第4話

 野江は泣いていた。瞳は涙に濡れ、頬には流れたマスカラが黒い跡を残していた。僕はとにかく野江を椅子に座らせ、お茶を淹れてやった。もどかしくて心配になり、不安な気持ちが胸の奥底から這い上がってきていた。

「もう、嬉しくって、あなたに一刻も早く伝えたかったのよ」

 僕は、ほっと胸を撫で下ろした。野江は僕の世之介症候群の解決策を見つけ、それが嬉しくて泣いていた。

 世之介症候群は井原西鶴の「好色一代男」の主人公・浮世之介に因んで付けられていた、僕の症状を表す病名だった。

 野江の目は、僕を真っ直ぐに見つめていた。野江はお茶の入った湯呑みを見つめ、ゆっくりと持ち上げたが一口も口にしなかった。野江が湯呑みを置くと、僕は手を握り締めた。

「私と寝たいのでしょ? 私とずっと一緒にいたいのよね」と、僕の顔から目をそらした。

 僕は当惑した。まずは、野江のいう僕を助ける手立てを先に聞きたかった。まさか、野江と同衾するのが、解決策になるわけではあるまいし。実は、それこそ僕が待ち望んでいた理想でありながら、このタイミングでは素直に「うん」とは言えなかった。

 野江の問いに答えようとした。だが、喉がいがらっぽく咽頭や気管支の粘膜を刺激していた。咳が出て、しばらく続いた。咳が止まっても、喉がひりつくような感覚が残っていた。思い起こせば、へんてこオオカミの着ぐるみを着た僕は、表通りを走り、汗をかいた後で、身体を冷やしていた。倦怠感があり、頭痛と悪寒も感じていた。

 野江にすすめられて、体温計を腋に挟んだ。三十八.五℃も熱があった。僕の平熱は三十六.五℃だ。年末なので、行きつけの病院は休診していた。一一九に電話して、休日対応の病院を照会した。クルマで二十分の病院が当番をしていた。

 だが、みっともないオオカミの着ぐるみ姿で病院に行く気がしなかった。野江は「ついて行ってあげるから、病院で症状を見てもらいましょう」と、背中を押した。

「どんな格好で行くべきだ?」

 すると、野江は「それなのよ。米田博士にデオドラント剤を貰ってきたのよ。あなたの症状を説明したところ、これなら大丈夫って太鼓判を押していたわ」と、目を輝かせていた。野江の涙で泣きはらした目蓋にもくすぐられるが、いつもの明るい表情も素晴らしかった。

「感冒薬との相互作用もないそうよ」と、バッグから小瓶を取り出して、僕に手渡してくれた。所定の容量は二錠で、食後薬ではなかった。さっそく、コップに水を淹れると飲み干した。本当に効き目をあらわしてくれるのか、期待に胸が膨らんでいた。 

 野江は「米田博士の太鼓判つきよ。何故、すぐに気がつかなかったのかしら」と自分を責めていた。

 即効性があるのか? 駐車場まで、女性たちはついて来なかった。唯一、一緒にいるのは、野江ひとり。薬を飲んでから、野江は、幾らかクールな話し方になっていた。でも「良かったわね」と、微笑んでくれた。

 クルマは渋滞に巻き込まれず、スムーズに病院まで辿り着いた。苛立つほどには、信号に引っかからなかったのも幸いだった。病院の駐車場にクルマを停めるとエンジンを切った。両手はハンドルにかけたまま、しばらくじっと座っていた。

 咳が頻繁に出て、鼻をグズつかせていた。熱のために身体もだるかった。僕は、世之介症候群がこんなにも簡単に治るのに戸惑っていた。何かがおかしかった。もう少し、理由を考えていたかった。

 野江の話によると、デオドラント剤は一回二錠で十二時間の持続的な効果があり、一日四錠までなら肝臓、腎臓、他の内機能へのダメージなどの副作用はなかった。だが、錠剤を服用して三十分が経過したあたりから、野江はせわしなく脚を組み替えたり、僕の肩をなでたりし始めていた。徒歩で二十分、クルマで二十分の道中で、野江の様子はめまぐるしく変化していた。

 デオドラント剤の効果は本物なのか? まあ、クルマを下りて見れば分かると思った。僕は、ある意味で観念していた。それでいて、大ごとにならないか、目を光らせなければと、戸惑う気持ちも感じていた。

 病院の中では、女性の看護師を五人見かけた。うち、目測で二十代二人、三十代、四十代、五十代が各一人ずつ。三人が僕に近づいてきた。

「寒い日が続くから、お身体を大事にしてね」とか「年末の大変な時期にお気の毒ですね」とか「早く治してくださいね」と言葉をかけてきた。三人の女性は皆、僕の背中をさすり、腕をやさしいタッチでなでてくれた。

 来院していた者のうち、七人の女性とすれ違った。うち、三人は病気で来院したのか、つき添いなのか分からなかった。しかし、七人のうち五人は僕とすれ違った時、目の色が明るくなり、肩をすくめると同時に、甘えるような表情をしていた。

 世之介症候群は、男の人格を自意識過剰な愚か者にしていた。ときとして、周囲の様子が客観的な見立てによるものか、僕の自惚れなのか判断しかねた。僕の勘では、デオドラント剤の効果は三十分で薄れ始め、四十~五十分で元に戻った。

