正月の筝曲

美池蘭十郎

第1話

 アスファルト敷きの路面を雑種の犬が力ない足取りで歩いていた。後ろを歩いていると、犬は尻尾を振りながら私に近づいてきた。犬は、腹を空かせているのか、哀切な声を発すると、私に身体を摺り寄せてきた。

 空はどんよりと曇り、湿気を帯びた空気が肌に冷たく感じられた。

 痩せて見栄えのしない犬を見ているうちに、不憫になった。私には、この犬に今すぐ与えるものがなかった。しばらく歩いたが、犬は私から離れようとしなかった。犬の様子を確認し、コンビニを見つけて中に入ると、店内を回りペットフードがないか確認した。犬用の商品棚は、売り切れたのか欠品になっていた。

 外の犬の様子を見ると、じっと私を見続けて同じ場所にいた。仕方なく、私は自分の好物のどら焼きを見つけて購入した。犬の好物が何かわからずに、思わず手に取った。犬に、自分の好物を与えよう――そう思いつく自分を滑稽に感じると、笑えてきた。

 頬にポツンと、冷たい雨滴が当たったので、空を見上げると大きな黒雲が集まり、雨が降り始めた。私は、コンビニに戻ると、透明のビニール傘を買い求めた。犬は私の後をつけて来て、しばらくコンビニの店名が表示された軒下に蹲っていた。私がコンビニを出て歩き出すと、細い路地に向かって犬は走り出し、視界から姿を消した。

 シャワーヘッドの蜂巣の形をした散水板から、勢いよく流れ出る水のように雨が降り注ぎ、路面を強く叩いた。ザーッと、切れ目のない音が、傘の上で弾かれ流れ落ちていく。雨は風に煽られて、傘で覆いきれない膝の下や、肩の周辺を容赦なく濡らした。マンホールの上に足をのせて、踏み出した途端、私はみっともなく転倒した。腰を強く打ったため痛みが走った。

 私は、犬の行く末が気になった。雑種の痩せ衰えた犬を引き取って家で飼う篤志家が、犬の前に突然出現するとは思えなかった。

 痩せた犬、降り注ぐ豪雨、身体の痛み……、世界が悲しみの色に染まって見えた。それでいて、私には、説明しがたい不条理な感情……、エレジーを聞くときのように、懐かしい気分が込み上げてきた。

       ※

 事務所に向かう電車の中で、偶然にも大学時代の先輩と出くわした。

「よう、箭内、久しぶり」先輩は、私が座席にいるのを見つけ、話しかけると

「どうや、社会人生活には慣れたか?」

「まあ、ぼちぼちですわ」

「お前は大学出て、三年目やろ? 学生時代と違って、人生がどうだとか……、世界がどうなるとか……、そんなこと、何も思わなくなる。怖いよなあ。あかんよなあ。サラリーマンが一番あかん」と、私の境遇を皮肉った。

 先輩は、二年間建築士事務所に勤めた後、一級建築士の資格を取得し、神戸市中央区で独立開業していた。

 事務所開きの時に、阪神電鉄「神戸三宮」駅から十五分歩いて、お祝いに鉢植えの胡蝶蘭とお菓子を手渡した。先輩は

「お前は、こんな無駄遣いをするから好かん」と、嘯きながらも楽しそうな表情で、椅子をすすめ、お茶を淹れてくれたのを思い出した。先輩は、普段から口は悪いが、害意のない人だった。――この人だけは、少しも変わらない――私は、そう思うと少しだけ嬉しくなった。

 電車の中に腰かける先輩に別れを告げると、私だけ下車して地下鉄の出口に向かった。

 地下鉄堺筋線の「堺筋本町」駅を出て、傘を差しながら十分ほど歩いた。勤務先の生命保険会社ビルの一階で待っていると、上階から降りてきた同僚とすれ違った。

「これから、大口先二件に契約してもらう。どっちも、病院経営者だ。羨ましいか? まあ、箭内も、もうちょっとの辛抱だな」

 私には同僚の言葉が空々しく、耳に響いていた。同僚の男の前職は、製薬会社のMR(医薬情報担当者)で、私よりも七歳年上だ。医師との太いパイプを武器にした高額保険のセールスでは、直近一年間を見ても群を抜いて優秀だ。対する私の人脈は、保険セールスに活かせるものではなかった。

