第9話


 この時の経験で、判明した事実があった。デオドラント剤を服用しようとしまいと、女たちは僕の顔を覚えているため、フェロモン物質やMHCが嗅覚を刺激しなくても、僕に迫って来た。大勢の女たちの声は、ただ単に「キャー」と叫ぶもの「私とつき合って」と媚びるもの「好きよ」と告白するもの、言葉で書き記せないような、卑猥な言葉を口走るものなど様々だった。

 同じ場所に、長く居続けると、世之介症候群の原因を直しても、女たちは僕を求めて接近してくる可能性があった。へんてこオオカミの着ぐるみ姿も、アパートを出るところを何人もの女に見られていた。

 菖蒲の話では、天道たちは翌々日、七日に来る予定だった。奴らは僕を捕らえるため、襲撃する計画を立てていた。但し、どんな相手が何人が来るかまでは分からなかった。旋律が、幾ら強くても限界があるのを感じた。

 次の日に、リーガルズとの一件を終えたら、風のごとく速やかにアパートを立ち去る予定にしていた。引越しの手配を済ませ、菖蒲のいう静岡県のつま恋村に行くつもりだった。

「野江っ、デオドラント剤の追加注文と、着ぐるみに代わるような変装グッズを用意して欲しい」

「抑制剤は、米田博士にお願いしておくわ。それと、変装ではなくてね。光学迷彩素材で、使えそうなものを探しておく」

 旋律は「念のため、ニシンの燻製を通販で取り寄せておこう。まさかのときに、役立つからな」と、パソコンを開き、発注した。ニシンは翌日到着した。

「燻製のニシンの何が……、どうして必要だ?」

「研究所で暴漢と戦ったときに、奴らのジャンパーに毛足の長い犬の毛がついていた。ゴールデン・レトリバーの毛だ」

「それと、ニシンにどんな関係がある?」

「ニシンの燻製は、強烈な匂いがするので、犬の嗅覚を麻痺させる。だから、追っ手を撒くのに、いずれ役立つときが来る」

 準備したのは、光学迷彩素材、デオドラント剤、オオカミの着ぐるみに、ニシンの燻製、ハイ・テクとロー・テクの組み合わせだった。これで天道の追撃をかわし、うまく逃げおおせるほどの効果が期待できれば良いのだが――。ともあれ、うまく対処しなければ、僕と野江の明日の夢は叶えられなかった。

 野江は、光学迷彩素材を手に入れるため、国立市の生化学研究所まで出かけた。物騒なので、旋律が、護衛のためについて行った。

「メロディー、お前は僕の用心棒だよな」

「裕司、アパートの外は危険だ。絶対に外に出るな。俺たちが出た後で、ドアの内側にバリケードを作れ」

 二人は、タクシーが来ると、すぐに出て行った。僕は指示された通りに、テーブルやイスをドアの前に集めてバリケードを作った。女たちが、雪崩れ込んで来ないようにするためだった。一仕事終えてから、インスタント・コーヒーを飲んだ。食卓テーブルはバリケードでドアの前に配置した後なので、床の上にカップを置きあぐらを掻いて座った。

 僕はいつも一人だけの部屋の中でも、食卓テーブルに座ってコーヒーをすすっていた。なので、それがちょっとした冒険のような気がしていた。だが、そんな甘っちょろい夢想をぶち壊すように、外に居る女たちは僕の名前を絶叫していた。

 コーヒーを飲み終わったとき、電話が鳴った。実家の母からだ。

「栄養のあるものをちゃんと食べているか? 健康か? 仕事は順調か? 部屋はちゃんと片付けているか? お金はあるか?」

 母の質問に答えながら、僕は「明日から他所へ引っ越す」と伝えた。電話番号はいずれ伝えるが、当面は、調べて訪ねないように伝えておいた。世之介症候群による現実の不都合は、日常のそんなところにも及んでいた。

 野江によると、光学迷彩素材とは、ただ単に目の錯覚を利用したものではなかった。うまく身に纏うと、姿形が目に見えなくなった。

 不測の事態を回避するため、いくつもの注意点と問題点があった。一方、使用方法を間違うと、事故につながる危険性があった。毒物、劇物を使うのと、同じ注意が必要なため、部外者の持ち出し禁止規定があった。素材を使用して、他者の権利を侵害したり、身体に怪我を負わせたりすると、重罪に問われた。

 偶然、生化学研究所にも三着だけ、光学迷彩素材シートが保管してあった。

 野江と旋律が、やっと帰ってきた。目には見えないシートを抱えて、旋律は「これって、すげえ、面白いじゃん」と、はしゃいでいた。

 シートを身体に纏い、スイッチを押すだけで、透明人間のように姿形が見えなくなった。夢の科学技術と称賛されながらも、危険性が指摘されていたのが、光学迷彩素材の技術だ。この技術は、研究者以外には広く知れ渡っていなかった。