 診察の結果は、やはり風邪だった。症状は、上気道炎や鼻炎に該当した。薬は一週間分出してくれた。病院を後にして、アパートの駐車場に向かった。

「世之介症候群の抑制剤だけど。十二時間どころか、三十分しか効かなかった」

 野江も、僕の周囲の変化を横で見ていて感じていた。

「研究所のアクシデントのMHCやフェロモンの方が強く作用している」と、目を伏せて少し肩を落として見せた。野江はほっそりしているが、見事な身体の線をしていた。質素な焦げ茶色のセーターを着て、スカートにストッキングをはいていたが、豊かな胸の膨らみと、くびれた腰がはっきりと分かった。それは、いつも感じていた。

髪はいつもより、やさしい感じに結いあげていた。

「判断が甘かった」と僕がため息をつくと、野江は悔しさを顔ににじませて、唇を噛みしめた。

 月極駐車場に着くと、アパートに向かって歩き出した。いやな予感がした。僕らが、アパートへの道を歩き出して、しばらくすると、相撲の新弟子検査に一発で合格しそうな大柄な娘が近づいて来た。隣にいる洗練された身なりの華奢な娘と話し始めた。大柄な娘は洒落たコートを羽織っていたが、物腰から判断して女子大生だと分かった。

 喋りながら、僕の方を見て「あれって、彼じゃないの? いつも、オオカミの着ぐるみで見かけるあの人よ」と、愛想よく笑った。華奢な方は、何故か硬い表情をしていた。

「野江どうしよう、僕の正体を少なくとも一人は見抜いているよ」

「仕方がないじゃない。どっちみち、あれは長い間使えないわよ」

 着ぐるみは薄着をしていると酷く寒く、中に着込んでいると汗があふれるほどの暑さだった。春から夏を迎えると、長い時間着るの自体が無理だった。もっとも、そんな頃までこの状態を続ける気はなかった。

 二人の少女は、僕の後ろについて来ていた。が、野江に遠慮しているのか身体に触れはしなかった。三人目の女が姿を現したのは、それから一分もたたなかった頃だった。四十代半ばに見える大人の女性だった。

 不似合いなオーバーコートは、表面がテカテカに光り、ダイエットでもした後なのか、ダブダブだった。僕は、女性たちが徐々に増えつつあるのを肌で感じ、全速力で走る決意を固めた。野江の方を見て「僕は走って帰るから、アパートの前に着いたらノックを五回続けてしてみて欲しい。ドア・スコープで確認して、すぐに開けるよ」

 女性の群れは膨れ上がった。正面から迫ってくる相手は、ラグビーやアメフト選手が使う技術でうまくかわし、やっとアパートに辿り着いた。部屋に入り、野江の到着を待つ僕の心の中は、正直いって不安だった。なんとかして、野江と一緒にここに来たかった。

 野江は思ったよりは遅く、僕がアパートに着いてから十分もしてから帰ってきた。「後をつけられないように迂回路を通って来たのよ」

 野江が戻ってきて安心した途端に咳が出始めて、長く「ゴホゴホ」と不快な響きを聞かせていた。「それでね……」と、野江は口を開いた。

「うん、どうしたの」

「二日間、ここに泊まってお正月に帰るつもりで来たのよ」

 やはり、神はこの世に存在し、天使は僕のために微笑んでいた。なんと、素晴らしい――と、僕は心から思った。僕は風邪で高熱があるのも忘れて、小躍りして喜んだ。

「でもね……」と、野江は付け足した。

 テレビをつけてニュース番組をかけてみた。世界情勢については、まったく頭に入ってこなかった。番組では、時間をいつもより延長しこの年、一年を振り返り、事件や災害、事故や有名人の訃報などを取り上げていた。野江は「お正月までお泊りするけど、寝る部屋は別々に」と突き放した。

「ああ、分かったよ。僕は、自分の目的を遂げるためには、乱暴したり、風邪をうつしたりしても、構わないと思うタイプじゃないよ」

 僕には、テレビの時事ネタは、あまり関心を喚起しなかった。自分の現状が世間一般の出来事と比較して、あまりにも異質だからかも知れなかった。

 チャンネルを換えると、超能力者やミュータントが登場する洋画をやっていた。怪力自慢の男や、人の心を読んで自在に操れる女、空を飛べるヒーローも出てきた。

 野江はカップに紅茶を淹れてくれた。お土産のショートケーキを二人で食べた。ドラマの中で、超能力者の女が自分の桁外れの力のために、葛藤するシーンがあった。

「野江、僕も人の心を操る超能力者の女と、同じ心境だよ」

「どんな点で、あの女性と同じなの」

「僕はモテモテ能力者で、人並み外れたパワーを持っている。それでいて、深刻に悩んでいる」

 僕がドラマの超人だったとしたら、どんな活躍ぶりができたのか。ヒーロー気取りが災いして、大勢の女性たちを危機に巻き込むのは想像したくなかった。空想に耽っていると、野江は諭した。

「それより、これからどうするか、方向性を出さないとね」

「年明けに研究所は、どんな判断を下すかな」

「それは、問題ないと思う。日記を分析したデータも、思ったよりちゃんと記述できているし。極めつきのレア・ケースだから、研究に寄与すると思うのよ。吾妻所長を説得して見せるわ」

