応する。

「冷めちゃうし、そろそろコーヒーをいただこうかな」

「あ、ああ……。そうだな」

 ローテーブル越しに向かい合って座り、静音はマグカップを手に取った。

「バイト終わりで遅いけど、ごはんは食べないの?」

「お前が帰ってからにするよ。明日は登校時間も二限からで余裕があるから、多少遅くに寝ても問題ないし」

「気にせず食べればいいのに」

 静音はコーヒーをチビチビとすすり、「ふぅ……」と一息つく。円を描くようにマグカップを揺らしながら、彼女は僕とゆっくり視線を合わせた。

「君はどこで、私がパパ活をしているって知ったの?」

 やはり、その話になるか。

「僕というよりも友達……浩文が、ツイッターで静音を見つけたんだよ。最初は『静音に似た女子高生』として見ていたけど、似てるどころか本人で……まぁ、全部偶然だ」

 こんな状況になるとは、昨日までの僕は夢にも思っていなかった。今でもにわかには信じがたいし、夢なら早く覚めてほしいくらいだ。

 僕は静音の服をジッと見つめ、初めてコンビニで話した時の姿を思い返す。

「ずっと気になってたんだけど、静音は女子高生としてパパ活をしてるんだよな? 年齢を偽って、セーラー服まで着て……それって、何か特別な理由でもあるのか?」

「あぁ、それね。単純に、パパからのウケが良いからだよ。十代と二十代、高校生と大学生、たった数歳の差とブランドの違いで、食い付きは全然違うものでさ」

「黒髪にしてたのも、それと同じ理由だったのか?」

「ご名答。パパ活の日にだけ黒髪に染めるのも、せいな女の子を演出するため。素朴な見た目の方が、需要が高いから」

 静音は「大人は疲れてるから、若くて純粋な子にいやされたいんじゃない?」と、身を包んでいる地雷系の服を優しくでて、達観した物言いで語った。

「けど……コンビニで会った時にはセーラー服を着ていたし、今日もパパ活の予定があったんだよな。それなのに、どうして白髪のままだったんだよ?」

「それは偶然。朝に黒スプレーが使えなかったから、仕方なく白髪のまま登校した。結局、今日はパパ活に行くのやめちゃったんだけど」

「髪を黒染めできなかったからか?」

「まさか。行けばお手当はもらえたし、そんな理由じゃやめたりしない」

「それじゃあ、なおさら何で……」

「君と知り合えたから、かな?」

 静音はほおを赤く染め、うっすらと笑みを浮かべた。なぜだか僕の頬までもが赤く染まっていくのを感じ取り、慌てて彼女から視線をらして口元を右手で覆う。

「……意味が分からないな」

「君なら私を、受け入れてくれるんじゃないか……ってね」

「どんな直感だよ」

「でも、こうして部屋に上げてくれた」

「まぁ、確かにな……」

 静音を受け入れているつもりはないが、この状況が作られている時点で、彼女の感覚は間違っていなかったと言えるだろう。

「だって君、あからさまに心配してたから。私の指を見て」

「別に心配したつもりは……」

「顔に出てたよ。さっきも、今も」

 どこかうれしそうに、静音は両の指先を絡ませた。

「……いつから、パパ活なんてし始めたんだよ?」

「二年生に上がる前の春休みから」

 となると、おおよその活動期間は四、五ヶ月といったところか。

 随分と慣れた様子だったから、てっきりもっと長く活動しているものだと勝手に想像していたが、意外とそこまで月日はっていないらしい。

「これまで、何人くらいと会ってきたんだ?」

「数えてすらない。春休みは時間があったから、相当。学校が始まってからは、早く講義が終わる火曜と土日のどちらかで、週に二人と会ってた」

 浩文との雑談を思い返し、僕はようやくに落ちた。静音が前回までの倫理学に黒髪で登校していたのは、毎週火曜は決まってパパ活の予定が入っていたからというわけだ。

 しかし、今肝心なのはそこではない。

 週に二人ペース……他のパパ活をしている人達の事はよく知らないが、僕からすればこの頻度はかなり多いように感じる。

「静音は……どうしてパパ活なんてしてるんだよ?」

「お金を稼ぎたいから」

「だからって、わざわざパパ活をする必要なんて……。額は劣るだろうけど、もっと違う方法で安全に稼いでいった方が、きっとお前の将来からしてみても――」

「それくらい、私だって分かってる!」

 静音が突然放った大声に、僕の体はビクッと大きく震えた。

「そんな悠長な稼ぎ方じゃ……資金がまるまで、うんと時間がかかる」

 ゆがんだ表情を隠すように静音はうつむいて、ゆっくりと呼吸を整えた。

 僕は口を固く閉じて、彼女の言葉に耳を傾ける。

「私は、あの家にいたくない。……あの家に、帰りたくない。一日でも、半日でも、一分でもいいから早く、あの家から解放されたいの」

 一度整えられた呼吸が、またしても徐々に乱れていく。

 静音は拳を強く握りしめ、振り絞るように言葉を吐き出した。

「……パパ活をしない日は、大学に入り浸ってる。家に帰らないで済むように、友達もいないから、ずっと大学の図書館で……時間を潰してきた。土曜日でも、日曜日でも、祝日でも……『大学で勉強する』って、あの人にはそう説明して」