 光学迷彩素材は、よくある迷彩服ではなく、光が反射する向きを変化させるので、そこに存在しないかのように背後の景色を見せる技術だ。外部に流出すると、大変な騒動になるのが理解できた。

 国立生化学研究所の素材は、人が身につけるためではなく、電子顕微鏡のレンズに装着して、解像度を上げるために用意していた。現時点の研究には、必要性が低いため倉庫に保管されていた。保管責任者は、毒物劇物取扱責任者の資格をもつ野江だった。

 素材は、毒物でも劇物でもない光学迷彩技術でつくられたが、危険性を考慮し研究機関の間で製造、輸入、販売、取扱いなどの規制を「毒物及び劇物取締法」に準じた規定で対応していた。無論、届け出なしに購入できなかった。

 旋律から手渡された素材には、説明書と使用細則が添付されていた。ざっと読むと、シートを着用して、他人の敷地内に不法に侵入してはいけないとか、プライバシーの侵害や、暴行わいせつ目的での使用禁止などが、細かく書かれていた。

「こんなのは、普段でもしてはいけない、当り前の内容ばかりじゃないか」

「もし、あなたが透明人間になれたとしたら、最初に何をするかしら?」

「そうだなあ、映画の只見、女風呂の覗き見、美人女優の自宅に潜入。まあ、そんなところかな」

「つまり、人は自分の姿かたちが隠せると、自我が肥大して人格の異常性が強くなる。しかも、長い間それが上手く行くと、もっと酷い悪事をして、自己批判しなくなる。あくまでも、光学機器に使用するだけなら良いけどね」

「民話の彦一ばなしの中に、天狗の隠れ蓑を盗んだ彦一が悪戯したり、透明になって酒屋で浴びるほどの酒を飲んだりした挙句、正体を暴かれて大恥をかく話があった。俺なら、そんなトンマなマネはしないけどな。裕司、お前ならどうだか分からないよな」

「よく、分かったよ。これと抑制剤があれば、これから僕は自由だ。あとは自制心、自制心。大恥をかかないようにするよ」

 朝早くリーガルズと、マネージャーの男の計四人が、二台のクルマで訪ねて来た。この日は約束どおり、出版社にクレームをつけに行った。イケメンの検児、コワモテの判児、ヒョウキンな顔立ちの法児の三人は、テレビで見るのと同じで、息もぴったりだった。

 クルマの中で、検児のギャグの意味を質問した。

「ほへっ、ほへっ、ほへっ」は「それ、いただき」の意味。「ほい、ほい」は「なかなかやるね」の意味。「ぽこ、ぺん、ぺん」は「からかいたい気分だよ」の意味。「ぼーん、ぼーん」は、「それは駄目だよ」の意味だ。

 通常の清音のキャグは肯定的、濁音のギャグは否定的、半濁音で始まるギャグは揶揄。決まりきった公式ではないが、文字の数が多いほど意味が強くなった。

 三人は、メールのやりとりの際に、暗号を使う習慣があった。

「あ行~な行」から始まるメールは、「意味どおりに信じて読め」を意味した。「は行~わ行」は「まったく反対の内容だ」と記述していた。

 たとえば「明日、予定通りの場所に来い」は文字どおり。

「ひどい事になった。明日の予定は中止だ」は、逆に予定どおりに進行する――を意味していた。

「まったく、お前はどうしようもない馬鹿だね。見損なったよ。ほい、ほい、ほい」は「君ほど利口な人はいない。ものすごく、尊敬しているよ」の意味を記していた。ギャグは「は行~わ行」で始まるメールでも、意味は逆にならないという、ルールだった。

 リーガルズたちも、風教の人柄は敬愛していた。それに反して、弟子の疎狂と酔狂に対する評価は良くなかった。皮肉にも風教が弟子を信用して任せ過ぎる体制や、自分の目標に忠実に、落語の年間公演回数をこなしていたため、目が行き届かなかった背景も、原因の一つと考えていた。

 コワモテの判児は、鋭い目つきのまま笑いながら「風教師匠は、僕らの憧れなのです。大学は出ていないですが、博覧強記ぶりと無類の努力家として有名です。金や女に汚くないし、人の立場をよく考えてもくれます。ただし、唯一、人を信じすぎるのが短所でしょうか」と話した。

 クルマは出版社に到着した。

 約束の午後二時には大分、時間があったがアパートを早々に出るために予定を早めて貰った。出版社の担当者は丁寧に挨拶すると、僕と検児の顔を交互に見比べて首を傾げていた。しかし、僕がマスクをつけて正面を向いて見せると「そうすると、二人はそっくりですね」と感心し始めた。交渉には、三人の中で、もっとも弁舌巧みな法児があたった。