「今の状況が長引くと、まともな生活設計も立てられない」

 テレビの洋画は、急展開し怪力男が仲間を裏切り、他の超人たちと死闘を繰り広げていた。人の心を操れる女は、怪力男の張り巡らしたバリヤーを破れず、不意を突かれて殺された。

「あの女、あんまり悩み過ぎた。だから、相手に倒されてしまった」

 僕のすぐそばには野江がいた。望むべくもない幸福に、僕の気分は高揚し、心がうずいていた。

 外で何か音がした。ドアに近づくと「警察のものですが」との声が聞こえた。開けてみると、いつもの制服警官ではなく、刑事らしき人物が二人立っていた。「ちょっと、おうかがいしたいのですが」と二人組みのうち、背の低い男の方が尋ねた。

 刑事は「アパートを訪ねた後で、消息を絶ったのです」と丁寧な口調で、二十歳前後と思しき少女の写真を見せた。「目撃証言も複数あります。何か、心当たりとか、気がついた点とかありませんか」

「いつ頃、女性は行方不明になったのですか」

「二日前です」

「たった二日、家族の前から姿を消しただけで何故、捜査までしているのですか」

「犯罪に巻き込まれた可能性があるのですよ」

「それは、どんな」

「アパートの近くでね。彼女の携帯電話とハンドバッグが放置されていました。さらに、自転車も発見されています」と、背の高い方の刑事が説明した。

 写真の女性は、まったく思いあたらなかった。もっとも、毎日、女の群れに追いかけられている僕にとって、平凡な人相風体の女性が誰なのか、どこかで会ったのか、なんて判断は難しかった。

 このころは、誰を見てもどこかで会った、誰かではないかと、奇妙な既視感が頭に浮かんでいた。

「さあ、知らないですね。よく分からない」

 野江も「まったく、面識がない。知らない女性ですね。大丈夫かしら、何もなければいいけど」と答えていた。

 刑事たちは「何か気づいた件があれば、連絡してください」と帰って行った。

 いったい、何があったのか危惧した。とにかく、物騒だ。直近三日間は、アパートの周辺では、大勢の女性が集まっていた。二日前なら、誰かが目撃し何かに気がついていないと変だった。

 テレビは、点けたままだったので洋画はクライマックスに差し掛かっていた。ドラマの中の怪力男は思ったより手ごわかった。しかも、自分の味方を増やし、ヒーローたちの中には何人もの犠牲者が出ていた。しかし、最後にはスーパーヒーローの空を飛ぶ男が、怪力男や敵の怪物たちに上空から何発ものロケット弾を命中させ、街は平和を取り戻していた。

 僕はまだ、心の平和を取り戻していなかった。不安の只中にいた。野江だけが、僕の憩いのオアシスだった。できれば空飛ぶスーパーヒーローとして、天高く舞い上がり、女たちの追撃をかわしたかった。

 夜になって、パソコンの電源を入れてメールの受信をスタートした。その日に限って、浴槽にお湯を張っていなかった。画面を見て、目が釘付けになった。

野江は思わず「キャー」と声を上げた。

 そこには、予想もしなかった内容が書かれていた。

「これは、いったい何だ!」

 僕らが驚いたのは、新着メールの中に「お前は狙われている。今すぐにそこを立ち去れ。影法師より」と書かれていたものがあった。いったい、これは何を意味するのか。急に消息を絶った少女と、何か関係があるのか、心に引っかかった。 

「野江、これは暇人のいたずらだよ。影法師なんて、まるで漫画に出てくる秘密結社だ」

「何か、もっと具体的な意味がこめられていないかしら」

「たとえば、何を影法師君は報告している?」

「あなたが勘付いた通り、影法師は、お前を見張っているぞと、伝えたいのかしら」

「野江、ドイツにカール・ユングっていう心理学者がいたよね。彼は人間心理の内側には影法師が潜んでいると論述していた」

「ユング心理学では、誰でも人に知られたくないような心のネガティブな面を抑圧しながら生きている。そんな意識されない秘密の内面が『影法師』の本来の意味なの」

「すると、影法師とは、僕の内面の知らない自分自身かな?」

「そうね。でも、メールを送信した人が、何を意図したのかは、本人にしか分からない」

「分かる日が、来るのかも」

「送信者は、すべてお見通しだぞと、伝えたかったのかも」

「影法師、心理状態と考えると、そんな風にも思えるね」

「とにかく、年明けにはここを引っ越して安全な場所に行った方がいいわ」

「そうすれば、影法師が指摘する誰かにも、狙われずにすむかな」

「どんな人なのか、分かればいいけど」

「影法師は僕の味方なのか」

「そうだとすると、ぞんざいなメッセージが気になる」

「僕より年長者なら、不自然じゃないよ」

「でも、何かが不自然な気がする」

「いったい、僕の何を狙っている?」

「それも知りたいところよね」

 野江は気を取り直し、室内を掃除し片付けてくれた。野江は「フェロモン」「MHC」と記したファイルを見つけて動きを止め、開いて見ると「実験さえ、うまく行けばあなたもそんな目に遭わなかったのに、可哀想」と呟いた。

