地獄の沙汰も飯次第 下
「ヒダル神……?」
「疫病神憑き! お前、最悪の"不幸"を呼んだな! そいつは餓死者の集合体、ヒダル神。飢えのままに全てを食う、陰陽師が最も恐れた妖怪だ!」
「お前が封印されてた妖怪なのか?」
「何だよ、手前が呼んだんじゃねえのかよ」
白髪の男は瞳孔を細めた。
「気に食わねえな。手前に憑いてる奴が呼んだって?」
がちり、と鈍い音が響き、号刀の胸に電流のような衝撃が走る。
「何をした?」
「脅しただけだ。俺の前で三流の妖怪は出しゃばらせねえ」
男はケタケタと笑い、首を回した。
「で、手前は鬼火か? 人間みてえな匂いさせやがって」
「こいつの身体を乗っ取ったんだ。あんたを起こすために」
佐古は頰を引き攣らせ、媚びるように笑う。
「俺たち妖怪の時代が来た、ヒダル神。あんたの力が要る。あんただって人間どもに封印されて腹に据え兼ねてただろ? 俺たちはこのままじゃ終われない!」
号刀は地に転がったサーベルを拾い、握りしめた。
「その面でその言葉を言うな……」
再び木々がざわめき、闇が異形の手指を形取る。男が号刀の耳に口を寄せた。
「あいつを殺してえか? いいぜ。何百年も食ってなくて腹減ってんだ」
鬼火が上ずった声を上げた。
「違うだろ! あんたの敵は人間、俺は味方だ!」
号刀は目の前の妖魔と、傍の妖魔を見比べる。白髪の男は獰猛な笑みを浮かべた。
「奴に取り憑かれてる人間は傷つけず、あの化け物だけ殺す。できるか?」
「決まってんだろ」
男は金眼を歪めて、手を翳した。
辺りを覆う生垣が、圧倒的な質量で潰されるようにひしゃげていく。暗闇を捻じ曲げて、燻んだ白壁のようなものが迫っていた。小枝が弾け、闇に潜む腕が千切れ飛ぶ。
「何故下等な生物の肩を持つ!」
鬼火が豪炎が巻き上げた。吹き付ける熱に、号刀は思わず腕で顔を庇う。
「人間は下等、妖怪は上等かあ?」
白髪の男は喉を鳴らした。
「知ってるか、上等なもんの方が腹に溜まるんだよ!」
「ふざけ……」
鬼火の叫びは途切れた。
暗闇から巨大な歯が現れ、地獄の門のように開く。
刃の間から枯れ枝のような腕が伸びる。牙が打ち鳴らされ、渦巻く炎ごと佐古を掻き消した。
「佐古!」
駆け寄った号刀の前で、歯が塵になって消える。
現れた佐古が糸の切れた人形のように倒れ、号刀は辛うじて受け止めた。脈も呼吸もある。
「鬼火だけ食ったのか?」
男は号刀の問いに答えない。
「これじゃ足りねえ……」
「ヒダル神?」
「火だけじゃ腹は膨れねえ。まずは獣、腑の柔らかい血の通った生きモンだ……」
月光のように光る目で花屋敷を見渡し、男は獣じみた唸りを上げた。
「やめろ!」
号刀の伸ばした手を男が振り払う。歯軋り音が四方から響き出した。
「安心しろ、手前は食わねえよ」
汚れた草履が砂を噛んだとき、鈴を鳴らすような声がした。
「させないわ」
嵐の後のように草花の散った花屋敷に女がいた。
月を背に立つ巫女装束の女の長髪は、緋袴よりも赤い血の色だった。歯軋りの音が途端に止む。
「誰だ……?」
号刀が問うのと同時に、白髪の男が呟いた。
「
「わかるのね」
女が微笑む。
「号刀くん、心配しないで。彼は手を出せないわ。ヒダル神を封印したのは私の先祖だもの。私も当然その術は持っている」
「道理で。相変わらず化け物より厄介な気を出しやがる」
男は舌打ちした。号刀は当惑気味に辺りを見回す。
「初めましてかしら。私は八坂
女は唇に煙草を挟む。音もなく先端が燃え上がった。
「大変なことをしてくれたのね。貴方たちの処遇は署で決めます。とりあえず乗って?」
花屋敷の入り口に自動車が滑り込んだ。
後部座席に押し込められた号刀の隣に、当然のように男が座る。
八坂が気を失った佐古を助手席に乗せ、運転席に腰を下ろした。