 あの人……静音の家族の誰かだろうか? 詳しい事情までは分からないが、彼女の話を聞く限り、家庭環境に何かしらの問題を抱えているのは、まず間違いなさそうだ。

「……パパ活をしていて……つらくないのか?」

「辛くないはずない……。一緒にいる時は性の対象としか見られなくて、心から愛される事もない。それでも心を切り売りして……幸せを感じるのは、お金を貰った時くらい」

 パパ活という稼ぎ方は、静音が数ある選択肢の中から悩んだ末に選んだ、一人暮らしの準備資金を貯める上で最も効率の良い方法だったのだろう。

 しかし、彼女はパパ活そのものを望んでしたいとは思っていないし、それをしている自分を受け入れられていないように感じる。

 目標のために金銭を稼ぐのは立派だが、それが精神状態に悪影響を及ぼしているのなら元も子もない。今のまま無理して体を売り続けるのは、少なからず僕は反対だ。

「表情から察するに君は勘違いしてるみたいだけど、私がパパ活相手とセックスした経験は、これまで一度もないよ」

「え、そうなの……?」

 予想外な発言に、思わず間抜けな声を出してしまった。

「けどお前、コンビニでコン……コンドームを買ってたよな?」

「コンドームは、私にとってのお守り」

「コンドームが、お守り……?」

 静音の言っている意味が理解できず、僕は眉をひそめて聞き返した。

「私は好きな人以外とセックスしたくない。けど、もしも……本当に危険な目に遭ってレイプされそうになった時は、コンドームを着けてもらえるように懇願するの。いざという時の、頼みの綱みたいなもの。パパ活に行く時は、いつも持ち歩いてる」