 僕の状態を改善できる資料が書棚か、デスクの上に埋もれていた。それらはあとでゆっくり調べる予定にして、野江から手渡された二冊のファイルを書棚に戻した。掃除のあとで、室内整理をしているとき、女の子たちの手紙の山を見直してみた。差出人の名前には、影を連想させるものは見当たらなかった。

 チクタク、チクタク、チクタクと時計の秒針がリズミカルに時間を刻んでいた。それは、後戻りできない僕の人生の時でもあった。僕らは皆、究極のゴールの死へと向かって刻一刻と寿命を縮めていた。だから、無意味な人生を送りたくないと思っていた。

 大勢の女性に追いかけられ、逃げ惑う人生がはたして有意義なものなのか疑問だった。

 子供のころから、僕は人気アイドルをライバルに見立てて、女の子にモテモテだったかって? いや、無論そんな事はなかった。僕の楽しみは読書や、映画鑑賞、陸上競技、それと実は、少林寺拳法の道場に五年間通い三段の腕前だった。つまり、思春期に女の子を強く意識し始めてからも、恋人のいない時期が長かった。

 小さい頃の僕は、スポーツ選手、医師、役者など、子供に特徴的な全能感で、大人になったらなりたい職業が目まぐるしく変化した。結局は、父親の敷いたレールの上を走り、気がついたら研究者になっていた。

 僕と野江は、たいていは外で会った。つき合い始めた最初のころは、研究所の連中に分からない、周囲のまったく知らない場所を選んでデートした。大学生しか集まらないようなコーヒー・ショップや、くたびれた感じのパブでアルコールをともに楽しんだ。

 外で会うのが危険な状況は、この日の経験で身にしみて分かった。アパートの周辺には、女ばかりではなく、男の姿も増えつつあった。女たちが集団でいないタイミングを見計らって、誰が住んでいるのかと、表札を見て去って行く者もいた。それで、表札は外した。

 僕は夕食後に、病院で受け取った感冒薬を服用した。野江は、先に風呂に入り、パジャマに着替えた後、隣の部屋に行った。「今日は疲れたでしょ。また明日、これからの事を考えましょう」と労ってくれた。チャイムの音が鳴った。

 ドアを開けたところ、隣室の老婆が来て、中の様子を覗きこんだ。女物のバッグや洋服を見て「あら、お邪魔だったのね」と気遣った。老婆は次の日の朝、息子夫婦が迎えに来て、正月は留守にする予定だった。それを説明するために来ていた。

 その年はあらゆる面で、大きな変化のあった一年だった。中でも、年末のほんの数日が最大の椿事になった。

 秘かに、僕は口笛を吹いてみたくなった。口笛でさえ思うようにうまく吹けない自分の不器用さに苛立ちを覚えた。

 野江も、いつまでもここにいてくれるわけじゃなかった。老婆が去ったあとで、風呂に入った。風邪は治りつつあった。体温は三十七℃に下がり、咳が出る頻度も少なくなった。だが、体力を消耗しないように、さっとシャワーを浴びて、身体を拭くに止めておいた。

 次の日は大晦日だった。その年、一年間の総決算として、何が残せるか自問した。僕はいつも、大晦日はテレビを見てのんびりと過ごしていた。アパートで過ごす年もあれば、年末から実家に泊りがけで行く年もあった。僕の異変は、のんびり、ゆっくりムードになじまなかった。

 ここを出て別天地を求めるとしても、そこは今と同じような、恵まれた環境なのか気になった。生活利便性の優れた都会では、女たちに追いかけ回される恐れがあった。僕にとっての不安や憂鬱は、誰かにとっては、愉快な出来事なのかも知れなかった。

 人の気持ちを察したり、思いやったりできるのは、それ相応の器に相違ないと感じていた。自分に余裕のない人間にとっては、他人の困惑ぶりや、不幸な有様こそ楽しそうに見えるものかもしれないと思っていた。

 僕がもっと出世して大金を稼げれば、野江と大きな家に住んで、贅沢を存分にさせてやろうと、夢想していた。このままでは、野江のお荷物君になるだけだった。僕は、世界で一番の人気者にもかかわらず、委縮している愚か者なのか、恋人を傷つけまいとして自制している白馬の騎士のどちらかだった。

 度々、信念が揺らぐ僕のハートは、お前は愚か者に過ぎないと、あざ笑っていた。布団の中で瞑想し、正常な男に戻った僕をリアルに思い描いた。それは、自由な世界で新鮮な空気を吸い、誰にも邪魔されずに、野江とデートしている姿だった。

 僕は、自分自身にいたわりの言葉をかけた。――お前は、まったくいつも、よくやっているよ。只、万人がそれを認めなかっただけだ。あんなに大勢の女性に誘惑されたら、心が揺れ動くのは当たり前だ。悩む時間があるのなら、前を真っ直ぐ向いて歩くのだ――と。

 大晦日の朝、僕らは遅めの朝食をとって、服を着替え、スーパーに買い物に行った。食後にデオドラント剤を飲み、駆け足でスーパーに行って、素早く、そば、液体だし、ネギ、エビの天ぷらを買って、クルマに乗った。