「俺も頑張ります」私は、明るい声で答えようとした。私の喉の奥から出た声は、うわずっていた。正直、同僚の営業成績が妬ましかった。私が、演じる強がりを見抜かれたとしたら、絶望しか残らない気がした。

 十四階の事務所に戻った。事務所内は整然とデスクが並べられ、各部署の責任者が上手に座り、年商一億円を超える営業成績優秀者には、個室が与えられていた。営業などで外部に電話するために、専用のコーナーがあり、一席ごとにブースで区切られていた。

 私が自分の席に近づくと、営業所長が近づいてきて

「外は、雨か……、随分、濡れているねえ。タイミングが悪かった。不運だったな……。それで、結果はどうだった? 成約につなげたか?」と、心配そうに尋ねた。

「ええ、まあ。ご主人に定期保険、奥さんに医療保険に、加入してもらいました」

 二人の横を鋭い目つきの筋肉マンが、大きな声で「頑張って、大口とってきます」と告げて出口に向かった。

「競争馬は、パドックで鼻息が荒い馬は末脚がきかず、おとなし過ぎる馬も要注意だ。同様に、優秀な営業マンも、極端に挙動がおかしいものは見当たらない。だが……、あいつは、いつも鼻息が荒いのに、確実に成績を上げてきている。不思議な男だよ。まったく……」と、所長は筋肉マンの後姿を視線で追いかけた。

 私は、この一年間、親類や友人を訪ねて勧誘し、成約しても負い目ができたと悩み、断られて傷つき、返答を先延ばしにされて気を揉んだ。

 東大阪市に住む叔母の家を訪ねると、ちょうど油絵で静物画を描いているところだった。テレピン油の匂いがした。叔母の絵は完成間近で、テーブルの上で重ねられた洋書の横に、湯気の立ち昇るコーヒーカップが描写され、独特のムードを醸し出していた。

 叔母は、スケッチブックに描いたラフスケッチと見比べながら、キャンパスに向き合っていた。私が見たところ、コーヒーの湯気の微妙な雰囲気が気に入らない様子だ。

「あら、もう来たの? 三時ごろかと思っていたわ」と口を開くと、叔母は何度も描きかけの絵に近づいたり、離れたりしながら見直した。

「ここの手直しをするから、そこに掛けて待っていてね」と油絵の中央を指さすと、私に椅子をすすめ、三十分経過してから、絵筆を洗いボロ布で拭き、話に応じてくれた。

 誰にとっても、私は招かれざる客に思えて、不甲斐なさに胸が押し潰されそうになった。私の予想に反して、叔母は、叔父に電話で相談すると、前向きに私の話に耳を傾け、高額の保険に入ってくれた。

「あなたや、あなたのお母さんに義理立てして、保険に加入したわけじゃない。あなたの話を聞いて、必要性があると感じたから申込書にサインしたの。気にしないでね」と、叔母は上機嫌で、目の前の紅茶を飲むようにすすめた。私は、やっと救われた気がした。

 近くまで来たからと、嘘を言って休日に大阪市内の親友の家を訪問した時は

「お前のすすめなら、信用して加入するよ」と、僅かに説明しただけで、印鑑を片手に持ちサインしてくれた。

 親友の母親は「私も、夫に先立たれた時に、保険セールスをしていた。職域セールスなのであなたほど、苦労はしていないけど、気持ちが痛いほど分かるわ」と、自分も月額負担の大きい養老保険に加入してくれた。

 帰宅時も、親友と二人で外に出て見送り手を振ってくれた。私は感傷的になり、自然と涙が湧いて出て来た。

 対照的に尼崎市の友人を訪ねたときは、愛想よく母親が出て来て応接した。だが、友人は私の申し出を言下に断ると

「金の切れ目が、縁の切れ目や。まあ、そういうこっちゃ」友人はジョークのつもりなのか、本心なのか、冷たい口調で告げると、それ以降は、電話をしても出てこなくなった。

 表に出ると、道路の端のアスファルトの割れた路面に、タンポポが根を張り、黄色い花を咲かせているのが見えた。人に踏まれても、犬に小便をかけられても、美しく小さな花は風に揺れ続けている――私は、小さな花でさえ、内に秘めている強さに、今まで気づかなかったのを恥ずかしく感じた。

 私は断られるたびに、傷つき将来の展望を見失いそうな心境に陥っていた。ビジネスが私生活を蝕みながら、鋭く食い込んでくる。私はいつまで、今の状況に耐えられるかと、自問した。

