第15話

 加藤の教えたとおり、地下室の造作は見事だった。加藤は、何のためにこんな大仕掛けのカラクリを作ったのか、首を傾げた。僕と野江と旋律は、各室を見て回り、快適さではそれまで滞在した隠れ家の一室よりも、優れているのに気づいていた。

 地下には、図書室のような大きな部屋に、あらゆるジャンルの書籍が置かれていた。映画館まであり、往年の名作から最新のものまでが、取り揃えてあった。酒はウイスキー、ワイン、リキュールから発泡酒、清酒、老酒まで、多彩なものが用意されていた。

 加藤は「長期間の耐乏生活に備えて、退屈しないようにしたものです」と、明かした。

 旋律は「トレーニング・ルームとか、道場は……」と尋ねた。

「無論ありますよ。地下三階には、温水プールだって」

 地下室なら、天道たちの魔手から逃れられる。僕はそう確信した。

 一方で、あれだけ恐れてきた奴らと、直接対決できないのが残念な気もしていた。僕は、旋律に鍛えてもらったお陰で、武術の技量が、僅かに上達していた。潜伏している間は、旋律に宝蔵院流の槍術を教えてもらった。これで、僕も旋律なみのスーパーヒーローの仲間入りだと、確信した。

 簡単には行くまいが、天道たちも一生、僕を追いかけて来そうにもない気がした。人の好い加藤でも、いつまでも匿ってはくれないのは理解できた。僕が国立生化学研究所に戻って、再び研究生活に従事するためには、天道たちを一網打尽にしなければならないと思いつつも、方策が思いつかなかった。

 奴らは、警察の目をうまく誤魔化して、僕のあとを地の果てまで追いかけてきた。強迫観念に幾度もとらわれてきたものの、そんな恐怖心など、どうでもいい気もした。それよりも、僕の世之介症候群こそ何とかしなければ――と、気があせっていた。

 僕らは、加藤から地下室の案内を受け、それぞれの割り当てられた部屋に、荷物を置いた後で、ミーティング・ルームに集合した。

 旋律は、無遠慮に「これじゃあ、文字通り隠遁者の生活だ。その割に贅沢できるけどな」と嘯いた。

 野江は鋭い目つきで「メロちゃん」と、叱りつけるような口調だった。

 野江にしては珍しいことだった。旋律は、我儘放題に育てられていたため、奔放に物を言い過ぎた。野江は、そんな旋律をいつも甘やかしていた。

 加藤は「充分なおもてなしはできないですが。ここで暮らしても息苦しさで、閉所恐怖症にならない細工は施してあります。実は核シェルターにもなっている。つまり原子爆弾を投下されようとも、ビクともしない」

 加藤は、自慢げに「僕は万一の場合、政府の要人たちを非難させたいと考えています。しかし、東京からここまで、かなりの距離がある。実現は、困難でしょう」

 加藤の説明は、まだまだ続くが、そこに菖蒲が血相を変えて飛び込んできた。

「大変なことになったの。知麿さんが、人相の悪い、黒いスーツ姿の男たちに、連れ去られた」と、声を震わせ、慄きながら告げた。

 野江は「天道の仲間が、裕司と、知麿さんを人違いで誘拐したのよ」と、推理した。僕らが油断している隙に、天道の一味が来て、知麿を誘拐した。それ以外は、考えられなかった。

 僕は、肝心の知麿先生から、モテなくなるテクニックを一つもマスターしていなかった。

 地上に僕の姿がなければ、知麿の天下だった。天道たちは、てっきり僕と知麿を誤認した可能性があった。

 加藤は、青ざめると「まさか、こんなに早く天道が攻めてくるとは思わなかった」と狼狽していた。

 神技のような素早さで、知麿を連れ去ってしまった。

 旋律は「こうしちゃいられない」と息巻いていた。

「知麿は、どこに拉致された?」 

「まだ、そう遠くへは、行っていない」

 旋律は、光学迷彩素材で作った自分用の透明服をバッグに詰めると、素早く背負い、遠くを見つめていた。

 藍愛からも、リーガルズからも、連絡はなかった。

 僕は検児に、知麿誘拐事件の全容をメール送信した。

 次いで、警察署勤務の藍愛には、携帯電話から連絡した。

 芸能活動中の検児からの返事を待った。

 二十分後に、検児はメールを返信して来た。リーガルズは、通信傍受を警戒して、いつも暗号文を送ってくる予定だった。

 天道が恐るべき結社だとしても、通信傍受までは、やりそうにない気がした。

 検児のメールには「頓馬亭疎狂の奴が、仮病を使って、ここ数日の仕事をキャンセルしている。中野区のスーパー・リッチ・パーソンズ・ホテルに、疎狂と一味が集まっている」と、記されていた。