 野江の希望がなければ、この年の年越しそばは、インスタント麺にするつもりだった。

 だが、予期せぬ野江の来訪で、予定変更となったわけだ。つまり、野江がちゃんとした年越しそばを食べたいと願ったのを叶えてあげた。

 年の瀬で人通りが少ないとはいえ、女の子たちに追いかけ回されたくなかった。手早く買い物を済ませて、クルマに乗った。

 ドライブは、往復で三時間を予定していた。午前十時に抑制剤を飲み、三十分後に駐車場を出発したので、午後一時以降に次の分の錠剤をクルマの中で服用し、駐車場からアパートまで素早く戻らないといけなかった。

 錠剤を嚥下してから、徒歩で三十分以内にアパートに帰らないと、またいつものような展開になるのが分かった。いや、いつもよりも危険な展開にならないとは、確信できなかった。

 首都高速道路は、いつになく空いていた。僕は孤独な人間らしく、野江を話し相手にして僅かでも長く話がしたかった。

「野江、僕は今、途方もない孤独を経験していると思う」

「どうして、そんな弱気になるの」

 僕は研究所でのアクシデント以来、今までを振り返った。中でも、オオカミの着ぐるみを着ているときに「オオカミ」とか「ウルフ」と叫ばれたのは、最大のショックだった。僕は、化学反応が原因で色男になっていても、女性たちは僕らしさを感じ取って、応じていると妄信していた。

 実際は、人相風体も話し方や声の感じでも、人格や知的レベルでも、僕らしいムードでもなく、ただ嗅覚レセプターが、反応していただけだった。

 野江は「ほんのちょっとした仕草や態度に、あなたらしさが出ている」と慰めてくれた。

「もし、今回の件があなた以外の男性に起きていたらと思うとぞっとするわ」

「何故……」

「だって、男は皆、女を抱くためには、あらゆる手立てを尽くそうとする。あなたには、そんな野蛮な面はない。ハートを大事にする人だもの」

「僕だって、気持ちが振り子の状態で、揺れていたよ」

 野江は「正義か不正義か、善か不善か、適切か不適切かよりも、新しいか否か、今風でトレンドに合っているかどうかが、現代的な価値の尺度になるのは奇妙だ」と意見を伝えた。さらに「妊娠中絶の増加や、HIVや性感染症の増加を横目に見ながら、性愛をファッショナブルに見るのは、愚かとしかいいようがない」と主張した。

「野江、化学的な操作で人の意識がコントロールできるなんて、あってはいけないよ。だから、君のためにも、自分自身のためにも、ストイックでいたいと考えている」

 高速道路を降りて、師走の街中をクルマが走り抜けて行った。そのまま首尾よく行くと、駐車場に予定の時刻に戻れた。

 だが、現実はそう甘くはなかった。

 二時間経過したとき、クルマの中で尿意を催していた。風邪薬とデオドラント剤を服用するために、水を多めに飲んでいたのが悪かった。適当な場所で、用を足そうと思った。なるべく、人通りの少ないところで下車して、トイレに駆け込もうと、クルマを停めた。

 だが、そこは新宿区内だ。野江を道路わきに停車したクルマの中に残し、人影がないのを見計らって走り出した。コンサート・ホールのような建物に入り、男性トイレに駆け込むと、すぐさま小用を足した。幸い人影は見えなかった。

 トイレの外に出て一分後、大晦日のカウントダウン・イベントのパンフレットを手にした大勢の人ごみの中にいた。

 たちまち、僕は女性たちに取り囲まれていた。が、カップルで来ていた連中の男たちは、女の群れを掻き分けて僕に迫って来つつあった。

「お前、何のつもりで俺を虚仮にして、そんな奴に、ベタベタする」と凄い剣幕で、僕の傍らにいる女に怒鳴りつけていた。

 風邪でマスクを着けていた僕は、またしても検児と間違われていた。最初の男は、女の腕を引っ張って立ち去って行った。次の男は、パートナーの肩をポンポンと叩くと、すぐに僕から奪い返していた。五人目の男は、僕の胸倉をつかみ殴る素振りを見せた。

「芸能人でも、俺の女に手を出すなんて許さねえからな。目の前で見せつけるな」と息巻いた。僕は五人の女に周りを囲まれていたが、一人ずつ交際相手の男が引き離し、連れて帰っていた。

 しかし、最後の五人目の女は、僕にしがみつき離れようとしなかった。男の怒りは強烈なものになっていた。もし、男をうまく、やり過ごしても、次の女が僕にへばりついて来る可能性があった。絶体絶命だ。僕の胸倉をつかむ男は百九十センチを超す長身だった。まともにパンチの応酬をして、相手を倒したとしても体力を著しく消耗するのが分かった。

 そこへ、セダンがスーと、近づいてきた。助手席のスモーク・ガラスの窓が開くと、落語家の頓馬亭風教の顔が見えた。風教は長身の男に向かって説得力のある声で「どうか、私に免じて許してやってください」と懇願してくれた。

 風教は、落語界では人格者として知られていた。弟子の酔狂が女がらみのトラブルを起こしたときにも「私の躾がなっていないせいでございます」と謝罪し、酔狂にだけではなく自分自身を謹慎処分にしていた。

 風教は自戒のため山寺で参禅修行をしていた。風教は古典落語を三百近く記憶していると月刊誌で紹介されていた。さらに、仏教の国訳大蔵経を読破し、アリストテレスからカント、サルトル、ポンティまで哲学書を渉猟している傑物だった。