 同じ営業所の同期では、二人が支社で表彰されMDRT(百万ドル円卓会議)のメンバーに選出されていた。二人の前職は都市銀行、証券会社といずれも金融関係で、それぞれが終身保険、変額保険のセールス実績で、他を上回る営業成績が認められていた。

 私は不動産会社のセールスでは、分譲マンション販売で一年間に百件成約をとっていた。契約者は全員住宅ローンの保障のために、団体信用生命保険に強制加入することが原則になっていた。

 分譲マンションは、二千万円~三千万円の物件である。人材会社を通じて、保険セールスにスカウトされ、フルコミッションで働くと、現況の倍以上の年収が見込めると説明を受けて、自分で転職を選択した。だが、転職後の過去の二年間の私の成績から判断すると、誤算だった。

 人材会社のスカウトマンは「あくまでも、ご自身で判断してください。最終的にどうなるかは、自己責任になりますが……。自信はありますか?」と、尋ねるのを忘れなかった。私には、自信があった。

 私は生命保険会社に入社した当初は、営業所長の協力を得て早々に成約につなげ、支社内でも期待を集めていた。会社には大学の同窓も複数いたため、新米の私を庇って盛り立ててくれていた。

 今は枯れた井戸のように、営業先は枯渇し、桶一杯の水を汲み上げるのにも苦労していた。

 営業所長は、現状打開策として人脈作りの重要性を説いた。所長の話では、小・中学校、高校、大学の同窓会への出席と、異業種交流会への参加で、活路を開いた所員が複数存在している。

「人脈を構築したら、情報交換を活発にしろ。相手に役立つことをして、信用されるとあとでそれが生きてくる」

 同窓会はいずれも、秋ごろに開催されている。三月の今の時期に、参加できる異業種交流会を調べてみた。移動時間が短くて、費用負担が少なく、参加人数の多い交流会を見つけた。

 スマホで検索してみたところ、多士済々のメンバーが集まり、好評を博している様子だ。

 私は、異業種交流会への参加には気乗りがしなかった。

 正直言って、他人と会って話すことも気鬱になり、一人で過ごしたいと思う時間が増えていた。私が支社のデスクに腰かけて、パソコンを開き、セールスプロセスの見直しを何度もしていると、所長は表に出て足で稼いでくるように促した。

「関西人は、ノリと雰囲気が大事だ」一件でも、成約を取ってこいとハッパをかけられた私が、緊張した面持ちでいると、所長は

「肩の力を抜いて、明るく、品よく話せ」と、指図した。

 気分が冴えないタイミングで、矢継ぎ早に浴びせかけられる言葉は、矢先が鋭く尖っていて、私の胸を射抜き、苦痛を感じるほどになった。有難い反面、不甲斐ない気持ちが湧いて出て、酷く居心地が悪くなった。

「君は社会経験が少ないから、経験則を営業に生かせない。それに、生真面目過ぎて、発想に飛躍がない。ルールを守れないのも困りものだが、石部金吉タイプも駄目だ。広い世間を知るため、人脈づくりから始めたらどうだ?」

「……」返す言葉が見当たらず、私は俯いたまま黙っていた。

「ちぇっ」と、所長は舌打ちすると、自分の席に戻った。

 所長と入れ替わるように、私の席に支社長が来て、現況を問いただした。

「最近は、伸び悩んでいるな」

「このまま、今の仕事を続けるかどうか、迷っています」

 私は、自分の口から出た自分の愚直な答えに、驚いて戸惑っていた。

「今、どんな営業を中心にしているのかな?」

「飛び込み営業です。一日、百軒をメドに足を棒にして回っています」

「政治家の辻説法百回は、それなりに意味がある。保険セールスの飛込営業百回は、それに比べると、効率が悪すぎるよ。何か他の方法を考えておくことだ」

「分かりました」

「哲学者のアリストテレスは、弁論術の要諦をロゴス・エトス・パトスだと言っている。要するに論理・信頼・情熱が重要だ。これは、営業にも当てはまる。君は生命保険という形のない商品の知識を身に着けて論理的に説明できる。だが、飛込訪問は、初対面の相手に信頼を構築するのが難しい。君が相手のことを思って、どれだけ情熱的に接しているかだよ」