車が走り出し、猥雑な明かりが河のように流れた。白髪の男は眉をひそめる。
「馬車じゃねえな。街も昼間みてえに明るいし、何だこりゃあ」
ハンドルを握る八坂が答えた。
「貴方が眠っている間に江戸は終わったの。今は明治よ」
窓に張りつく男を横目に、号刀は首を振った。
「本当にこいつが大妖怪なんですか?」
「そう、ひとも魔物も見境なく食い尽くす最悪の妖怪。妖怪たちは勢力拡大を狙って彼を起こそうと躍起になっていたみたい。解いたのは人間だったけどね」
車窓の外で、ひょうたん池が興行の旗や幟を映していた。号刀は助手席で項垂れる佐古を見た。
「佐古は鬼火に操られてたんです。こいつに責任はありません」
「自分の心配をすべきよ。でも、彼を一体どうやって手懐けたの? どんな陰陽師も調伏できなかったのに」
男が草履の先で号刀の脹脛を蹴って、先を促した。
「……俺を食う代わりに、佐古と俺の妹を守れと」
「人身御供ね。確かに一番強い契約だわ。彼にとってはそれ以上の意味があったでしょうけど」
八坂は夜の浅草を駆りながら呟いた。
「貴方の妹は
「朝とかもっと明るい名前がよかったってぼやいてましたよ」
答えてから号刀は口を噤んだ。
「何故妹の名前を?」
「知ってるわ。妹さんが未だに目覚めないのも、襲撃した妖怪の尻尾すら掴めてないのも」
浅草寺裏に入った車の窓から、新吉原の紊乱な灯が垂れ込めた。
「謎の妖怪が市民を襲い、陰陽師が調伏した妖怪が反逆して持ち主を乗っ取る。どれも今までになかったことよ。戦い方を考え直さなくちゃ」
八坂は車を停め、髪と同じ赤い目で号刀を除き込んだ。
「ヒダル神は脅威だけど、それは妖怪にとっても同じ。起こしてしまったものは上手く使いたいの。それには貴方が必要よ」
「どういう意味です」
「貴方とヒダル神が協力してくれるなら、佐古くんに責任は問わないし、妹さんの呪いを解く術も調べてあげる」
「断ったら?」
「考えたくないわ。未来ある若者が潰れるのは損失だもの」
号刀は深い溜息をついた。
「脅しじゃないですか」
「畏怖と報酬で縛るのは調伏の基本よ」
八坂は事もなさげに笑う。風もないのに破れた御守りが揺れた。号刀はもう一度息をつく。
「やりますよ。俺が始めたことの責任は取る」
「よろしい」
車が再び動き出す。夜光が遠のき、窓に反射した白髪の男の眼光が号刀を刺した。
歓楽街を抜け、現れたのは寂れた平屋だった。
「俺の家じゃないですか。署に行くのでは?」
「必要ないわ。貴方が断ったら始末書を書いてもらうつもりだったけど」
八坂は車を停め、ドアを開ける。号刀と白髪の男が降車すると、彼女は窓から身を乗り出した。
「ヒダル神を手懐けるなら飢えさせないことよ」
「どうすればいいんです」
「まず与えるのは貴方の名前。それが契約だもの」
粉塵を上げ、車が走り去った。まだ珍しい自動車の音に目覚めた住民が顔を出す。
「おっかねえ女だ」
白髪の男が目を細める。
「あのひとの先祖がお前を封印したって本当か?」
「おう、他の妖怪も一緒になってな。俺は人間と妖怪どっちからも怖がられてるからよ」
肩を揺らす男に花屋敷で見た禍々しさはなく、ただの痩せぎすの青年のようだった。
号刀は破れた御守りを握りしめ、口を開いた。
「俺は号刀
白髪の男は目を見開く。
「名前なんかねえよ。地震や雷に名前をつけるか?」
号刀は妹が眠る家を見遣った。空は夜明けの色に染まり始めている。
「じゃあ、俺がつける。
「その心は?」
「……浅草のヒダル神だから」
「単純だな」
ヒダル神は犬歯を剥き出して笑う。白髪が朝の陽光に透けて靡いた。
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