 長身の男は、風教の持つ雰囲気に圧倒されて、押し黙ってしまった。すると「さあ、検児さん、後ろの席にお乗りなさい」と促した。

 風教まで、僕をリーガルズの検児と間違えていた。

 後部座席に乗って、隣の風教を見て「僕はリーガル検児じゃないのです」と、反論すると、師匠は「それは構わない。お困りのようなので、お助けしようと思いました」と答えた。

 検児とは当然、顔見知りで、カウントダウン・イベントでも、一緒に出演していた。あまりにも、多くの女性に囲まれた僕は只者には見えない。明らかに、フェロモン物質の作用で幻惑されていた。

 僕は目的地を告げた。徒歩で十二分の野江が待つ場所だった。クルマで、数分後に到着した。別れ際に風教は「もし、何かあったら連絡しなさい」と、名刺を一枚くれた。自分のクルマに乗り込んだ僕は、少し興奮していた。

 風教は若い頃、かなりの美男子だった。求愛する女性は大勢いた。照れ屋の風教は、女二~三人とのデートを繰り返し、食事をおごって雑談を交わし、夜遅くなる前に別れていた。そんな風教の態度に痺れを切らし、押しかけて来たのが奥さんだった。

 どこか禁欲的な紳士といった風情が漂っていた。慎ましく程を弁えた風教は、僕が以前からお手本にしたいと思っていた人物の一人だった。

「しまった。サインしてもらうのを忘れていた」と俗物志向の僕がいうと、野江は「むしろ、サインをおねだりしない方が、彼にとっては新鮮だったわ」と分析した。

 僕は口には出さなかったが、心の中で風教の家族のような愛情あふれる家庭を築きたいと願っていた。

「あなたが好きだから……」と、顔を赤らめると野江は、「可能な限りの努力をして、あなたを助けてあげたいのよ」と心情を吐露した。クルマは赤信号で停車した。

 道路沿いに見えるビル街は、大晦日なので昼間から静かだった。道路は閑散としていて、寒風が吹いていた。風に乗って、一枚のビラがクルマのすぐそばまで飛んできた。ポスターにはどこかの劇団の芝居のタイトル「明日はわが身」と書かれていた。

 僕は少し暗い気持ちになりかけたが、風教が口にした「もし、何かあったときは、物事の良い面だけを見ましょう」の教訓を思い出した。風教は大病で死にかけたとき、弟子の不祥事のとき、失恋の胸の痛みを堪えたとき、いつも物事の暗黒面ではなく、良い面を見つけて数えたと、立派な話をしていた。

 昼食は、ハンバーガー・ショップのドライブ・スルーで買った。満腹になった僕らは、中野区のアパートを目指した。

 駐車場に着くと、スポーツ・ドリンクでデオドラント剤を流し込み、アパートには無事に帰りつけた。正確にいうと、以前にアパートを訪ねてきた女子プロレスラー風の娘につかまった。女子プロレスラー風の女は僕を見つけると駆け寄ってきた。抑制剤は効いていたので、フェロモンともMHCとも無関係だ。

 野江を見て「あら、彼女なの」 と尋ねた。僕と野江の顔を見て「いつも、お世話になっています。新年もよろしく、お願いします」と挨拶した。

 僕は、野江の方を見て「別にお世話なんかしてない」と、気の抜けた返事のあと「この間は、プレゼントありがとう。手紙も読ませてもらいました」と感謝しておいた。フェロモン物質などの反応ではないとすると、天然キャラなのか――そう思ってみたものの、笑うに笑えなかった。僕は女性のハートに干渉し、コントロールしていた。

 自宅に着いて、ほっとした。外に出て動き回ったものの、風邪は大分良くなり、体温は平熱になっていた。やや、身体がだるく、喉がいがらっぽいが、一日、二日で治る症状だった。こんな大晦日は、生まれて初めてだった。しかし、アクシデントのお蔭で野江と一緒に過ごせたのは、素直に嬉しかった。

 夜になり、食卓テーブルに腰を下ろした。二人で、年越しの天ぷらそばを食べた。食が進むにつれて、僕は寛いだ気分になっていた。目の前に座る野江のセーター姿も、いつもより眩しく感じた。野江の柔らかな雰囲気は、いつ見ても魅力的だった。

 野江と二人でテーブルを囲むのは、なんとも自然で温かだった。それに、食欲をかきたてた。毎年、大晦日に食べるどの年の年越しそばよりも美味しかった。

「ごちそうさま。本当においしかったわ」と野江は満足げだ。

 野江は「もし、女の子を泣かせたら、地獄の業火に焼かれるわよ」と脅かした。

「さっき会った大柄の子とは、何でもない。僕は野江を裏切るようなマネはしない」

「それならいいけど。でも、ずっとここで暮らせないし。あなたが心配なのよ」

 食後、しばらくして、パソコンを立ち上げてメールを受信した。吉岡や盛本から「裕司、よいお年を」「今年は世話になったな」と、メールが届いていた。またしても、影法師は「忠告を無視するな。すぐに、そこを立ち去らないと、お前の身に危険が迫るぞ」と告げてきた。