「肝に、銘じておきます」

「現在の日本人は、皆、ドリフターズだよ。私は、引き留めはしない。来るものは拒まないが、去る者は追わない。誰でも……、自分に合った仕事を見つけるのが一番だ」

「あの、昭和を代表するコメディアンのドリフターズですか? 私もテレビの再放送で見た記憶があります」

「あっ、それは違うよ。英語で表現して悪かったね。漂流者と……、言いたかった。高度成長期のような年功序列制が崩れ、企業が抵抗感なくリストラを進めると、行きつく先は分からない」

 私は、自分の早とちりを恥じた。

「私は……、いつまでも、漂流したいとは思いません」

「一寸先のことは、分からない。仕事の実務に追われて、あくせくして心の余裕を失ってはいけない。大事なのは、自分のメンターのような真の理解者を見つけること。それを心の支えにして、正しい方向を見つけてみてはどうだ」

 私は、生命保険のテストは一般家庭、専門課程、応用課程まで満点で合格した。FP2級試験も高得点で合格し、社内のスキルチェックでも毎回A判定で問題ないとされていた。

 家族や親戚、友人、前職の上司や同僚を訪ね歩いたが、交通費などの出費だけが嵩んだ。私は、托鉢僧の修行である乞食を実践している気がした。それは酷く、羞恥心を感じさせた。活路を見出すため、私は本を読み漁ってヒントを得ようとした。

 自宅近くにある図書館に出向くと、セールスと名の付く本はすべて手に取って読んだ。さらに、実践的にセールスコミニュケーションのスキルアップにつなげるために、自費で講習会に参加し、講師のトレーニングを受けた。

 講師はアプローチから、プレゼンテーション、テストクロージング、クロージングの流れを説明し、私にいくつもの鋭い質問を投げかけた。

「いいか、クロージングの時は、余計な言葉を継ぎ足さずに、グッと唾を飲み込む。こちらから、相手の意思をコントロールする魂胆を見抜かれては駄目だ」

「はい」

「それからな。自信をもって話すことだ。不振が続いても、それを感じさせてはいけない。お客様は、営業マンの自信のなさを声のトーンで敏感に聞き分けている」

「はい」私は講師の話を聞き漏らすまいと、単調な相槌を重ねていた。

「本当に、分かっているか?」

「はい、分かっています」

「…………」

       ※

 営業所でも多くの優績者たちは、ロープレの手合わせを申し出てくれた。

「お前を見ていると放っておけない」「どこか……くすぐられる」と、彼らは言葉で伝えた。

 私が……、優績者の意識をくすぐるとしたら――何なのか? どんな点なのか?――と、想像してみた。優越感? 自尊心? 父性愛? そんな言葉が頭に思い浮かんでは消えた。

 優績者の一人は、得意の英語と中国語の語学力を武器に「目下のところ、外国人向けの定期保険と医療保険で、ターゲットに営業をかけている」と打ち明け、別の一人は「同窓会や異業種交流会で人脈を広げ、数珠つなぎに紹介受注をゲットしている」と話した。

 ロープレが始まると、彼らの目つきは鋭くなり「自信のなさは表情や、仕草、声の張りに現れる。不安な時ほど、相手に気持ちを読まれてはいけない」「とにかく、件数をこなせ。ヘタな鉄砲でも数打てばあたる」と、それぞれに指摘した。

 優績者の三十歳代の男性から「この地区の担当者です。生命保険の見直し相談を無料で承っています。お時間はありますでしょうか?」と書いたメモを手渡され、電話を架けるエリアを示された。

 私は、支社の電話専用コーナーで、指示された通り明るく張りのある声で、エリアターゲットに話しかけた。

「私は、この地区の担当者です……」と、電話口で読み終えた途端、後ろから年輩の社員にゴツンと小突かれた。

 年輩社員は「誰が許可した。お前のような低レベルのセールスが、地区担当を名乗るな。営業のエリアが荒れて、他が迷惑するだろ」と、私を非難した。

 声を聞きつけて、何人もの社員が集まってきた。営業所長が間に入り、取り成してくれた。私は頬が紅潮し、熱くなっているのを感じた。消え入りたい心境になった。私は、追い詰められていた。

「愚直に振舞うと、目の前にああいう敵が現れる。君は、外で自分のスマホから電話すべきだった」と、優績者は諭した。さらに「君の電話が原因でエリアが荒れることはない。ただし、生命保険の乗り換え募集は、適正でないと禁止行為になる。金融庁も目を光らせているし、注意が大事だね。マニュアルに目を通して欲しい」と付け足し、微笑みながらポンと、私の肩を叩いてから立ち去った。

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