 スーパー・リッチ・パーソンズ・ホテル中野は、都内でも有数のシティー・ホテルだ。

 居場所が判明すると、旋律は「さあ、裕司、野江さん、ぼやぼやしていないで出かけよう。すまないが、菖蒲さんはここに残ってくれ」と命じた。

 研究所でのアクシデント以来、僕の周辺では、ダイスをころがす有様で、状況が目まぐるしく変化してきた。逃げ回ってばかりいても、事態の改善にはつながっていなかった。賽の目がどう転がるか分からないが、ここで賭けてみるしかないのは確かだった。

 加藤は「愛車のブガッティ・ヴェイロン・スーパー・スポーツは、時速四百三十一キロで走行可能です。ですが、警察とのトラブルは避けたい。しかも乗車定員は二名だ。本来なら、もう一台あるスーパー・カーのSSC・エアロをあなた方にお貸しするのですが、今回は国産のセダンと分乗しましょう。私はボディーガードと一緒にヴェイロンに乗ります」と提案した。

 旋律は「映画やテレビ・ドラマと違ってさあ。せっかく、スーパー・カーに乗っていても、ノロノロ運転しかできない」と、笑うと「俺がそっちに乗りたかったけど、裕司の面倒見なくちゃ」と、余裕のジョークを飛ばした。

 検児からの二度目のメールには「天道の一味には、最低でも二十人はプロ並みの格闘家がいる。中でも、五十嵐寛は無敗の帝王と呼ばれる技と力の持ち主だ」と、気になる内容が書かれていた。

 旋律に伝えると、顔から血の気が失せたように思えた。

 僕の心配をよそに、旋律は、ケロッとして「まあな、あいつとなら一度対戦して、決着をつけておきたかった」と、また大笑いした。その時の笑いは、芝居がかっていたのが気がかりではあるが――。

 藍愛からも、電話の返事があった。

「知麿さんの件は、分かったわ。捜査令状を取るようにする。何かトラブルがあったら、すぐに連絡して。職権でできる限りの対応はするわ」。

 電話での会話が、内通者の耳に入っていなければ良いが――。

 僕は天道の底知れぬ恐ろしさを感じて、身震いした。――恐れは何物も、もたらさない――そう思い直し、テレビでリーガル判児が放つ、ギャグの「これだから、モテモテ男は、困るのさ」を身振りまで真似て、強がって見せた。が……、周りの誰も、笑わなかった。

 夜の高速道路をブガッティ・ヴェイロンが走り抜けて行った。こんなにも、格好良いクルマはないが――。ときに 国産車と並んで走り、時にダンプの間に挟まれ、時に渋滞で、ノロノロ走るところを見ると、違和感を覚えた。

 天道たちと、決戦の時がやって来た。恐怖と期待感が入り混じるのは、強敵を前にしたボクサーの心境と同じだった。知麿誘拐事件が墓穴になり、奴らは超優秀な藍愛やリーガルズの頭脳の前にひれ伏す。そう予測した。

 期待と裏腹に、天道が易々と降参する展開は想像できなかった。落語家で政治家の疎狂が、ボスというのも疑念が生じたままだった。

 週刊誌の記事を読んでも、疎狂の政治力を評価する意見は見られず、凡庸な人物だが、知名度とパフォーマンスがウリの素人政治家で、大した人脈もないと書かれていた。僕は、旋律が運転する国産のセダンの助手席に乗り、ブガッティ・ヴェイロンのテール・ランプを見ながら考え事をしていた。

「メロディー、君は知麿誘拐事件の結末がどうなると思う?」

「裕司、お前、他人事じゃないだろ。そもそも、知麿は、裕司と間違われて連れ去られた。リーガル検児の情報を役立てて、連中に気づかれないうちに手を打たないと、後の祭りになる」

 旋律の指摘した通りだった。

 後部座席の野江は「所長に連絡して、研究所は休むわ。しばらく、あなたと行動をともにすることにした」と、嘆息した。

 研究所のアクシデントがなければ、僕は最愛の野江の隣に座り戯れていた。このタイミングが、そんな事態ではないのは分かる。それに、用心棒の旋律が小うるさかった。

 僕は、拉致された知麿を救出するよりも、天道を追いつめる方法ばかり考えていた。天道を一網打尽にするのは、僕自身ではなく、旋律や藍愛や加藤だった。頭の中の想像の世界では、テレビの中の役者を見る視線で、傍観者としての僕が、彼らの動きを眺めていた。

 逆に、野江は「知麿さん大丈夫かしら、怪我でもしたら大変。今頃、どうしているのか、心配だわ」と安否を気にしていた。

「何だい。野江っ、僕より知麿が……」と、話しかけて唾を飲み込んだ。

 僕らは、クルマが途中で渋滞に巻き込まれて、先を行く加藤運転のブガッティ・ヴェイロンを見失ったので、苛々していた。

 加藤は、出発前に「スーパー・リッチ・パーソンズ・ホテル中野に、今からチェック・インするのは不可能だから、近くにある私の書斎に泊まってもらいましょう」と 告げていた。書斎といっても、二十畳の洋室が五室、和室が三室もある。正確な住所は聞いていたので、見失っても大きな問題はなかった。