 影法師は、僕が誰に狙われていると暗示しているのか、今一つ分からなかった。もし、何か特徴でも伝えてくれれば、警戒のしようがあった。僕は影法師に「いったい僕は、誰に何のために狙われている?」と返信してみた。

 影法師は「お前は、肉体の持つ秘密のせいで狙われている。忠告したのは、力のある危険な人物と傭兵たちがお前を探し回っている件だ。そろそろ、お前の居場所が分かった頃だ。気をつけろ」

 パソコン画面を野江が覗き込んでいた。

「また、影法師から、何かメッセージがきた」

 僕は野江を心配させまいと気遣い「なんか、前のメールと同じような通知が書いてあるだけだよ」と、とぼけて見せた。

 パソコンの電源をオフにすると、たいていの音楽好きの大人と同じで、大晦日に定番のクラシック曲をかけた。CDでベートーベンの第九に耳を傾けた。交響曲第九番は、ベートーベンの最高傑作の一つだ。第四楽章の「喜びの歌」のところでは、文字通り次の年の幸せを祈らずにはいられなかった。

 野江はどんな楽器でも、弾きこなせた。そういう連中は、どれも中途半端だが、野江のピアノやフルートの演奏は見事だった。もっとも、僕はアコースティック・ギターでコードを押さえて、かろうじて演奏できる素人に過ぎなかった。野江もN響の第九は毎年、年末に聴いていた。

「野江、今度さあ、僕のためにショパンの名曲をピアノで弾いてみてくれないか」

 音楽について、無知に等しい僕の願いだ。それでも、野江は承諾してくれた。

「独奏曲のマズルカか、ポロネーズがいいと思うよ」

僕が知ったかぶりをしたところ「はいはい。分かりました」

でも、それがいつになるか、分からなかった。

 野江は小さい頃は、研究者よりも音楽家になりたかった――と、打ち明けた。だが、学校の成績が良く、IQテストでいつも高得点の野江に対して、野江の父親は猛反対した。中学時代は音楽を禁止されていた。一時期、音楽を失い、音楽への愛、音楽に対する情熱、音楽を求める気持ちを失っていた。

 反動で、高校時代はブラス・バンド部に入部、大学時代は軽音楽部、社会人になってからも、週に三日は音楽教室に生徒として通っていた。ピアノとフルートは、教室を開ける腕前だった。

 第九のCDを止めると、野江に僕のアコースティック・ギターを手渡した。

「気が多いのね。じっくり、第九を聴かせてよ」と笑いながら、カーペンターズの「ジャンバラヤ」を弾き、歌を英語で歌ってくれた。

 時刻は午後九時を回っていた。隣室の老婆は息子が迎えに来て、出て行ったので不在だが、他の部屋の住人の迷惑になるので、長く演奏を聞けなかった。その日は一曲だけで我慢し、これからの計画を話し合った。

 その年一年を振り返っても、最後の五日間の特異性が強すぎて、他の様々な出来事や思い出はかすんでしまった。

 二十七日から大晦日にかけて、僕が一度は会いたいと思っていた三人の人物に偶然会う事ができた。研究所では、サーベル・タイガー復活プロジェクトの田所教授、警察署で藍愛警部、新宿区の路上で落語家の頓馬亭風教に会った。

 国立生化学研究所に勤務していると、いわゆる大学教授や大手メーカーの社長、政治家に会う機会が年に何回もあった。五日間に会った大物たちは、僕が個人的に会いたいと願いつつ、会う機会がなかった人たちだった。

 三年前に、新幹線に乗車する前に駅のホームで、アイドル本を読んでいたら女性歌手本人がマネージャーか誰かと、グリーン車の奥の席にいたのを見つけて、驚いた経験があった。僕はサインをもらうのを忘れていた。

 野江はしつこく、影法師が何を伝えてきたのか聞き直してきた。さらに「それが、今後の方針を決める上で重大だ」と強調した。

「影法師は、僕の味方だ」

「どうして、そんな風に決めつけられるの」

「今度のメールで、どんな奴が僕を狙っているのか伝えてくれた」

「密告者か、おとりの可能性は、考えられないかな」

「影法師は、力のある危険な人物と傭兵たちが、お前を探し回っていると告げてきた」

「力のある危険な人物? それに傭兵部隊?」

「そう、もしそいつらが僕の命を狙っているのならひとたまりもないよ」

「他に何か気になる内容はなかった?」

「お前は、肉体の持つ秘密のせいで狙われているとか、何とか」

「それで」

「もう居場所が、ばれた可能性を示唆していた」

「年末だし、あなたが研究所に来なかったから、居場所の特定に時間がかかったのね。それと、肉体の秘密が、もしMHCやフェロモン物質なら、研究所にも危険が迫るわ」

「どうしよう」

「もう少し、考えさせてね」

「藍愛警部に相談しようかな」

「それよりも先に吾妻所長に連絡しなきゃ」

 午後十一時三十分を廻っていた。これでは、さすがに吾妻所長にも藍愛にも連絡するわけには行かなかった。窓の外には、雪が舞っていた。年明けからは、僕の人生を左右する、闘いが待ち受けているかも知れなかった。

 少林寺拳法三段の僕でも、実戦向きかどうかは首を傾げざるを得なかった。影法師のいう傭兵たちが、プロの戦闘員や殺し屋で組織されたものなら、逃げるしか道は用意されていなかった。