「いつも持ってるなら、使ってないのにどうしてコンビニに買いに来たんだよ」

「使用期限が迫ってたから」

「……どういう事だ?」

「薄々感じてはいたけど、君って童貞?」

「いきなり失礼すぎるだろ!」

「でも、ビンゴでしょ?」

 その通りではあるが、認めたくはない。

「……僕ってそんなに、童貞っぽさが滲み出てるのか?」

「それなりに。レジで箱を見た時の反応からして、未経験なのは丸分かり」

 確かにあの時は、自分でも情けないくらい動揺していた。

 思い返すと、恥ずかしさで耳が段々と火照ほてってくる。

「ひとまず話を戻すけど、コンドームには使用期限があって、それを過ぎていると簡単に破れやすくなるの。童貞の君には理解できないかもしれないけど」

「童貞だからって馬鹿にするな」

 使用期限があるってのは初耳だったけど。

「私が持っているのは数年前に知人から貰った物だから、もう少しで寿命だった。それで今日買い替えておこうと思って、コンビニに入ったの」

「そしたら店員が、たまたま『コトネ』を知っている人間だった……と」

 そして、今に至る。偶然とは何とも恐ろしいものだ。

「言った通り、私はパパ活を隠しているわけじゃない。周りからの印象なんてどうでもいいし、バレても別に構わなかった。……けど少しだけ、君と話をしてみたくなったの」

 静音は両手で包むようにマグカップを持ち、そっとコーヒーを口にした。

「……で、ここに来てから考えた」

 改まって、静音は僕の目をジッと見た。

「ここを家出中の隠れ家にしようと考えてるなら、お断りだぞ」

「そこまでずうずうしいお願いをする気はない」

 静音はコーヒーを飲み終えると、ローテーブルの端にマグカップを置いた。すると突然、彼女は前のめりになって僕に顔を近付け、ぎゅっと手を握ってくる。

「私はあくまで、君とは『WIN-WIN』の関係を築きたい。だから、安心して」

 ニヘッと、静音はいたずらっぽく不敵な笑みを浮かべた。

「単刀直入に言うと、この家に『住む』とまではいかないけど……『通いたい』の」

「通いたい、って……」

 定期的に僕の部屋に訪れて、家の門限ギリギリまで時間を過ごさせてほしい。

 静音は間接的に、そう言っているのだ。

「けどそれだけじゃ、私が得をするだけで君にはメリットがない。だから一つ、良い条件を思い付いた。……私も君も幸せになれる、最高の契約」

「け、契約……?」

「そう。契約名は――」

 ――通い妻契約。

 静音は僕に、そんなオリジナリティあふれる契約を提示してきた。

「私がこの部屋に通って、まるで妻のように家事を手伝ってあげる。料理も、洗濯も、掃除も、それ以外の雑用も。だから私を、この部屋にこれからも上げてほしい」

「なっ……」

「そうすれば、君は今より自由に時間を使える。イラストを描く時間……夢を追うための時間も、十分に確保できる。それに私なら、その練習にだって付き合える」

 契約内容を一通り聞いた後、僕は静音の手を優しくほどく。

「『通い妻契約』って、第三者に聞かれたら変に勘違いされそうな契約名だな」

「それなら『にゃんにゃん契約』にする? 『猫の手も借りたい』って言ってたし」

「もっと変な勘違いされるだろ」

「にゃんにゃん」

 静音は至って真面目な表情のまま、両手で猫のようなポーズを取ってみせた。

 正直なところ、大学とバイトに加えて家事も自分で行わなければいけない今の生活では、イラストレーターを目指す上での練習時間が全くと言ってもいいほど足りていない。

 家事全般を引き受けてくれるというのはかなり魅力的な話だし、イラスト練習にまで付き合ってくれるともなれば、これ以上ないくらいの好条件だと言える。

「……その条件、確かに最高だな」

「でしょ? それじゃあ、契約成――」

「けど、却下だ」

 僕の回答に、静音は戸惑った。

 理解しがたいといった様子で首を斜めに傾け、僕に問う。

「……何で? 君も今、『最高だ』って……」

「最高ではあるけど、それは受け入れられない」

 静音は変わったやつではあるけれど、悪い奴ではない。それだけは分かる。

 だが、彼女を見ていると――心の奥底が、ズキズキと痛むのだ。

 元カノとの記憶が「静音には関わるべきじゃない」と、僕に訴えかけている。

 静音が提示した「通い妻契約」が好条件であるのに変わりはないが、特に苦手意識を持っている地雷系の女子をいつでも部屋に招き入れるのには、少なからず抵抗があった。

 それに彼女は、見た目だけじゃない。

 ついさっき見せた感情の動き――一瞬にして激しく揺れた情緒を見るに、静音はおそらく、いや確実に、心に何かしらの「問題」を抱えている。

 彼女は紛れもなく――「メンヘラ女子」だ。

 次第に心拍数が上がっていき、服の中に冷や汗が流れる。

 メンヘラがトラウマである僕にとって、静音は本来避けるべき対象。

 いくら条件が良くても、彼女から提案された契約を受け入れられるはずがない。

「……契約はしない。ただ、絶対に来るなとは言わない」

 それにもかかわらず、僕は彼女に手を差し伸べようとしていた。

 自身の胸に手を当てながら、必死に心を落ち着かせる。

「それって……」

「たまになら、部屋に上げてやる。本当に行く場所がない時、ここに来い」

 静音はどことなく、初恋の人に似ているような気がした。だというのに、なぜだか今の僕は、そんな彼女を少しだけなら支えてみたいと、気まぐれにも思ってしまっている。

 さらに戸惑いながら、静音は改めて僕に条件を確認してきた。

「家事をしなくても、イラストの練習に付き合わなくても、私を部屋に上げるの……?」

「たまにならな」

「どうして、そんな……」

「お前にも同じ大学で話せる『友達』の一人くらい、いた方がいいだろ?」

 僕は続けて、「危なっかしくて、心配だし」と付け足した。

「……そういう事なら、わかった」

 僕の言葉に、静音は小さくうなずく。

「『通い妻契約』は白紙。……その代わり、友達になる契約を結ぶ」

「友達になるのに契約なんて必要ないだろ」

「そうなの? でも……うん、そっか。そうかも」

 静音は視線を落とし、声音を徐々に明るくしながら納得した。

「友達として必要とされるように、頑張る」

「そんな事を頑張るな」

「友達なら、これから何て呼べばいい?」

「別に、何でもいいよ。好きに呼んでくれ」

「じゃあ、晋助」

 彼女は「にへへ……」と口からこぼし、愛らしく笑った。

 感情をほとんど表に出さない静音だからこそ、不意に見せる表情からは、まっすぐに気持ちが伝わってくる。

 こういう笑い方もできるのか、と思わず一瞬見れてしまった。

 ……まったく、調子が狂ってしまう。

 こうして僕は、琴坂静音と――今後二度と関わるつもりのなかった「メンヘラ女子」と、つながりを持つ事になったのだった。

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