 僕は、オオカミの着ぐるみを失い、デオドラント剤を切らしていたため、いかにも無防備に思えた。いざとなったら、光学迷彩マントで身体を包み、透明人間に変身するのもありだった。野江に提案すると「場所柄を考えてね」と、透明人間案は却下された。

 強力無双の男どもと対決した。

 緊迫する状況下で、旋律の奴は、のんきに鼻歌まで歌っていた。普段だと、言葉遣い以外は女らしかったが、段々と男性的な振る舞いが目立ってきた。旋律の心境変化は何の予兆なのか、展開が読めなかった。

 クルマに乗っている間は、女たちも、小うるさいハエや蚊の羽音に倣ってブンブンとうなり声を上げて、駆け寄って来はしなかった。

 安心したのも束の間、クルマを下りるなり、十人前後の女が僕を取り囲み、置き去りにされそうになった。そこを風のごとく旋律が近づくと、周囲を威嚇し、僕の腕を引くと、女たちを押し分けて、助け出してくれた。

 スーパー・リッチ・パーソンズ・ホテルからクルマで十分の距離にある加藤の書斎に到着した。藍愛からも、リーガルズからも知麿に関する情報が届いていなかった。すでに、深夜になっていた。新情報を期待できそうもないので、今夜は身体を休めて、明朝になってから、捜索を始める手はずになっていた。

 加藤が、蔵書を収納するために建てた屋敷は、どこもかしこも豪華で、家具調度品から、空調設備まで行き届いていた。

 野江が「これって、ドイツ製で、レカロ社の高級チェアじゃない」と、感嘆の声を上げた。さらに、床に敷き詰められたカシミヤのマットレスや、机の上にさりげなく乗せてあるスイス製の最高級腕時計ブランパンを見つけて示した。僕には、値打ちが分からず、ちんぷんかんぷんだった。

 野江は、旋律と、二人で驚いていた。

 僕は、子供が玩具を見るように、様子を見ていただけだった。

 旋律は、悪ふざけのつもりなのか、本気なのか分からない語り口で

「此処にあるのと、三つは、俺の親父が持っているのと同じメーカーの物だ。といっても、お前には価値が分からないだろ」と、馬鹿にした。

「まあな、うちの親父の持っているのは、加藤さんのものほどではないけどな」と、付け加えた。

 僕らが、話しているのを遮ると、加藤は「今日のところは、もう休みましょう。ですが、明日は午前六時までに起きてもらいます。それから朝食を済まして、七時三十分までにはここを出ましょう」と明るい声で指図した。

 僕は十時頃まで眠りたかったが、贅沢はいえなかった。何とか、我慢しよう――と、判断した。

 午前五時に、眠い目をこすりながら起こされ、サンドイッチを食べた。加藤によると、彼の執事が昨晩のうちにデリカテッセンに行き、特注のものを作らせていた。何と手回しが良いのかと、感心させられた。

 タマゴ・クリームが、まろやかで美味しかった。スライスされたハムも脂が少なく、上品な味がした。旋律も、満足げに見えた。

 加藤は「もう少し、マスタードを多めにつけましょうか。あなたたちのご家庭の味に合わせましょう」と、三人の顔を交互に見てくれた。

 僕はこの時まで、決戦を前にした緊張で、胃液がこみ上げそうな気分になっていたのを忘れていた。

 クルマに分乗し、走行してから十分。天道たちはどこに身を潜めているとも知れなかった。念のため、スーパー・リッチ・パーソンズ・ホテル中野の駐車場ではなく、そこから徒歩二分の「ワイズ・ピープルズ・ホテル中野」の駐車場に停車した。

 加藤は、ワイズ・ピープルズ・ホテルの大株主の一人で、経営も親友にまかせていた。実のところ、これも作戦の一つだった。

 ホテルの駐車場から、外へ出た。横断歩道の前で、信号待ちをしていると、電信柱に持たれていた男が身なりの良い加藤に話しかけてきた。

「お兄さん、これを手に取って見てください。ダイヤをちりばめた本物のオーデマ・ピゲの時計です。これを特別価格の二万円でお売りします。本物が、たったの二万円。これだけのものなので、偽物だって五万円はする」

 男の横には、小太りの女が立ち、左右の腕に、三つずつ腕時計を巻き付けていた。

 加藤は、一瞥し「いいえ、私は間に合っています」と断ると、腕に着けたパテック・フィリップのノーチラス・クロノグラフに目をやり、スーツの袖をまくり上げながら、男に見せつけ「こういうのが、本物だね」と、皮肉った。

 何故かは分からないが、小太りの女は、僕に見向きもしなかった。徒歩二分の道中で、五人の女を見かけたが、無事に切り抜けた。今までも、僕には奇跡の時間があるような気がしていた。

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