 野江は「私も今日だけは、同じ部屋で寝る」と、柔和に微笑んだ。

「ああ、いいよ。でも、徹夜で話し合うのは御免だね」

 熱が下がり、咳が出なくなり、鼻水もましになった。が、完治しているような気がしないので、部屋の中でもマスクをしていた。

 小声で「野江っ、君が大好きだよ」と、ささやいてみた。

「『モゴモゴ、ゴニョ、モゴゴニョ、モゴ』としか、聞こえないわよ。もう一度、声に出してみて」

「君が好きだと告白した」

「それって、ラブじゃなくてライクなの」

「勿論、ラブだよ。愛しているよ」

「私も……」

 徹夜は、いやだと告げていたのに、僕が高校時代に「勉強する時間を犠牲にして、推理小説を読み漁っていた」と話すと

「じゃあ、私から質問ね」と、僕をテストし始めた。

「イギリスの架空の都市、ベーカー街の探偵で、女嫌いで有名な男。医者のパートナーと推理を展開する世界で人気ナンバーワンの人物は?」

「シャーロック・ホームズに決まっているよ」

『私の灰色の脳細胞』が口癖で、飲むチョコレート(ココア)が好きな探偵は?」

「エルキュール・ポアロ以外に誰が考えられる」

「じゃあさぁ、カトリック司祭でアマチュア探偵。友人が元盗賊なの」

「ブラウン神父だよね」

「パイプの愛好家で警察官。身長百八十センチ体重百キログラムの大男は?」

「それは、メグレ警視だよ」

「ロサンゼルスの私立探偵で『男はタフでなければ生きて行けない。優しくなれなければ生きている資格がない』の名セリフで有名な人は?」

「フィリップ・マーロウだ」

 さらに、明智小五郎の宿敵、怪人二十面相や、詮索好きの独身女性、ミス・マープルの推理力や独身主義になった理由まで、実に詳しく説明してくれた。僕は推理小説やハード・ボイルドの名探偵の話をし始めると、気持ちが昂ぶった。

 彼らは、なんて格好いいのか、なんて素敵なのかと惚れ惚れした。でも、野江のあらゆる分野への博覧強記は、娯楽小説にまで及んでいるとは、想像が及ばなかった。

 野江は、江戸川コナンまで知っていた。博識なのには、驚くばかりだった。結局、大晦日から元旦の朝まで、徹夜につき合わされた。治りかけた風邪が、悪化するのじゃないかと思った。野江の会話好き、議論好きには辟易するしかなかった。

 僕は布団に入ってすぐに、野江と手をつないだ。が、ドキドキしながら汗ばんだ手に意識を向けていると、野江は僕の方に、少しだけ身体を近づけてきた。午前四時四十五分に布団に入り、目覚めたのが九時過ぎだった。つまり、四時間十五分前後の睡眠だった。

 いつもと変わりなく、新しい年がやってきた。僕は朝に向かって進み出た。野江とは、ほとんど徹夜で話し合ったため、思っていたよりも遥かに辛かった。

 野江がカーテンを開けると、まばゆいばかりの光に叱咤され、僕の心と身体を打ち据えた。無慈悲な太陽光は、眠気に打ち負かされそうな僕に「早く起きよ」と命じていた。

 睡魔には抗えなかったが、無理に布団をはねのけた。目を覚ますと野江はすでに起きていて、集合郵便受けから年賀状を持って来てくれているのに気づいた。

 僕を取り巻く女たちは、ここに訪ねてくるたびに住所をメモしていた。年賀状は数え切れなかった。よく、郵便受けに収まったと感じた。生まれて初めて、キスマーク付の年賀状を受け取った。

「さあ、いつまでも、寝とぼけていないで、お雑煮を食べましょう」

 野江は年末、買っておいた餅を見つけ、鍋に火をかけると雑煮まで作ってくれていた。「初詣はどうする? 氏神様に行くよりも、デオドラント剤を使って、遠くの神社にお参りしましょうか」

「あれは、もうこりごりだよ。もっと有効な使い方をしたい」

 かぐわしい朝、かぐわしい食卓、愛くるしい野江。本来なら、どの年よりも素晴らしい一年になっていた。手の届くところにいる野江に対して、僕はキスをせがんだ。つがいの小鳥を手本にして、愛し合うのだって――。

 風邪ひきの僕は、野江に遠慮しまくり、我慢しまくり、ついに一線を超えていなかった。僕は昼なお暗き森の中にいて、手探りで愛の居場所を、恋の育て方を探し出そうとした。

 野江はよくハートとハートの関係こそ本物の愛情だと主張した。何かの駆け引きの対象だったり、欲望の奴隷になったりすると、恋の炎は燃え尽きると、野江は考えていた。

 それは、僕の価値観とも一致していた。男の僕としては一日も早く、野江を胸に抱きたかった。只、野江を傷つけたくないだけだった。僕が愛情ではなく、欲望を行動原理にしていたら、思いを遂げていた。我慢こそ、愛の証だった。

 僕はお雑煮を食べた後、眠気を押し殺し野江の姿を黙って見ていた。この先ずっと、僕が愛する女を抱きしめ、胸の鼓動に耳を澄ませる事ができたら――。一日一日を二人の幸福のために使えたらと、夢想していた。

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