Chapter.1 戦争の街──A City in the War

第2話 episode.1 ブコバル(1)


 破壊される前、あのビルは、いったい何だったのだろう?


 大型のバンを走らせながら、エドワード・パーカーはぼんやりと考える。

 行く手に半倒壊したビルがある。建物のほぼ半分は完全な瓦礫と化し、残りの半分は、それが建物だったときのたたずまいを残しているけれど、おそらく上部に砲弾が落とされたらしい。ぽっかりと大きな穴が開いている。

 何かの悪いジョークのようだ。


「エド、もう少し、スピード出して運転しな」

 助手席のポールが、ハンドルを握るエドに呼びかけた。再度、道を確認しようとするのか、彼は明るい金髪をかきあげて、膝の上に広げた地図を覗きこんだ。


 エドよりも八歳年上のこのイギリス人は、戦争報道では名の知られたTVカメラマンだ。ヘビースモーカーであるのに、車内での禁煙を言い渡されて、イライラしているのか、人差し指でズボンの膝のあたりをひっきりなしに叩いている。


 ポールは、GBN――グローバル・ブロードキャスティング・ネットワークでのエドの上司にあたるが、彼は、上役というより年の離れた兄貴のようにふるまう。


「もう少しでオシエクのはずだけど、暗くなる前には、確実にブコバルの市街地入りしておかないと。日没後にこの辺りを運転するのは、殺してくれと言っているようなもんだぜ」

 ポールはごく淡々とそう言った。

 一九九一年七月のクロアチア――戦争の起こっている国にいるというのは、そういうことなのだ。


 二十六歳のエドにとっては、これが初めての紛争地域での現地取材だった。

 エドが運転している白いバンの横腹と上部には、青い文字で「PRESS」という大きなロゴが入っている。遠くからでも、上空からでも、この車両は報道機関のものだ、と周囲にわからせるためだ。だが、昼間でも、それは単なる気休めでしかない。ましてや夜になってしまえば、このあたりで、動いている車両はすべて標的になってもおかしくないのだ。


 後部座席に同乗しているリポーターのクレア・アボットと、写真家のロバート・オカザキは、疲れから眠りに落ちているのか、静かなままだ。もっとも、オカザキのほうは、起きていても、ほとんど口をひらかないのが常だったけれど。


 本来なら、この日系アメリカ人の高名な写真家は、フリーとして単独で仕事をする。が、今回のユーゴスラヴィアの戦況はあまりに厳しくて、取材するなら組織に属して、グループで行動するほうが賢明だと、彼も判断したらしい。


 古い知己であるポールを頼って、ブコバル行きを相談したら、GBNの上層部もオカザキほどの写真家の参加を二つ返事で承諾した。そんな経緯で、彼はこのクルーの一員になったのだ。


 オカザキは、ひどく寡黙だった。アジア系にしては背の高い男で、カメラを構える腕には、実用向きの硬そうな筋肉がついている。そして、とにかく口数が少ない。表情さえあまり変えない。


 運転を続けるエドの目に映るのは、壊されていく街並みだった。

 壁が吹き飛んだ家屋も見た。巨人に踏み潰されたように全壊した家も目にした。黒く焦げた煉瓦造りの石壁、飛散したガラスがそのままになっている目抜き通りのショウウィンドウ。

 それらすべてを、七月の白い太陽が照らし出していた。


 ──どれだけの血、どれだけの生命が奪われたのだろう?


 クロアチアの独立宣言に端を発した内戦は、急速に勢いを増しつつある。セルビア系自治区を支持する連邦人民軍との衝突で、中世カトリックの面影を色濃く残す美しいこの国は、引き裂かれはじめていた。


「あ──まただ」

「クソッ……また検問かよ」

 

 エドと助手席のポールは、ほぼ同時に声を上げる。行く手の道路を横切るように、二台の大型バスが止められているのが見えたのだ。


 急ごしらえの道路封鎖。バスの隣にはトラックが停められていて、その荷台には、カラシリニコフ銃をかかげた兵士が幾人か乗っている。


「今日で何回目かしら? ザグレブで二回、途中の連邦人民軍基地で一回……」

後部座席のクレアがそう言った。やはり眠りから覚めたところなのか、彼女の声は少しかすれている。


 バリケードの直前で、エドがバンを停車させると、トラックの荷台からバラバラと四人の兵士達が降り立った。

「僕たちは報道機関だ」

 運転席の窓を開けて、明瞭な発音になるように気をつけながら、エドは言った。ここではあまり英語が通じないのだ。


「Get out of the car. No camera.(車から出ろ。カメラはなしだ)」


 兵士の中の一人が怒鳴った。とりあえず、銃口は向けられていない。


 無言のまま、エドたち四人は車から降り立った。四人で車を背にして、一列に並ぶように指示され、それを四人の軍服を着た男たちに囲まれた格好だ。


 クレアは美しい唇をひきむすんで、豊かな褐色の髪を波打たせた横顔をきりりと上げている。オカザキのほうは相変わらず黙ったままだ。


 暑さのために、四人の兵士たちはアーミージャケットをはだけていて、その下からごく普通の若者の着るTシャツをのぞかせている。クロアチアの兵士たちのほとんどは、祖国が戦禍にのみこまれていくと同時に、慌てて銃を手にした者たちなのだ。


「Smoking. Smoking, OK? (タバコ。タバコ、吸ってもいい?)」


 車外に出られたポールは、さっそくそんなふうに兵士たちに尋ねた。彼が大仰なジェスチャーでタバコを吸う仕草をすると、兵士たちの間から低く笑い声が上がった。


 一番年長らしい兵士が、パスポートを見せろ、と片言の英語で言う。エドたちが言われた通りにそれを差し出すと、しかつめらしい顔でめくって、顔と写真を照合しだした。


「報道許可証もある。国連からのものだ」


 咥えタバコのポールが、後生大事に抱えている書類を取り出して、男の前に差し出した。


 兵士たちは何事かをクロアチア語で話しあった。中の一人がバリケードの奥の建物のほうへ駆けていき、しばらく経ってから、四十がらみの男を連れてきた。みごとな太鼓腹の持ち主だ。


「ええと……報道の人たち、ですね?」

 

 連れられてきた男は、ごく丁寧な英語でそう言った。スラヴ訛りは強いが、エドたちを取り囲んでいる四人よりも、かなりなめらかに話す。


「そうです。イギリスの報道機関です」

ポールが代表して口をひらいた。


「どこへ行くんですか?」

「これからオシエクを抜けて、ブコバルに行くつもりです」

 ポールがそう答えると、太鼓腹の男は、彼らの言葉で兵士たち同士で、何事かを話し合った。


「ええと、あなた方は、通ってもいいのですが……」

 太鼓腹の男が英語に切り替えて口を開いた。


「ブコバルは大変な状況です。それを理解していますか? ここから先は、国連の報道許可証を持っていても、行かないほうがいい。オシエクまで行ってしまったら、ここへは、引き返すこともできないかもしれない。それをわかっていますか?」

「承知してますよ」


 ポールがゆっくりと答えた。


 僕たちは、戦争というものの深部まで入り込もうとしているんだ──エドは今更のようにそう思った。

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