 出版社では、新年特大号に掲載された写真の僕と検児を取り違えて説明した文章を訂正した。一緒に居た野江の写真の顔の部分には、一般人なのでボカシが入っていたものの、思わぬ誤解につながらないよう、詮索しない条件等を申し渡した。

 さらに、投稿写真を見て誤報を出した、失態への謝罪文の掲載をしてもらう約束だった。僕の略歴は、一般男性とだけ記述するよう指示した。加えて、個人情報が流出しないように配慮してもらった。また、約束を守ってくれさえすれば、出版社に対して損害賠償請求はしない方向になった。

 面倒だったものの、この件でリーガルズの三人と知り合えたのは収穫だった。頓馬亭一門の内情はよく知っているし、疎狂とのテレビでの共演も多かった。うまく、関係が構築できたので、天道の動きについても教えてくれる約束になった。

 三人とは、昼食をともにし、午後一時過ぎには別れた。アパートに戻ってからは、レンタ・カーの軽トラックに荷物を運び込んだ。この日はガード・マン数人を雇って、アパートの前に集まった女性たちをうまく誘導してもらった。さらに、警察署にかけあって緊急避難的に道路の数箇所にコーンを立て、中に歩行者が入りにくいように看板を立てた。

 看板には「緊急事態を回避するため、一般車両、歩行者ともに迂回して通行してください。危険が予想されるため、ご協力をお願いします」と表記した。警察の許可では、一時間三十分以内にすべての作業を終えるようにとの指示だった。

 途中でアパート周辺に人が来なくなったので、ガード・マンのうち筋肉質な二人に荷造りと運搬を手伝わせた。一通りの作業を終えて、僕は隣の老婆に挨拶した。老婆は僕の顔を見て涙を流していた。まったく、世之介症候群は罪作りだと痛感した。

 作業を終了し、コーンや看板を撤去した。搬送用の軽トラックと、僕の自家用車をアパートの階段下に駐車した。ガード・マンたちをアパートに入れて、労をねぎらいコーヒーを振舞った。僕のクルマは旋律が運転し、僕が軽トラックを運転した。

 東京都中野区のアパートから、静岡県掛川市のつま恋村近くの新住居に到着するまで四時間かかった。

「ヤマハ・リゾートつま恋」には、大学時代に友人数人と泊りがけで来ていた。ちょうど、夏休みだった。昼間はプールで泳ぎ、広大な敷地内を散策した。夜には、温泉でゆったりと寛いだ。

 だが、大学時代と状況が違い、天道に追われて同じ場所までやって来ていた。菖蒲の手配で、僕と旋律の新しい住居の主は、親切に応対してくれた。菖蒲はここの主人を魔術師と名付けて呼んでいた。いったい、どんな人物なのか思い描いてみた。菖蒲のいうとおり謎めいた人物なのか、興味をそそられた。

 つま恋村の近くにアパート経営する魔術師は、僕を自分が経営するアパートの一室ではなく、自宅に案内した。

「ご自宅をトラブルに巻き込まないとも限りません」と、辞退しようとしたが、魔術師は頑として譲らず「まあ、まかせておきなさい」と微笑んだ。

 魔術師・加藤朔太郎は、話し方や物腰からして紳士的だ。長身でグレーの髪を短くカットし、口ひげを生やしていた。ブルーのブレザーをうまく着こなし、スポーツ・シューズを違和感なく穿いていた。

 会ってすぐに、僕も野江も、加藤が好きになっていた。ハンサムで応接が丁寧な上に、笑顔は好意に満ちていた。年齢は五十歳代後半ではないかと、推測した。血色がよく健康的な加藤は、魔術師のイメージより、感じの良いジェントルマンに思えた。

 しばらくして、加藤が何故菖蒲から魔術師と呼ばれているのか判明した。加藤は忍術や奇術に憧れ、自宅にからくり部屋やパニック・ルームをつくり、秘密の地下通路までつくっていた。

「ここなら、あなたがたがいう天道がどんなに追って来ようと、うまく姿を隠せますよ」

 加藤の好意は、涙が出るほど嬉しかったものの、僕はいつまでこんな逃亡生活が続くのかと思うと、手ばなしで喜べなかった。野江は、翌々日九日の日曜日まで宿泊し、十日の朝から研究所に出勤する予定になっていた。

 旋律は、僕らの軽トラックより、三十分遅れて加藤の家に着いた。派手なカーチェイスもなく、待ち伏せもなく、ここに来られたのはラッキーだった。この頃の僕は、事がうまく運び過ぎる時には、後で嫌な展開がありそうな予感が働いた。

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